第57話「Pain in the Rain②」
雨と同じ方向に落ちる。
まるで一つひとつの粒が静止しているように見えた。
だが不思議と落ちていくことへの、恐怖は感じなかった。
彼のあの冷ややかな表情を見て、一つ確信したからだ。
先程までの推測が確信に変わった瞬間だった。
……足が下に向いた状態なら何とか助かる道も模索出来たが、上を見上げ、頭が下を向いて落ちている以上、俺にはどうすることも出来ない。
最悪、死ぬかもしれない。
だが俺はアートを信じることにした。
もう少しだけ見ていたいような気もする止まった雨の時を差し置き、俺は目を瞑った。
地面に雨の弾く音が近づき始める。
頭上――いや、今の俺にとっては頭下で、雨粒の気配が消えてゆく。
地表が近い。もしこのまま何も起きなければ、俺は跡形もなく弾け飛ぶ。
――だがいつまで経っても俺の身体が地面に叩きつけられることはない。
その代わりに大きな衝撃波が周囲に駆け巡る。
空中の雨が俺を避けるように霧散し、不思議な浮遊感を背中に感じる。
恐ろしいほどの不快感。頭が揺れ、内臓が迫り上がる。
自分は今、大いなる力に逆らっていると知覚できる確かな波動。
あぁ。少し前にも似たようなことがあった。
俺は目を開け、足元を見た。
……やはりそうだ。親友の勘は当たっていた。
スカイシップが起動している。
俺では制御出来ぬほどの出力と、精密な動作を駆使して、俺の身体は立派に守られていた。
「……やっぱりか」
独り言をボソリと口ずさみ空を向くと、先程割れた窓ガラスの方から四人が降りてくるのが見えた。
ビルはエミリーを抱え、足元を綺麗に下にして端からスカイシップを起動させて降りてくる。
見事なことにマイケルはハンナを丁寧に抱えながら、プラザの壁面を垂直に駆け下りてきていた。
前に並走した時と同じく、電流が足を伝い、壁面にその火花を残しながら下へ向かってきていた。
あれを見た誰もが、「あれが忍者なんだ」と口を揃えて言いたくなるような映像をこの目で捉え、彼も無事なんだと一安心する。
脚を地面めがけ、後ろに大きく漕ぐと人類のあるべき姿へふわりと戻り、なんてこともなく着地する。
視線を下にやり、ずぶ濡れになったスーツを見て少しため息をすると、上の方から風が吹いてきた。
ビルの反重力波だ。
彼らはふわりと降りてきて、慌ててビルの腕から離れようとするエミリーを、ビルが丁寧に降ろすと、彼女は俺の方へ目掛けて駆けってきた。
びしゃりびしゃりと鳴る水たまりをものともせず走り寄り、そのままの勢い殺さず、俺の右半身に抱きついてくる。
「ぼんどに!エッ……、ほんどうによがっだ!ヒッグ……」
人目も憚らず、大きな声で泣きじゃくるエミリーの背中をさする。
困ってビルの方を見ると、彼は肩をすくめ、眉を上げて笑うだけで何の役にも立ちそうになかった。
「大丈夫、大丈夫だ。エミリー。ありがとう、心配かけたな」
「ァ、アッ、アダジ!ユウトが死んじゃうどおぼっで!アッ、アダシのぜ、せいで!ユウトが!」
「あぁ、ありがとう。ほら、この通りピンピンしてるよ。大丈夫、大丈夫だから――」
そう言いかけた所で、少し離れた道の真ん中にマイケルが降り立つ。
電気と火花がマイケルを中心に地面を這うと、彼の抱えたハンナもまた勢いよくこちらに向かってくる。
俺はエミリーの右耳を手で覆う。
「ハニー!危ないからゆっくり!」
そんな声もお構いなしに彼女はこちらに突っ込んでくる。まるで牛追い祭りの牛の様相だ。
そして案の定、道中で転んでしまった。
「ほら!危ないって!大丈夫か!」
バシャリと水が跳ね、一直線。
しかし彼女はすぐに起き上がり、その勢いを取り戻した。
擦りむいて血に汚れた膝、泥だらけになったぐしゃぐしゃの顔、その両方を無視してこちらに突撃してくる。
あのまま来られたらどう考えても片腕だけじゃ受け止め切れない。
声も届かず、勢いもそのままの彼女を目の前にして、俺は覚悟を決めた。
彼女を腕で受け止めた後、スカイシップを起動させ、二人を抱えたまま身体ごとくるりと左回転させ勢いを弱める。
そして角度が元に戻った時には勢いが無くなっていると思ったが、そんなこともなく、結局俺はその場に尻もちをついてしまった。
それでも彼女らは俺を離すことをしなかった。
「ユウト、ユウト!お馬鹿!馬鹿、馬鹿!もう、馬鹿……!……良かっ、た!……本、当に。良かった、良かった……」
俺の胸を数回叩き、彼女もまた泣き喚く。
俺の背中に回した貪るような手、掠れつつも高い声、お嬢様とは思えない程の顔の崩れようを見て、思わず少し涙目になってしまった。
だけどそんな事も少し可笑しくて、俺はくすりと笑う。
「あぁ、心配かけたな。もう大丈夫だ、ベイブ。なんともないよ。そっちもみんな無事で良かった」
2人の背中をポンポンとリズミカルに叩く。
だがそれでもわんわんと泣きじゃくり続けるので困ったものだ。
「二度と、……二度とこんなことしないで!」
「分かった分かった。これっきりな」
本人たちだって見る限りは傷を負っているっていうのに。
どうしようもない奴らだな、全く。
呆れて少し強く彼女らを抱きしめると、今までの自分が雨に打たれ、体温が奪われていた事に気づく。
彼女達の抱擁は、心も体も熱を与えてくれている。それだけで俺は幾ばくかの安らぎを取り戻したようだった。
……そうだな。心配されないよりは全然いい。
特に、駆けつけもせずクールなままこちらに近づいてくる元警官よりかは、よっぽどいい。
マイケルは俺の状況を見て、ビルと同じく少し笑った。
「2人に抱きつかれて、人生で一番モテてるんじゃないか?」
「ま、一番とは言わないけど。人生で出会ったトップ2の美女に絶賛モテてるってとこかな」
マイケルは小さく頷いた。
「あぁ。今のは悪くない返しだ」
「そりゃどうも」
「……どっち、が一番?」
「……私、ですわよね?」
今のくだらない会話を聞いていたようで、案外余裕のある2人は俺の顔を見上げる。
だがその声はまだ震え、途切れ途切れだ。
彼女らなりの気遣いがそこにはあった。
「……そうだな。……今はどっちも酷い顔かな」
雨の中、揃って5人、その場で笑った。
さっきまでの出来事を消し去ることが出来れば良いのにと願いを込めて。
だがそんな夢物語が叶うことはない。
暖かくなりかけた雰囲気を切り裂くような音が聞こえる。
この音はスカイシップ。
そして続くように上空からは威圧感。
アートだ。
皆の視線がアートに集まる。
俺は2人の背中から手を離し、立ち上がる。
周りの見守る中、俺は彼に近づく。
正直言ってもうボロボロだ。肉体的にも、精神的にも。
だがいざとなればまだ、もう1ラウンドくらいは腹を括らなければならない。
雨音だけがこだまする本社ビルの前で、俺らの睨み合いが始まる。
「もう二度と顔を見せないで。今なら見逃してあげるからさ。……昔と今じゃ状況が違うんだよ、君は僕に勝てない」
しかしもう限界だった。
彼はまだ、この戦いに喧嘩の体裁を保とうとした。
そんな姿、そんな芝居に、もう俺は付き合っていられなかった。
「……ハハ、ハハハハ!アハハハハハ!」
もしかしたらユウトは落ちた衝撃で頭を打ったんじゃないか。
そんな刺さる視線を前後から感じる。
「……」
だがこちらからすれば、そんなものを考慮して行動する時間はとうに過去のものとなっていた。
「――ハハハハハ、ハハ、ハァ。……相変わらず嘘が下手だな、アート」
「……何がさ」
アートは不満そうに眉を寄せた。
……そうか。この期に及んでまだシラを切るか。
ならとことん追い詰めなければならない。
今度は舌戦ってやつだな。
俺は濡れた前髪をかき上げ、目の前の男を視線で射抜く。
「俺らを襲ってきたあの企業野郎共、本当に俺らを殺す気だったか?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だ。誤魔化せるわけないだろ?本気で殺そうとしてきてるやつとは違うことくらいすぐに分かる。本当にバレないと思ったか?」
彼は何も言わない。
ただこれから言うであろう俺の言葉を吟味し、それらに対して強烈な睨みを利かせるようにこちらに視線を刺している。
さらに畳み掛けるように、俺は指で自身の足を指す。
先程動作したスカイシップを。
そう。俺が全く起動していないのに勝手に機能したこれを。
「本当に殺したいなら何でスマートフライサポートを切らなかった?もしこれが作動しなければ、俺は今頃、ここに突っ伏したままだった」
「……最後の情けってだけ」
「へぇ、そうか。じゃあなんで行きのエレベーターを緊急停止させなかった?」
間髪入れずに問う。
雨音を切り裂くように俺の声が鋭く彼を突く。
「ここには階段が無い。唯一の手段を潰せば、俺らはお前の下に辿り着くことすら出来なかった」
「……忘れてた。僕は暇じゃないから」
あぁ、そういう事もあるかもな。
誰よりも疑り深く、誰よりも細部に芸の行き届くお前じゃなければな。
……苦し紛れだ。
素人の初歩的なミスだ。
お前にこんなミスがあるものか。
「あぁ、そうか。なら今の戦いで銃を出さなかった事も、受付で暴れた時に警報が鳴らなかった事も、俺らがこうして絶対にやって来ることを知りながら何の対策も講じなかった事も、全てに理由があるって事だよな?アート!」
「……ッ!」
名前を呼んだ瞬間、彼の隠しきれない動揺がそこにはあった。
俺は彼に掴みかからんばかりの勢いで、叫びを雨空に轟かせる。
「ふざけるなよ!俺らはそこまでマヌケじゃない!お前が今おかしな状況ってのはここにいる皆分かってる!なのに俺らを頼らない理由は何だ!そんなに頼りないか!その上で何の対策する必要も無い程俺らは弱いか!」
激情が喉を焼き、視界が滲む。
怒りだけではない。これは、どうしようもない悲しみと焦燥だ。
俺は拳を握りしめ、一歩、また一歩と彼に歩み寄る。
アートは後ずさりすることもなく、ただ立ち尽くし、俺の言葉を全身で浴びていた。
「お前が助けて欲しいって一言でも言ってくれれば、俺らは飛んで駆けつける!何が不満だ!……お前に頼ってばかりの俺らには頼る気にはなれないか?お前の出世街道に、俺らは邪魔なのか?」
彼まであと十数歩のところで俺は止まった。
彼は何も言わず、ただ、その拳が白くなるほど強く握りしめられていることだけが、彼の葛藤を雄弁に物語っていた。
冷たい雨が二人の間を流れていく。
俺は震える声を押し殺し、懇願するように告げた。
「なぁ、アート。頼む、答えてくれよ。俺達、兄弟じゃないか」
彼の鼓動が今なら聞こえる気がした。
今なら二人で真に分かち合える気がした。
雨の帳も、今や俺らを隔てない。




