第56話「Pain in the Rain①」
後ろで戦いの火蓋が切って落とされるのが聞こえる。
戦闘開始に合わせて、アートの部屋の前のスキャンを無視してドアを蹴り破る。
勢いよく開いたドアと同時に部屋に入る。
相も変わらず、オフィスには似合わないヴィクトリア様式とサイバー空間のハイブリッド部屋。
そこで一人大人しく窓ガラスの前で佇み、外を眺めるアートの姿があった。
まるで巨大な冷凍庫にでも入ったように重く、事件現場のように冷たい空気がそこには漂っていた。
「……来たんだ」
彼の第一声は思ったよりも平静で、無味無臭で、人と話しているとは到底思えなかった。
「当たり前だろ。エミリー殴っといてお咎め無しだとでも思ったのか?」
「……君には関係ないでしょ」
「関係ない訳ないだろ」
アートは窓から視線を外し、面倒くさそうに肩をすくめる。
「ハッ、今まで僕の女性遍歴に口出しなんてしてこなかったのにさ。今更言われた所で――」
「ふざけんな」
「は?」
「ふざけんなよ」
低い声が出た。
怒りが沸点へと駆け昇っていくのを感じる。
「……何がさ」
一歩踏み出し、靴音が冷ややかな部屋に響く。
分かってるはずだ。俺が怒っているのはそんなくだらない痴話喧嘩の話じゃない。
「分かってんだろ?お前の女との関係なんか心底どうでもいい。はっきり言って興味無い。だけどな、お前が道を外すようなことがあれば俺は何度だって立ちはだかるぞ」
真っ直ぐな眼光をぶつける俺に対し、アートはそれを鼻で笑う。
まるであの頃のように。
今日の雨が、俺らの積み重ねてきた友情を洗い流してしまったのかもしれない。
そう思えるほど、彼は昔のアートに戻っていた。
「ハッ、ヒーローのつもり?」
「……謝ってやれ。それで全部チャラにしてやるよ」
最後通告だ。
俺らのことはどうだっていい。
せめてエミリーには謝ってほしい。
ただそれだけだった。
「……やだね。僕は何も間違ったことはしてない」
彼はゆっくりこちらへ向き直った。
雨雲に照らされた彼は、この場でより一層、無機質な輝きを発していた。
「邪魔するなら例え君らでも、僕は殺すよ」
彼のその言葉につい笑みがこぼれた。
それはまた彼と本気で殴り合える嬉しさか、もうやるしかないと腹を決めた故の覚悟か、己でも判断がつかなかった。
彼の体のどこにも銃はない。
こんな狭い部屋では殴り合いが鉄則だ。
俺らの仲なら尚更。
俺はネクタイを緩め、彼をじっと睨みつける。
「一度も俺に勝てた事ないお前が?……やってみろよ」
ネクタイから指が離れた、その刹那だった。
床を蹴る音が爆ぜ、アートの拳が視界を埋め尽くす。
反応は遅れたが、体は動いた。
首を紙一重で逸らし、頬を掠める熱風を感じながら、俺は迷わず懐へと飛び込む。
みぞおちへ突き刺した拳。
肉が沈み、内臓を揺らす確かな感触が拳へ伝う。
「ぐあっ……!」
漏れる嘔吐き。
だが、アートは退かない。
苦悶の呼気と共に、あろうことか俺の髪を鷲掴みにし、そのまま自身の膝へと顔面を引き寄せた。
ゴッ、という湿った音が頭蓋を揺らす。
火花が散る視界の中で、俺は彼の腰に腕を回し、強引に持ち上げると床へと叩きつけた。
重厚な絨毯が衝撃を吸うが、その下の床板が軋む音は隠せない。
マウントを取った。
抵抗しようと伸びてくる腕を払い除け、上から拳を振り下ろす。
右、左、右。
ヴィクトリア調の優雅な家具に囲まれた空間で、野蛮な打撃音だけがリズミカルに響く。
殴るたび、拳の皮は裂け、彼のアゴの金属は顕わになる。
だがアートの目から光は消えない。
彼は俺の手首を掴むと、本来ありえない角度へねじり上げた。
激痛に力が緩んだ隙を突き、死角から放たれた蹴りが横腹にめり込む。
肋骨が悲鳴を上げ、俺の体は横へと弾き飛ばされた。
転がった先には、空間に浮かぶ青いホログラムのディスプレイ。
俺の体がその光の粒子を乱しながら通り抜け、アンティークのキャビネットへと激突する。
飾られていた陶器が雪崩のように崩れ落ち、無数の破片が床に散乱した。
「ハッ……、ハッ……」
互いに荒い息だけが支配する静寂。
窓の外では雨脚が強まり、ガラスを叩く音が激しさを増す。
アートがふらりと立ち上がる。
口元の血を手の甲で乱暴に拭うと、構えも取らず、ただ殺意の塊となって歩み寄ってくる。
俺もまた、陶器の破片を踏み砕きながら立ち向かう。
もはや技術など関係ない。
互いの襟首を掴み合い、至近距離で拳を叩き込むだけの消耗戦。
避けることすら止めた。
一発貰えば、一発返す。
骨が軋み、肉が腫れ上がり、意識が泥のように重くなる。スキンも剥がれ落ちてきた。
アートの鋭い肘打ちが眉間を割り、視界が赤く染まる。
怯まず、俺は渾身の頭突きを彼の鼻梁へ叩きつけた。
互いの額がぶつかり合う鈍い音が、骨伝導で脳髄を痺れさせる。
二人の体がもつれ合い、重く冷たい床へと再び倒れ込んだ。
泥濘の中で僅かな希望を取り合うかのような見るに耐えぬ戦い。
だが不思議と心の中では楽しさと嬉しさが怒りを超えてきていた。
「ハハッ、……ぐっ。……やるな」
ゆっくりと肘を立て立ち上がり、顔を上げるアートを見る。
「チップを抜かれてもいない僕が、お前に負けるわけ、……ないだろ!」
アートも立ち上がる。
あの頃と違い、モジュールだけでなく、彼には今までの経験がついてきている。
それを考慮すればアートの負けはありえない。
ただ一点、先程も脳裏を過ぎったある推測が彼に決定打を与えていない。
この戦いのおかげで、それが確信に変わりつつあった。
「邪魔、なんだよ!……さっさと、帰れ!」
「いいや、悪いな。お前が、変わるまでは、絶対に帰らない!」
息が上がって、言葉も続かない。
だがその途切れた一つひとつの言葉から滲み出る信念がある。
「クソが!……邪魔をするなら、本当に容赦しないからな」
「……望むところだ。本気を出せるなら出してみろ、そのお前を倒して、這ってでもエミリーに頭を下げてもらうぞ」
その挑発が引き金だった。
次の瞬間、彼の姿がブレた。
人の限界を超えた加速。
反応する暇もなく、鉛のような衝撃が胸板に炸裂する。
「ぐ、ぅ……ッ!」
呼吸が一瞬で止まった。
弾き飛ばされた俺の背中が、重厚なデスクをへし折る。
書類が白い鳥のように舞い散る中、俺は床に崩れ落ちた。
追撃はすぐに来た。
アートは俺の襟首を強引に引き起こすと、そのまま壁へと力任せに投げ飛ばす。
背中から石膏ボードへめり込む。
壁が砕け、俺はずるずると崩れ落ちた。
「ガハッ……!」
咳き込むと、口の中に鉄の味が広がる。
だが、意識は飛ばない。首も繋がっている。
これだけの馬力がありながら、俺はまだ動ける。
「……ッ!」
立ち上がりざま、俺は大振りのフックを見舞う。
だが、アートはそれを掌で受け止めた。
バシィッ、と乾いた音が響く。
俺の拳を包み込んだ彼の手から、ギシリと不吉な音がした。
骨ではない。内蔵された人工物が唸りを上げているのだ。
万力のような握力が、俺の拳を軋ませる。
アートが腕を振り抜き、俺の体を再び床へと転がした。
宙を舞い、部屋の端にある飾り棚へと激突する。
ガラスケースが粉々に砕け散り、俺は破片の海に沈む。
全身が悲鳴を上げている。無数の破片が皮膚を裂き、打撲の熱が体中を駆け巡る。
だが、痛みのおかげで頭は冴え渡っていた。
アートの拳には殺意よりも強い、拒絶の意志が込められている。
「いい加減諦めろよ、ユウト……ッ!」
アートが傍にあった重いアンティークチェアを片手で掴み上げ、俺のすぐ横の壁に叩きつけた。
椅子が木っ端微塵に砕け、木片が頬を切り裂く。
さっさと諦めろだとよ。不器用な叫びだ。
構うものか。
懐に入った俺は、がら空きの胴体にタックルで突っ込んだ。
二人でもつれ合い、反対側の壁に激突する。
飾られていた絵画が揺れ、額縁が傾く。
至近距離での殴り合い。
俺の拳が彼の頬を捉え、彼の膝が俺の太腿を蹴り上げる。
互いの血飛沫が混じり合い、どちらの血かも分からない赤色が視界を染める。
俺の拳が彼のこめかみを殴り飛ばした時、剥がれかけた皮膚の下から、黒色の金属骨格が完全に露出した。
無機質な金属と、涙を堪えるような生々しい瞳。
その歪なコントラストが、今の彼を表しているように思えた。
「諦めるのは、お前の方だ!アート!」
「勝手に来といて、大きなお世話なんだよ!」
アートの拳が俺の肩を弾く。
よろめいた俺の胸倉を掴み、彼は至近距離で咆哮した。
火花散るサイバーウェアの駆動音と、生の感情が混ざり合う。
「何度お節介だなんだって言われてもな!俺は!絶対にお前を見捨てたりしない!」
「……黙れ!」
存外、俺の魂の叫びが彼の心を打ったような感触を覚えた。
アートはギリギリと歯を噛み締めて、窓のフロートガラスまで殴り飛ばされた。
全身に重い衝撃を感じ、鈍い痛みが全身に渡りきるのに耐えられず悶えていると、彼は俺の近くまで歩み寄る。
「黙れ!」
そのまま俺のジャケットを無造作に掴んだ。
嫌な予感がして、虚ろに目を開けると部屋の入口にビルたちの姿が見える。
戦いを終えたんだろう。
彼らは事態の把握に急いているようだった。
「アート!やめて!」
そう叫ぶエミリーを、アートは振り返りもせず無視する。
そうして彼はついに大きく振りかぶり、俺を窓ガラスに強く叩きつけた。
先程を遥かに超える痛み、もはや立ち上がる術はない。
だが今度はわけが違う。
――ガシャン。
そのままガラスは脆く壊れ、俺は雨の中、外に放り出された。
咄嗟にアートの顔を見る。
冷酷な表情。眉一つ動かさぬ目元。
まるで友人とは思えない佇まいで彼はこちらを見下ろしていた。
その部屋の方から俺の名前を叫ぶ声が幾度と聞こえる。
だがそれに比例するように、体はガラスの破片と雨粒と共に自由落下を開始した。




