第60話「音温」
――絶望。
ただその二文字が、決定的に俺らを蝕んでいた。
濡れたスーツ、汚れた顔。
最悪の身なりを、最高の調度品と室温が迎えている。
何もかもがミスマッチした、最悪の環境に俺たちは置かれている。
そう。家主は死んだのに。
それなのに、今ここにいる。
吐き気がした。
まるで世の中の全てが変わってしまったみたいだ。
この世界から一人、親友が消えた。
俺はそんな世界とこれから上手くやっていかなきゃならない。
……ふざけやがって。
そんな時、脳内に通知音が響く。
タイミングが悪い。
誰からか分からないが、こんな時にメッセを見ればそいつにまでキレてしまいそうだ。
悪いが暫くはチャットの通知を切ろう。
そうしようと何気なくチャットの画面を開くと、送信主はあのエドワードと思しきユーザーからだった。
俺は急いでそのチャットを開く。
……ッ!
こいつ……!
どこまで俺たちをコケにするつもりだ!
――さて、私からの贈り物は楽しんでくれたかね?
―もう寄り道も済んだだろう。こちら向かいたまえ。
送られてきた言葉の羅列。
その一文字、一文字を読む事に怒りが湧く。
……あぁ、やはりと言うべきだ。
全部、全部全部、エドワードのせいだった。
……殺す。殺してやる。
こんな舐められたままでいられるか。
何がグレイス財閥だ。
裏でコソコソ隠れないと何も出来ないウジ虫野郎が!
待ってろ。今すぐお前に引導を渡してやる。
俺がこの手で自ら、お前を殺してやる!
高鳴る動悸に強いられ、俺は立ち上がる。
周りのことなど、一つも見えなかった。
外に出て、黄金郷に行き、最上階でエドワードを殺す。
その事だけが頭の中で呪いのように反芻していた。
「待て」
鋭い声がまた後ろから。
マイケルだ。
「なんだよ」
「どこへ行くつもりだ」
どうやら俺が怒りに任せて外へ出ようとしたことを見抜いたらしい。
お節介なマイケルは、また俺の行動を止めようとしているんだ。
「黄金郷だよ。エドワードを殺しにいく」
「一人でか?何故今?」
俺は送られてきたチャットの画面を彼に共有する。
マイケルの前には今、ホログラフが表示されている。
目を細めてそれを見て、彼は口を開く。
「こんな分かりやすい罠に嵌りに行くのか?エドワードは君の孤立を狙っている」
「だから行かないってのか?そんなこと出来るか!あいつは今、あの天辺から俺らを見て、笑ってるんだ!」
天井越しに、空の方を指す。
神のように上に立ち、悪魔のように人々を見下ろすあの男の方角を。
マイケルは全く動じず冷静に、足を組んだまま目を閉じる。
そしてまた一呼吸置いて目を開いた。
「……気持ちは分かるが、肉体面でも精神面でも我々はボロボロだ。見てみてろ、自分のバイタルを。こちらからスキャンしただけで、お前が吐き捨てられたガムと同じ状態だと分かる。行くとしても全員で、万全を期した方が良い」
“気持ちは分かる”?
何を言ってるんだ。
こいつに俺の気持ちが分かるわけがない。
「お前になんか分かるもんか!こっちは親友を失ってんだ!冷静でいられてたまるか!」
「……だからわざわざ、私が助言している。やめろ、今ではない。ビルを見習え」
彼が右に目をやる目線の先にはビル。
気が動転して、この家の誰がどこにいるかなど分からないが、この2人は案外そばに居たらしい。
彼は左手で顔の端を覆い、指先が目にかかっていた。
ソファの上で胡座をかき、その左肘は膝の上にのっている。
「行くな。ブラザー」
「なんだよ、お前まで俺に指図するのか」
俺は低い声で彼に反発した。
ビルはこういう時は意外と冷静で、本当ほ怒りは内に秘めておくタイプだった。
今はその冷静さも煩わしく、乗り越えたいだけの障壁にしかならない。
「……こんな状況でオレ様に相棒を殴らせないでくれ」
だが彼も強情だ。
それに……。
恐らく彼の方が正しい。
そんなことも本当は分かってる。
分かっているけども。
「……この、負け犬どもが!くそっ!」
俺はこれ以上ないほど力を込めた拳を行き場もなく虚空に振るった。
そして何もかもが気持ち悪くなって、一旦シャワーを浴びようと考えた。
2人の視線を無視し、脱衣所へ向かう。
それぞれが何をしているかなど、もう視界にも入らなかった。
だがそこへ向かう途中、廊下の暗がりの隅に膝を抱えたハンナの姿が見えた。
怯えたように縮こまる彼女を見て、こちらの気持ちを整える。
俺は顔を横に強く振り、出来るだけ平静を取り戻し、彼女に近づく。
「……ハニー、どうした。大丈夫か?」
「……ダーリン」
酷く落ち込んだ顔のまま、彼女はこちらを見た。
虚ろで赤く腫れた眼差しで、声は震えていた。
「私の、せいです……。私の……」
彼女は今回の出来事を自分のせいだと思い込んでいるようだ。
そんなわけはない。
否定するまでもない。当たり前だ。
「……そんなわけ、ないだろ」
確かに、アートの所へ行けと示唆したのはエドワードだ。
でも、だからと言って彼がアート殺しに一役買っているかどうか、確定は……。
……あぁ、そうだ。確定はしてない。
してない、まだ。
俺はハンナの側で、彼女を慰めようと手を震える肩に置こうとした。
しかし、彼女はその手を振り払う。
「……勝手な!勝手なこと言わ、ないで!私さえ、黄金郷の中に閉じこもっていれば!貴方達を巻き込むことなんてなかった!私が!馬鹿な、真似しな、ければ……!」
「……違う。ハニー、そんなことない。そんな帰結あっていいわけないだろ」
「じゃあどうして?どうしてアーサー様は死ななければいけなかったのですか?貴方たち――」
「いい加減にしろ!」
彼女の言葉を遮って、俺は声を荒らげてしまった。
今の俺には他人の感情を、自分のバケツに仲良く入れられるほどの余裕はなかったからだ。
「今は俺に君を慰めている余裕なんかない!俺だって精一杯なんだ!そんな状況で君に耳心地のいい言葉だけを選んで話してやれるか!」
彼女は口を開いて驚いた。
震えが止まり、唖然としたまま、こちらを見ている。
それを見て、“しまった”と思った頃にはもう遅かった。
「……ッ!……ごめん」
俺は彼女を避け、脱衣所に足早に向かう。
動きにくいスーツを投げ捨て、俺はシャワーを浴びた。
だが、増して不快だった。この上なく。
シャワーのお湯はまとわりつくばかりで、決して恐怖や後悔、負の感情を洗い流してはくれなかったのだ。
……まただ。
……また、最悪なことをした。
ハンナを突き放すだけならまだしも、言わなくて良いことを馬鹿みたいに口に出してしまった。
このままじゃダメだ。
いつも通りに戻らなければ。
いつも通りに――。
「……クソッ!」
激情のまま、俺は濡れた拳で目の前の鏡を殴りつけた。
ガシャン、という硬質な破砕音。
拳の皮が裂け、滲んだ血がシャワーの水と混じって排水溝へ流れていく。
ズキズキと脈打つ痛みが、少しだけ頭を冷やした。
平常心を思えば思うほど、さらに心は乱れていく。
……これじゃ雁字搦めだ。
顔を上げる。
そこには無数にヒビ割れ、ズタズタに引き裂かれた俺の顔がある。
まるで、今の俺の心そのものだった。
……おかしい。
……姉さんが亡くなった時はどうやって気持ちを整えた?
俺は何をすれば、このひび割れた鏡を元に戻せる?
……そういえばジュニアが死んだ時は、もっと感情が抑えられていた。
何故だ?彼だって学生時代に遊びまくった親友の一人だったのに。
彼が死んだ時は、自分でも驚くほど冷静だった。
そんなはずはないのに。
そうであってはいけないのに。
親友の死に優劣が存在していいはずがないのに。
シャワーに打たれ、鏡の破片を伝って落ちる雫をじっと見つめる。
そこから生まれるお湯の流れを追っていると、ふと、ある考えが脳裏をよぎる。
……感情制御装置だ。
これのせいで自分の感情を上手く扱えないんだ。
姉さんだって、ジュニアだって、アートだって、本当はもっと耐えられないぐらいの。
それこそ自分を壊したくなるくらいの悲しみが迫ってくるはずなんだ。
にも関わらずこれに頼りきって、自分でコントロールすることを失うからジュニアの時は案外ケロッとして、アートの時は悲しみに暮れるなんてあべこべな事になるんだ。
……なら逆にもっと制御を強くすれば、いつもの自分に戻れるのか?
機械に支配された状態が、本当にいつもの自分だと言い切れるのか?
……アート。
今あるお前へのこの気持ちは、本当に本物の紛れもない俺自身の気持ちだって。
俺は胸を張って言えるのかな。
その後は湯船に入った。
まとわりついてくるお湯がいくら不快と言えど、この邸宅の馬鹿でかい湯に浸かれば半強制的に疲れは取れる。
だが心の中にまとわりついた鬱陶しい疑念は、結局最後まで消えることは無かった。
いつもお読みいただきありがとうございます。Mr.Gと申します。
嬉しいことに、この度、日間・週間ランキングに入ることができました。
皆様に応援していただいたおかげです。本当にありがとうございます。
もし、少しでも楽しんでいただけましたら、評価を入れていただけると幸いです。
応援してくださる皆様に心より感謝を込めて。
Mr.G




