第70話「嘔吐」
そうしてまた、アートの邸宅に帰ってきた。
無人の邸宅から出る「おかえりなさい」の言葉が要らぬ空間を空しく反響する。
いつものリビングで、それぞれが定位置に座り、あるいは横たわる。
微かな生活音だけが聞こえ、そこまで一切の会話は無かった。
このまま永遠に会話のないまま、ひと月、ふた月と過ぎ去ってしまうのではと錯覚してしまうほどの長い沈黙。
もう、到底口を開く気にはなれなかった。
だが、勇気ある彼だけは違った。
こちらを見つめ、致命的なまでに真剣な表情で俺らと向き合ってくれた。
「今は何の言葉も聞きたくないというのは百も承知だが、今後の君たちのために、今から指示することをよく聞いてくれ」
その言葉に、俺らは耳を傾ける。
「今日、明日は思考もままならない。この一件で、剥き出しの感情が心を逆撫でするだろう。だがそれに飲まれるな。考えすぎるな。まずは落ち着くことが何より重要だ」
彼らしいアドバイスだ。
簡単な事じゃないが、飲むしかない。
「そして、もう一つ。……1人になるな、今後は必ず2人以上で行動するんだ」
あぁ、そりゃそうだ。
一人でいたら、何をするか分からない。
なんせ自身のコントローラーを己で握れていないのだから。
言い終わると、彼は俺とヨハンナの方を向いた。
「ユウト、ヨハンナ嬢。君たちは2人で部屋に戻るといい。我々3人はリビングにいる。バイタルチェックは適宜させてもらうが、それ以外は自由にしていてくれ」
そのマイケルの配慮は、俺たちを精神の死から守るための唯一の正解だ。
だが同時に、あの男が宣告した“深く絶望した娘を慰めろ”という計画の通りに動かされているという、吐き気を催すような事実でもあった。
それでも俺たちは、従うしか選択肢がない。
彼はいつだって合理的だ。
もしエドワードに従ってでも、俺らがやらなくちゃならないことを冷静に見極められる能力が彼にはある。
確かに今は、二人で話さなきゃならないことが多い。
それが何かはまだ整理がつかないが、きっと、ここで話さなければ金輪際、そのチャンスは巡ってこない。
俺らはその言葉に頷いた。
まだハッキリとしない意識の中、朦朧と二人で部屋へ向かった。
ゆっくりと、砕け散った意識の粒を拾い集めるように前へ、ぽつりぽつりと歩く。
心ばかりは緩慢を望んでいるわけではないが、身体はそうでもないらしい。
やっとの思いで、部屋の近くまで来る。
だが後ろ目に彼らの姿が見えなくなった瞬間、ハンナはトイレへと吸い込まれるように駆け込んだ。
そのまま扉も閉めず、彼女は便器へ嘔吐した。
俺は反応が一瞬遅れた。
駆けつけて、彼女の背中をさすった。
「大丈夫か!?」
その後も彼女は何度か嗚咽をした。
「……平、気、大丈夫」
俺の腕を押しのけるように立ち上がり、彼女は口をゆすいだ。
そんな非日常が目の前で起こっても、俺はどこか他人事のような気がした。
目の前で退屈な映画が繰り広げられているような、そんな感覚だった。
しかし不思議とその座席を離れようとは思えなかった。
惰性で動く身体だけが、その後の俺を部屋へと運んだ。
辿り着くと、俺は暗闇に吸い込まれるようにベッドに座る。
焦点の合わない目には虚空だけが映った。
ハンナは立ち尽くしたままだった。
部屋の扉にガチャリと断絶の鍵をかけ、ゆっくりとこちらを振り向く。
「……サミュ、エルは」
口をゆすいでも消えない吐き気を堪えるように、彼女は荒い息を吐く。
「私の、唯一の……理解者、でした」
短く、切り詰めた言葉が彼女の口から出る。
「幼い頃から付きっきりで、私の傍にいました。信頼、などという言葉では到底表せないほど、私は彼を信じています。……信じて、いました」
悲しき過去形。
もしサミュエルの個体があと何体もいようと、彼女の中でのサミュエルはあの瞬間に死んだのだ。
「……最初から、なの?サミュエルは最初から、偽物だったの?それとも、途中から?何度問うても、答えは見つからない」
彼の行動の全てが、操られていたようには見えなかった。
ヒューマノイドだったとしても、彼の意思が明確に反映されているように感じた。
あれが、もしエドワードの仕組んだ性格や行動であったのなら、やはり俺たちは逃れられないその運命の奴隷であると言わざるを得ない。
彼女の喪失感がどれ程のものか。
苦しいが俺には想像もつかない。
「父君が偽物にすり替わっていたアーサー様が感じた悲しみ。それと同じ、とまでは言わない。けれど、私は、サミュエルが目の前で四散した時、心が壊れました。全てが、私のせいだと。声すら、出せなかった」
さっきまでは俺も必死だった。
彼女の反応が本当はどうだったか、もう何一つ覚えていない。
だが確かにあれが俺にとって育ての親にも近い存在であったのなら、俺もすぐに反応出来る自信はない。
「あんなにも……、私のために、動いてくれていた彼が……。彼の最期が、あんな……」
涙ぐむ彼女は、それを必死で抑えながら話した。
強くあろうとしているのが分かる。
だがそれは、彼女の悲しみと痛々しさを増幅させるばかりだ。
「サミュエルが、偽物だというなら。貴方は、一体、何?……何なの?」
俺は一体何者か?
全てハンナが太陽へと昇華するための儀式に使われた、俺の人生、アイデンティティ。
それらが、なんなのか。
「……分からない」
君にとっては本物でも、それは世の中にとって偽物なのかもしれないから。
俺が答えると同時に、彼女はサムの悲しみを誤魔化し、吹き飛ばすかの如く熱が帯び始める。
「私……、どうすればいいの。貴方を苦しめるって分かっているのに、貴方を求めるしかない。貴方にとって、私は仇なのに」
よろめくように彼女は俺に近づいてくる。
苦しめているのは君じゃなく、エドワードだ。
そう、言えたなら。
「私だって出来ることなら、拒みたい!貴方を拒みたいのに!私の心は!もう貴方がいないと生きていけない!私は……。私は……!……貴方を、苦しめないと、私が……苦しいの……」
彼女はダムが決壊したように泣き始めた。
手で涙を拭っては話し、拭っては話す。
その姿を見て、あの男の計画が浮かび上がる。
どうしても重なる、白化という言葉。
彼女を想うことは即ち、奴の計画の進行を意味する。
だけど。
「……俺だって、君がいないと生きていけない」
そう言うと彼女はハッとしたように俺を見る。
何を感じたか、彼女の涙の量が少なくなった。
だけどこの言葉は、本心と言うよりはもっと邪悪なもの。
「そう、仕組まれてるんだって」
忌々しいあの男にコントロールされた感情だ。
特に、君にとって俺は、作り出された存在。
嘯いた安定剤に過ぎない。
「私は……、貴方にとって――」
そんなの、俺が知りたい。
君は俺にとっての何なんだ?
「……分からない。分からないよ」
近づく彼女に首を振った。
「……何度、前に進むと、何度、強くなると誓っても私は立ち止まってばかり。それすら仕組まれたものだと納得してしまえれば簡単だけれど、そんな事は不甲斐なくて、格好悪くて……。怖いの」
彼女は震えを抑えるように握りこぶしを作る。
「……俺も怖い。ただ君を姉さんの代わりの道具にしているんじゃないかって。出会ったのは運命では無く、作られたものなんだって、認めるのが。……堪らなく、怖い」
口にする事で分かる、新たな恐怖。
あの場ではどこか大それた計画のように思えたそれが、今目の前で自覚に変わりつつある。
手元がおぼつかない。
微かに震えていた。
「君は……、ただ、運命が遣わした、女神や天使だって。そう、思いたい。さっき言ってたことは、あの男の、強がりで。君は、俺の……、俺の――」
次の言葉は無い。
頭の中に、言葉は無い。
作り物の頭では、これが精一杯みたいだ。
詰まった言葉をかき消すように紡ぐ。
「――はは、駄目だ。こんなんじゃ、俺ら」
言葉につまづきながらも、気持ちだけは加速していった。
「いっそのこと、諦めた方が」
何をしても無駄だ。
口にしてから、その言葉の重さに息が詰まった。
俺らが今後どう動こうとしても、あの黒い太陽が見張っている。
どんな行動をしても、あの物体には世界を見通す力がある。
現に今、俺らは為す術もなく、戦うことすら出来なかった。
そのままくたばることすら許されなかった。
「幸せなのかも」
信じていた。
人生ってのはそれぞれに与えられた権利で、自由で、何人にも侵されぬ神聖なものだと。
だがこの世界では、それすらも他人の許可が必要だった。
それならいっそのこと、それを受け入れた方がどれほど良いか。
遠い目を元に戻し、視界が目の前を捉えるとハンナがいた。
触れるほど近くに伸びてきた彼女の手に視線を落とし、ゆっくりと、その瞳と目を合わせた。
彼女の虹彩に浮かぶ決意。
俺はその確かな熱を人生で幾度と見た気がした。
人の持つ“強さ”みたいなものの根源。
その芯に触れているようなこの時間を、俺は知っている。
「おいで」
赤く腫れた目と妖艶な口。
如何にも強がりな笑顔。
その笑顔が一瞬、あの男と重なる。
脳が軋んだ。
でも、それを余所にして。
全てが許される気がした。
何もかもが計画の内で、それに反抗しようだとか、どれが意思だとか。
そんなこと、今はどうでもよかった。
ただ感情に身を任せ、彼女の胸に抱かれた。
残る微かな感情を押し殺す。
彼女の顎が、丁度俺の頭に当たった。
抗わぬことを、選んだ。




