第58話「天罰(パニッシュメント)」
「……わけないだろ」
彼の第一声が雨と共に流れる。
彼は大きく右手を横に振り、こちらに声を飛ばした。
「頼れるわけ……ないだろ!君達をこんな醜い争いに巻き込んでまで助けて欲しいなんて!僕に、言えるわけないだろ!」
頬を伝うのは雨か、涙か。
心からの叫びがこちらの意識と魂を穿つ。
「見ちゃったんだよ、僕。……グレイスの“秘密”ってやつをさ」
微かに震えた声、脱力した肩。
彼が絶望の縁にいて、それを隠して耐えていたのは想像に難くない。
「だったら巻き込めない。だって何があるか分からない。周りの人間ごと消されちゃうかもしれない」
その通りだ。
彼の気持ちの核まで理解しているとは言わない。
だがもし、俺がお前の立場で考えるとするならば、俺もきっと同じ選択をした。
お前らを拒絶してでも巻き込みたくはない。
企業の争い事は内々で片をつけたい。
そう考えるだろう。
「それでも、それでも君達ならここまで来てくれるかもって。それが脳裏にチラついて離れなかった。頼む、気づいてくれ。僕を救ってくれって!」
「……」
「……その本心が端々に出ちゃった。……駄目だね。元々用心深い人間の動きがこんなに穴だらけなら、そこら辺の子供だっておかしいって気づくよ」
本心を出すのが悪だとされた世界に生きる。
それがどれだけ辛いことか。
彼は濡れそぼる髪を上げ、水たまりに映る自分を見つめた。
「……馬鹿だなぁ。僕は。馬鹿だ」
懺悔のような声が漏れる。
決して、かける言葉がなかったわけじゃない。
むしろ数え切れない程の言うべき言葉を捨てた。
同罪だ。
彼の言葉を、今は自分の事のように受け止めなければならない。
慰みなら後からだって出来る。
彼をここまで追い詰めたグレイスの秘密。
もちろん、俺たちはそれに心当たりがある。
つい昨日、それに直面したばかりなのだから。
「……MAGNUM OPUSって知ってる?」
「……昨日、エドワードに会った。その時に聞いた」
「わぁ、驚いた。知ってるんだ。……なら僕は本当に馬鹿だな」
彼は乾いた笑い声を漏らす。
隠し通そうとした秘密が、とうの昔に露見していたことへの虚無感だ。
「エドワードはお前の親父にもそれをした。奴は確かに、そう言った」
「……やっぱり、そっか」
「そんな怖い事、誰にも伝えられなかったか」
「……いつの間にか隣人がすり替わってるなんておとぎ話、誰も聞きたくないでしょ。……こんな、酷い脚本」
「まぁ、そうかもな」
俺の肯定に、彼は視線を遠くの摩天楼へと移した。
雨に煙るその巨大な街並みは、今や墓標の群れに見える。
「それに、ビッグハンドは全部グレイスの代理カンパニーなんだってさ。……金のためにひたすら騙し合って、殺し合ったよ。その先が全てグレイスの利益なんだって。……こんな悪魔にどうやって抗えって言うの?」
彼は肩を落とす。
「世界中の人間全員とまではいかない、けれどせめて君達だけでも巻き込まないようにするのが優しさだって思ったんだ」
「……」
「だって見た?MAGNUM OPUSに連なる計画の数々を。ビッグハンドのことだけじゃない。まるで無邪気な子供が思いつくままに世界を操ってるみたいに残酷な計画が軒並みだった。これじゃ僕らはまるで彼らのおもちゃだ」
アートは自分の両の手を見つめた。
それは今、彼に出来る最大限の自己証明に他ならない。
グレイスは悪魔だ。
人の命を、人生を、尊厳を、まるで盤上の駒ですらない、ただの消費リソースか何かと勘違いしている。
巨大な摩天楼の頂から見下ろせば、俺たちが地べたで這いつくばり、血を流し、汗にまみれて生きている様は、彼らにとっては確かに箱庭の中の喜劇に過ぎないのかもしれない。
右へ行けとプログラムされれば右へ行き、死ねと命令されればその通りに機能停止する。
アートが覗き込んだ深淵は、自身の存在意義すらもあやふやにするほどの、底のない虚無だったのだろう。
父親がすり替わっている恐怖。
自分が苦労して作り上げた世界が、全て与えられた物かもしれないという喪失感。
その糸を引く操り主の、あまりにも無邪気で残酷な手つき。
彼の両手に絡みついた見えない糸は、今も彼を締め上げている。
その痛みは、どれほどのものだったか。
誰にも言えず、誰にも頼れず、ただ一人で世界の秘密を背負い込み、道化として振る舞い続ける日々が、どれほど心を削り取っていったか。
その姿は今にも崩れ落ちそうなほど脆く、儚い。
――だが。
俺の網膜に映る彼は、断じて玩具などではない。
殴れば赤く腫れ上がり、叫べば喉が枯れ、絶望に涙を流す。
そこに在るのは、紛れもない一人の人間だ。
プログラムされただけの存在が、こんなにも不器用に他人を遠ざけようとするか。
ただのデータが、こんなにも必死に友の命を憂うものか。
もし仮に、この世界が彼らの書き換えた脚本通りに進むだけの出来レースだと言うのなら。
俺たちはとっくにゲームオーバーのリザルト画面を眺めているはずだ。
だが俺たちはここにいる。
計算外のノイズ。
予測不能なバグ。
おもちゃがおもちゃとしての機能を放棄した瞬間、それは持ち主の手を噛む凶器へと変わる。
冷たい雨が頬を叩くたび、逆説的に体の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
それは怒りであり、悲しみであり、そして何よりも強い、反逆への意志だ。
人類最初の原罪も、かくて生まれたのかもしれない。
即ち支配者への反骨心。
それは世の中のちょっとした歪みから生まれるものだ。
俺は深く息を吸い込み、肺の中の淀んだ空気を全て吐き出す。
すると後ろから声がした。
「でも、アタシ達これから乗り込みに行くよ」
「え?」
あまりに突然の恋人からの声にアートは驚いたように、拍子の抜けた声を上げた。
「あぁ、皆満場一致でグレイスは許せないって事になってる。ハンナのためにも、俺らのためにも、……もちろんお前のためにも。俺らはあいつらをぶっ飛ばしてやる。そのつもりだ」
俺はエミリーの話に乗っかり、笑みを浮かべて親指を後ろに指す。
「こんな楽しい事ねェだろ?遂に世界のラスボスに歯向かってやるってんだ!絶対ェ、粉々にしてやるぜ!」
「ほぼ初対面でこんな事を言って申し訳ないが、君は馬鹿だ。彼らも馬鹿だ。私も馬鹿だ。……きっと、世の中そんなものなのだろう。……だがそれでも、事は単純だ。ただ自分がやりたいと思った事を、ただやればいい。私はそれを彼らから教わった」
ビルとマイケルの実直な言葉を聞いて、ますますアートの表情は崩れる。
彼の眉は困り、口は半開きの状態になった。
「アーサー様を苦しめたお父様……。いいえ、エドワードを懲らしめに行きましょう!私たちなら、きっと。きっと出来ます!」
ハンナの言葉についにアートは左手を額に当てる。
彼の目元にあるのが、今度はしっかり涙だと確信が持てた。
「ほら、これ見ろよ。今日の朝貰ってきたんだ」
俺は満を持したように彼に近づいた。
胸元からよれた写真を見せる。
雨粒に晒された集合写真をアートは受け取り、それを見るなり彼は大粒の涙を落とした。
決して声には出さない。
だが彼の顔は、窮屈で地獄のような鳥かごからの脱出を意味していた。
雛の頃から閉じ込められていた鳳は、友人たちの協力でやっとその姿を取り戻す。
長い時を経て、ようやく彼は呪縛から解き放たれたように見える。
企業に関する闇を仲間と共有する、という真の意味での友情を彼は得た。
そう見えることだろう。
……でも、残念なことに。
「だけど一つだけ条件がある」
俺は今度は人差し指を立てて、アートにそう言った。
彼は涙を綺麗に拭き取り、写真から目を離した。
「……やっぱり?何?」
「俺らで一人ずつ、お前をぶん殴らせてくれ。それでお前をまるっきり許してやる」
俺は戯けたように手に握り拳を作った。
それを見たアートは堪らずに吹き出した。
「……っぷ。たっはははは!あんなに殴ったのに、まだ僕を殴りたいの?」
「当たり前だろ?あんなのノーカンだ。こっちだって同じ分喰らってんだぞ」
場が和やかになり、先程までの気持ちや思いが晴れてゆく。
この鬱陶しい雨が、今は虹のための舞台装置に見えた。
「ッし、じゃ、まずオレ様からいくぜ」
ビルがスーツで回しにくい右腕を強引に捲り、肩を回しながらアートに近づく。
「ちょっと〜!普通アタシでしょ!アタシが先やられてるんだから〜!」
後ろでエミリーがビルの腕を叩く。
アートがため息をつき、半笑いに肩をすくめたその時だった。
「はぁ……、分かった分かった。降参だよ、どうぞ遠慮な――」
――ダァン。
その時、大きな発砲音が通りに響いた。




