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第1話「白い病室の必然」

 時々、自分の存在が曖昧になる瞬間がある。


 鏡に映った姿が、一瞬だけよく分からなくなる。

 誰かに呼ばれた気がして振り返っても、そこには誰もいない。

 目が覚めた時、自分がどこにいるのかすぐには分からない。

 そんな些細な違和感の積み重ね。


 私たちは、そういう瞬間を「気のせい」として片付けてしまう。

 目の疲れ、寝不足、ストレス。

 理由をつけて、不確かな感覚を遠ざける。

 そうやって、世界の輪郭を鮮明に保とうとする。


 でも、もしかしたら。

 その「気のせい」こそが、世界の本質なのかもしれない。

 私たちが「現実」と呼んでいるものは、

 ただの習慣的な観測の結果に過ぎないのかもしれない。


 通学路の曲がり角。

 いつもと同じ景色なのに、時折見知らぬ街に迷い込んだような錯覚。

 教室の窓から見える空。

 昨日と同じはずなのに、どこか違う色をしている気がする。

 放課後の校舎に残る誰かの足音。

 振り返れば、そこには誰もいない。

 でも確かに、誰かがいた気配だけが残っている。


 確かなものなど、どこにもないのかもしれない。

 私たちが「現実」だと思っているものは、ただの習慣で、

「普通」だと信じているものは、単なる多数決なのかもしれない。

 その「多数決」から外れた瞬間、世界は途端に不確かになる。


 写真に写るはずのないものが写り込む。

 写っているはずのものが、跡形もなく消えてしまう。

 記憶と記録が、少しずつずれていく。

 誰かの存在が、まるで霧のように溶けていく。


 目を閉じて開けば、また普通の世界が広がっている。

 でも、その「普通」が本当に普通なのか、

 もう誰にも確信が持てない。


 この物語は、そんな「気のせい」の正体に気づいてしまった者たちの記録。

 存在の確かさが、まるで波のように揺らめいていく中で、

 彼らは何を見出すのだろうか。


 そして私たちは、本当に「存在している」と言えるのだろうか。

 それとも、誰かの観測が作り出した、

 可能性の束の一つに過ぎないのだろうか。


 その問いの答えを求めて、物語は始まる。

 白い病室の静けさの中で。

 午後三時、テレビの音が流れ始める──。


「人間は、社会の役に立つために生きているんです」


 引退したアスリートが、真摯な表情で語りかける。

 事故で選手生命を絶たれた彼は、今は子供たちにスポーツを教えているという。

 素晴らしい生き方だ、とコメンテーターが褒め称える。

 画面の中の人々は、みな穏やかに笑っている。


 私は、消音ボタンを押した。


 白い天井を見上げる。

 空調の微かな振動音だけが、静かな空間を満たしていく。

 長い前髪が視界にかかり、指でそっと払う。

 事故前はもう少し短くしていた気がするけれど、今はどうでもいい。

 女子高生『らしさ』なんて、今の私には関係のないものだった。

 ナースステーションから、時折看護師たちの話し声が漏れてくる。

 時計の針が、午後三時を指している。

 まもなく、リハビリの時間。


「社会の役に立つ」


 その言葉を、私は何度も反芻する。

 もっともらしい響き。正論めいた重み。

 でも、それは誰のための言葉なのだろう。


 四肢の自由を失い腕を持ち上げるのもやっと。

 そんな私に、どんな貢献ができるというのだろう。

 ベッドの上で、私は考える。

 想像しようとする。

 社会の役に立つ自分の姿を。


 でも、何も浮かばない。

 描こうとする未来が、霧のようにぼやけていく。


「澤野しずるさん、リハビリの時間です」


 看護師の声に、私は目を開けた。

 いつもの車椅子が、ベッドの横で待っている。

 キャスターの軋む音が、やけに鮮明に耳に残る。


 不意に、ピースがはまるように記憶が蘇った。

 幼い頃の、公園の風景。

 ブランコに揺られながら、何を考えていたのだろう。

 きっと、何も考えていなかった。

 ただ、そこにいた。

 風を切る音を聞きながら、空を眺めながら。


 生きる意味なんて、考えもしなかった。

 社会の役に立つなんて、思いもしなかった。

 ただ、在った。


 今の私には、遠い他人の記憶のよう。


 リハビリ室の平行棒の前で、私は考える。

 幸せを求めることが、人間に与えられた定めだというのなら。

 それは私にとって、呪いでしかない。

 永遠に手の届かない希望に、縋りつき続けることを強いられる呪い。


「一歩、進めますか?」


 理学療法士の先生が、優しく声をかける。

 その声に、私は小さく頷いた。


 一歩。

 また一歩。

 動かない足を、意識の力で引きずるように。


「こんなことをして」

「何になるんでしょう」


 私の呟きに、先生は立ち止まった。


「今、踏みしめた一歩は」

「確かに、あなたが選んだ未来ですよ」


 その言葉に、私は息を呑む。


 窓の外で、影が揺らめいた気がした。

 でも、それは一瞬の幻に過ぎない。


 部屋に戻ると、夕暮れが始まっていた。

 明日も、同じ時間が流れる。

 意味のない時間。

 価値のない時間。


 でも——。


「必然なのだ」


 私は、自分に言い聞かせる。

 これは全て、運命の歯車の一部。

 大きな川の流れの中の、小さな渦のような。


 人生には、本質的な意味など無い。

 あらゆる理不尽も、その流れの一部でしかない。

 私たちに求められているのは、ただその旋律を乱さないこと。

 それだけ。


 何をするのも自由。

 そして、何をしても意味が無い。


 その認識が、不思議な安らぎをもたらす。

 必然を受け入れることで、逆説的な自由が訪れる。


 窓の外で、また影が揺らめく。

 形の定まらない、黒い靄のような何か。

 見つめれば見つめるほど、輪郭が溶けていく。


 私は、目を逸らさなかった。

 理解できないまま、ただ見つめ続けた。


 明日も、リハビリがある。

 明日も、意味のない時間が流れる。

 明日も、必然が私を包む。


 それは、呪いなのか。

 それとも、救いなのか。


 その答えを探すように、私は再び天井を見上げた。

 時計の秒針が、静かに時を刻んでいく。


「あの時、こうしていたら...」

 なんて。


 誰もが一度は抱く空想に耽るのは、もうやめた。

 現実は静かに、でも確実に私の身体の奥へと浸透していく。

 黒く蝕むように、私の胸の苦痛を埋めていくように。

 白いベッドの上で寝たきりの、私という存在を確定させる。


 記憶の中で、何度も再生される場面。


 道路に佇む、黒い靄のような影。

 その不確かな輪郭が、あまりにも頼りないから。

 私は、手を伸ばした──。


 瞬間。強烈な痛みと共に、私の身体はトラックに跳ね飛ばされていた。


 そうして四肢の自由を失い、果てしなく白い病室でただ呼吸を続けている。

 差し込む薄オレンジ色の夕日が、母の腕のように温かかった。

 涙を浮かべる前に、午後の風が夢心地の頬をつねる。


「全て、必然だった」


 そう、考えるしかなかった。

 この世界で起きる全ての事象には、必ず理由がある。

 猫が現れたことも、私が助けようとしたことも、トラックが来たことも。

 それらは全て、あらかじめ定められた運命の歯車の一部なのだ。

 私が生まれた瞬間から、この現実は決定されていた。

 だから、手の届かないものを求め続けることは、無意味でしかない。

 そう、悟ったのだ。


 病室のノックの音が聞こえた時、私はいつものようにその音の正体を予測する。


 1: 看護師の定期巡回

 2: 両親の面会

 3: 主治医の回診


 ドアが開いた時、そこにはクラスメイトだった中村隼士くんの姿があった。

 結局、私の予想はどれも外れてしまったのだ。

 必然を予想することは、難しい。

 何故なら、多くの必然が複雑に絡み合い相互に影響しあっているから。


 人は、それを偶然と呼ぶ。

 だけど、私は知っているのだ。

 それは、とても複雑なだけで必然であることに変わりは無いということを。


「やぁ、澤野」


 中村くんは、窓際の席に座った。

 夕日に照らされる彼の横顔は、まるで計算しつくされたように全てが完璧に整っていた。

 白いマスクの中から、時折微かな吐息が漏れる。

 何か言いたげな表情を、彼は何度も浮かべては消した。


 彼は、きっとモテるだろう。

 普通に学校に通い、クラスメイトと談笑し、幸福を噛みしめて。

 そんな彼に、私は嫉妬してしまった。

 だから、少し意地悪をしてみたくなったのだ。


「具合はどう?」


 当たり障りのない質問に対して、私の頭の中でいくつかの選択肢が浮かぶ


 1: 「うん、大丈夫」(相手を安心させる標準解)

 2: 「最悪」(本音だが、相手を困らせる)

 3: (黙って微笑む)(無難な対応)


 これらの選択肢は、既に結果が決まっているはずだ。

 私の性格、状況、相手との関係性。

 全ての要素を考慮すれば、私がどの選択肢を選ぶかは、既に決定されているはずなのだ。


 だからこそ——。


「すっごく元気!毎日が充実してて、むしろ事故に遭えてラッキーだったかも!」


 私は最も不自然な、最も私らしくない選択をした。

 大げさなジェスチャーと共に、まるでアイドルのような声色で。


 その瞬間、不思議なことが起きた。

 中村くんの表情が、一瞬だけ凍りついたように見えた。

 そして彼の輪郭が、まるでテレビの砂嵐のように揺らぎ始める。

 夕陽の光の中で、彼の姿は徐々に透明になっていった。

 最後に見えたのは、どこか切なそうな笑顔。

 私に何かを伝えようとした彼の口が、音もなく動いて──。


 次の瞬間、彼は完全に消失していた。

 窓から差し込む夕陽だけが、彼がいた場所を照らしている。


「澤野さん」


 突然、主治医の声が響く。


「退院の準備ができました」


 一瞬、意識が飛んだ。

 医者の声が遠く、つい先ほどの出来事のようにも遥か以前のことのようにも思えた。

 無理やり継ぎ合わせた布のような、歪な時間のつながり。

 ぼやけ続ける視界の中心に、見たことのある光景が浮かび上がってきた。


 道路の中心に佇む靄のような、黒猫。

 その猫がこれからトラックにひかれるであろうことを、何故だか確信していた。

 咄嗟に、目を逸らしそうになる。

 だけど、私の目は釘づけにされたように道路の中心を見つめ続けていた。

 目を逸らしては、いけない。

 何故だか、そんな気がしたのだ。


 でも、あの時と違って、私は黒猫を助けようとしなかった。

「助けない」と決めた瞬間、視界の隅にもう一つ見慣れた存在が映る。


「やめて!」


 私の声は、彼には届かない。


「クロ、危ない!」


 中村くんは、その猫のことをクロと呼んだ。

 そういえば、以前に聞いたことがある。

 彼が可愛がっていたペットの猫が、確かクロって名前だったっけ。


 その瞬間、私は走り出していた。

 もしこのまま見殺しにしたら、私はきっと後悔する。

 これが必然だとしても、運命だとしても、何一つ未来が変わらないとしても。

 私は決して「私らしい選択」を、手放してはいけないのだ。


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。


「早く写真撮っとけよ」

「うわ、足、逆向きじゃん...」

「こんなの助かんねーよ」


 誰かの声が、遠くで交錯する。

 それは私への言葉なのに、まるで物を扱うような響き。


 白い光の中で、私は見つめていた。

 アスファルトの上に横たわる、おぞましいまでに歪んだ肉の塊を。

 それが私自身だと気づくまでに、少し時間がかかった。


 制服のスカートが風に揺られ、その下から覗く足は、人体の構造を完全に無視した角度で折れ曲がっている。腕は......腕はどこにあるのだろう。血の匂いが、吐き気を誘う。


「おい、誰か警察呼べよ」

「スマホ、動画撮っとく?」

「やめとけって。この制服、うちの学校じゃん...」

「マジで?誰だよ」


 意識は空中に浮かび、その光景を見下ろしている。


 その時、群衆の中に、一つの異質な存在を見つけた。

 若い物理の先生。春川先生だ。

 いつもの穏やかな表情で、白衣のポケットに手を入れたまま立っている。


 彼は、群衆の誰もが気づかないように、ゆっくりと近づいてきた。

 その瞳には、凄惨な事故現場などどこにもないかのような、澄んだ光が宿っている。

 まるで、教室で物理を説明する時と同じように。


「シュレーディンガーの箱の中で、量子は重ね合わせの状態にある」


 先生は、いつもの調子で語り始めた。


「コペンハーゲン解釈によれば、観測行為によって波動関数は収縮し、一つの状態に定まる」

「でも、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈では、観測それ自体が分岐を生む」

「アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスすら、平行世界の存在を示唆している」

「量子もつれ、非局所性、そして意識による波動関数の収縮」


 彼の目が、異常な輝きを帯びる。


「私たちは今、観測と非観測の境界にいる」

「あなたの意識は、まさに重ね合わせの状態」

「ヒルベルト空間における固有状態の無限の可能性」

「デコヒーレンスによる古典的現実の出現」

「この瞬間にも、無数の分岐が...」


 黒い靄のような影が、先生の足元を横切った。


 それは形を持たない闇のような、そこにあってないような、不確かな存在。

 どこかで見た影。いつか見た影。

 記憶が、靄のように混ざり合う。


 その影は、地面に横たわる私の肉体に近づき、触れようとする。


 途端、周囲の喧騒が遠のいていく。


「存在それ自体に意味など無い」

「でも、意味が無いということは」

「すべてが意味を持ち得るということ」


 先生の声が、いつもの教室での声とは違って、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。


 救急車のサイレンが、現実を引き裂くように近づいてくる。

 赤と白の光が、街を染めていく。


 私の意識が、ゆっくりと沈んでいく中で。

 先生の理論が、頭の中で反芻される。

 そして、決定的な違和感が、全身を貫く。


 その瞬間、私には見えた。

 黒い霧のような影が、確かな輪郭を持ち始める様を。

 それは紛れもなく、一匹の猫の姿。


 多世界なんて、存在しない。

 私たちは、ただ一つの現実の中にいる。

 そう理解した瞬間、全てが明確になった。


 救急車の揺れが、遠くで感じられる。

 医師たちの声。

 機械の音。


「もう、ダメかもしれません」

「いや、まだ...」


 意識が完全に途切れる前に、私は確かに見ていた。

 黒猫の、凛とした姿を。

 そして、それが示す必然の真実を。

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