時のかたち
すりガラスから差し込んだ陽射しが台所を柔らかく照らしているが、まだ暗い。そんな中、コトコトと鳴る電気釜、シューと青い炎をとともに出るガス音、鍋から少しだけ漏れ出る香りが絶妙なハーモニーを作っていた。
卵を焼く手元は少しぎこちなく、菜箸を持つ手に力が入りすぎてしまう。それでも、市子は焦げ目のないように気をつけながら、丁寧に巻いていく。焼き上がった卵を切り分け、皿に並べた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
カチリと電気釜のスイッチが上がるのに気づいて時計を確認した。急いでご飯をよそおうとしたが、蒸らさなければいけないことに気づいて戻った。
年季の入った茶色い木製の棚から透明なグラスを取り出して牛乳を入れる。また、お椀を2つ、小皿をいくつか用意して、新しくも使い込まれた冷蔵庫から漬物をとりだしてよそった。
いい具合になったかと思い、釜を開けると炊き立ての米の甘い香りが立ち上った。
米をよそった後は、オタマをとった。鍋の蓋を開けると味噌の香りが一斉に広がり、家じゅうを包んだ。彼女は細い腕を伸ばしてオタマをとっては味噌汁をすくった。
食卓に一通り料理が並んだころには、陽の光が部屋全体に満ちていた。
陽一が寝間からきて一緒に手を合わせる。「いただきます」——その声は、自分に向けた小さな励ましでもあった。
陽一はすぐに仕事へ出ていった。今日も夜遅くまでは帰ってこないだろう。その間、少しの不安を感じながらも家を守ることが彼女の役目だった。
市場へ向かう道すがら、市子は小さな布袋を両手で握りしめて歩いた。朝の光が街をやさしく照らし、行き交う人々の足取りもどこか忙しげだ。角を曲がると、にぎやかな声が重なる市場の通りが見えてくる。彼女は朝の活気に少し圧倒された。
魚屋の前には、朝獲れの鯵や鯖が銀色に光りながら並べられていた。威勢のいい掛け声が飛び交い、氷の上に並べられた魚たちがキラキラと光る。市子は少しうつむきながら、店主に声をかけた。
「これ……少し、安くなりませんか」
店主は笑って「お嬢ちゃん、負けとくよ」と答える。
市子は小さく頭を下げて、魚を新聞紙で包んでもらい、それを布袋の中へ大切に収めた。
八百屋では、色とりどりの野菜が山のように積まれている。小松菜、にんじん、ねぎ。土の香りが強く漂う中、市子は静かに品定めをする。目に留まった大根を手に取り、表面のざらつきをそっと確かめる。少し重くて、瑞々しい。間違いなく今朝のものだ。
「これください」 そう言うと、店のおかみさんはにこにこしながら袋に入れてくれた。
「若いのに、えらいねえ」と言われて、市子は顔を赤らめながら笑った。
市場を出るころには、袋の中は温かさと香りでいっぱいだった。魚の塩気、野菜の青い匂い、人々の声が混ざり合って、今朝の市場はいつもより少しにぎやかに感じられた。市子は歩きながら、今夜の献立を思い浮かべた。
昼近くになり、陽が高く昇る頃、市子は洗濯物を取り込む。風に揺れる布地が朝の光を受けてふわりと舞う。遠くの空を見上げれば、工場の煙突から立ち上る煙が、昼の青空にゆっくりと溶けていく。市子はその雲の流れが早いのに戸惑いながらも、静かに身を委ねていた。
季節が巡り、彼女の人生にも変化が訪れた。
小さな命を腕に抱いた瞬間、空気が変わったような気がした。窓の外では昼の光が満ちており、遠くで鳩が羽音を立てて飛び立っていく。
市子はそっとその頬に指を添えた。赤ん坊の肌は信じられないほど柔らかく、ぬくもりが指先からじんわりと広がっていく。
しんとした病室の中、時計の針の音がやけに大きく響いた。痛みの余韻がまだ体の奥に残っていたが、それでも彼女の胸の中には静かな確信のようなものがあった。
「この子のために、私はもっと強くならなくちゃ。」
か細い声でそう呟いたとき、赤ん坊が小さく動いた。まるでその言葉に応えるかのように、手が少しだけ彼女の指を握る。市子の目に、涙が浮かんだ。
遠くで足音が聞こえる。誰かがドアの前に立ち、そっと覗いている気配がした。でも市子は目を閉じて、その瞬間だけに身を預ける。
窓から差し込む光が、ふたりをやさしく包んでいた。
久しぶりのショッピングに楽子は来ていた。
ショーウィンドウには秋物のジャケットや燕脂色のパンプスが並んでいるけれど、それを見つめる周りの目線の多くは、どこか慎重だ。
友達が何気なく「ボーナス減ったって言ってたよ、うちの兄」と口にしたとき、楽子はほんの少し、目を伏せた。
そうつぶやいた声は小さかったが、たしかだった。
ウィンドウ越しに並んだミニスカートに、友人が「これ、流行ってるんだよ」と笑った。
ショーウィンドウのガラスはぴかぴかで、マネキンが履いているスカートは、布地が軽やかに波打っていた。楽子はそれを目で追いながら、そっと自分のスカートの裾に目を落とした。揺れるロングスカートの布地に、ほんの少しだけ安心を覚える。
「私には、ちょっと無理かも」
そう呟くと、友人は「そんなことないよ」と笑ってくれた。けれど、楽子は微笑み返すだけだった。
無理、というより、似合わない気がしたのだ。脚を出すことにどこか不安があった。自信というより、そういう服に求められる“空気”に自分が合わないような気がした。
そのままふたりは階を移動して、服飾雑貨のフロアへ足を運んだ。セールが始まっていて、ショッパーを提げた人々が行き交うなか、楽子は小さな花柄のブラウスを手に取った。柔らかな素材と控えめな模様に心がひかれた。
「それ、らくちゃんっぽい」
「そう?」
「うん。なんか、ちゃんと主張しないのに、ちゃんと可愛いって感じ」
楽子は小さく笑って、それを試着室へ持っていった。着てみると、ロングスカートとも相性が良く、鏡のなかの自分が少しだけ軽やかに見えた。
「どうしようかな……」
「似合ってるよ。買っちゃえば?」
「うん……でも、今日は見るだけにしとく」
少し申し訳なさそうに言いながら、楽子はブラウスを元のハンガーに戻した。
二人は身軽なまま店を出ることにして、駅まで並んで歩いた。
道すがら「ねえ、まだ携帯持ってないの?」と友人はいう。
楽子は少しだけ口元をゆるめて、眉を下げた。
「うん。なんとなく、なくても平気かなって」
「でもさ、みんな持ってるよ? メールもできるし、待ち合わせのときとかも便利だよ?」
「そうだよね。けど…なんか、追いかけられてるみたいで。たぶん私、遅れてるんだと思う」
友人は軽く笑いながらも、「そういうとこ、変わらないよね」と言って、ポケットから自分の折りたたみ式の携帯を取り出した。楽子はそれを見つめたが、手を伸ばすことはなかった。
「でもさ、楽ちゃんがそういうの苦手なの、昔からわかってる。きっと、それでも大丈夫だよ」
「うん。ありがとう」
そう言って二人は別れた。夕暮れの風が、どこかやさしく頬を撫でていった。
次の日、午後を過ぎてからはスーパーでパートだった。
向かう途中、閉店したままの書店や、小さくなったセールの貼り紙が目に入る。盛況の名残りは街のあちこちにあるが、それはどこか、色褪せた装飾のようにも見えた。
スーパーの品出しの仕事も、「以前より人を減らされたのよ」と同僚がこっそり言っていた。楽子は自分の位置を守るように、静かに、でも丁寧に手を動かす。トレイの上でずれたプリンのパックをそっと揃え、ポップの紙がよれていればまっすぐに直す。
「ありがとうね、いつも助かるわ」
小さな声で同僚が言ってくれるだけで、楽子はなんとなく、少し背筋が伸びるような気がした。
「この前ね、バターの仕入れ、減ったって。前は余るくらいあったのに」
そんな話が耳に入るたび、彼女は棚を拭く手に少しだけ力をこめる。何かが、静かに変わっていっていた。
退勤の時間、外はすっかり暮れている。バスに揺られながら、楽子はバッグの中に入れたCDプレイヤーのイヤフォンを耳にあて、目を閉じる。バスの揺れと音楽の組み合わせが、心の落ち着く場所をつくってくれていた。
20時を過ぎた頃の職場の会議室の白い蛍光灯がどうにも苦手だった。話し合いが始まると、意見を次々と口にする同僚たちの中で、自分の声が妙に浮いてしまうように思えた。一緒に入社した同僚の男性はいつも忙しく、声が大きく、前に進むことに迷いがなかった。
「女性だってもっと上を目指せる時代だよ」
ある先輩社員が笑いながらそう言ったとき、彼女はうなずきながら、心のどこかが静かに冷えていくのを感じた。目指したいものが分からないまま、評価されるために動かなければならないことへの違和感。その一歩が、どこか無理をしている気がした。
書類をきちんと揃え、期限を守って淡々と仕事をこなす。誰にも迷惑をかけず、目立つこともなく、それで十分だと思っていた。だが、会社の空気はいつの間にか変わっていた。積極性、スピード、コミュニケーション力。評価の基準は、静かに座っているだけでは満たされなくなっていた。
仕事終わりのスーパーは、一日の終わりをさらに際立たせる場所だった。冷たい蛍光灯の下、値引きシールの貼られた惣菜が並び、買い物かごに入れていく手もどこか機械的だった。周囲には無言の人が行き交い、セルフレジの機械音だけが無機質に響く。レシピアプリを開いてみても、そこに浮かぶ献立はどれも味気なく思えた。
結局何も買わずに家へと帰ることにした。歩きながらスマホに目を落とすとスマホの画面が青白く光った。ニュースアプリを開いては見ても、そこにあるのは淡々とした文字の羅列だった。夜道を歩く足音だけが妙に耳につく。情報は溢れているのに、知りたいことはどこにも書かれていない。
アプリで注文した唐揚げ弁当が、紙袋に入って玄関前に届けられていた。箱を開けるとまだ温かい湯気が立ちのぼる。けれど、どこか遠いものに思えた。思ったものよりも唐揚げの量が多かった。しかし誰かと分かち合うわけでもなく、冷蔵庫へ入れればいつでも食べられると思った。
SNSの通知音が鳴っても、それを開く気にはなれなかった。賑やかな時間はすでに遠のき、今はただ、夜の闇が広がるばかりだった。
狭い部屋へ入ると、エアコンが自動で稼働し、温度を調整してくれていた。AIも「お帰りなさい」と話しかけてくれる。けれど、誰かと過ごすための家ではない。誰とも言葉を交わさないまま、日々が過ぎていくようだった。
ワイヤレスイヤホンをつけて外と遮断してみた。流れる音楽は好きだったけれども、もう何度も聴いて心に響かなくなってしまった。
そのままベランダに出ると、風が強く吹きつけた。洗濯物などほとんどなく、遠くのベランダで、夜の闇のなか、タオルがただひとつ、音楽に合わせて、無言で揺れていた。彼女はそれが愛おしく思えた。遠くの街の灯りは小さく、頼りなく瞬いている。
音楽が終わった。静かすぎる夜は、まるで世界から切り離されたような感覚を呼び起こす。
太子は何かを探し続けた。何かが自分には足りていないと感じた。だけどそれをすでに見つけているような気もしていた。それが彼女にはわからなかった。