第49話「That One Night③」
まぁ、実際の所は禁酒法があっても飲むこと自体が禁止される訳じゃないから、この状況は全く改善されない。
だから嘆いていたってこの修羅場は変わらないってこと。
「なんでもないって……。こんなのどう考えてもなんでもあるでしょ!いつもみたいな小さい傷ならまだしも!剥がれてる所だってあるじゃない!」
ドロシーだってこのシチュエーションを知っていれば、我が家が一番なんてのは口が裂けても言わないはず。
現実逃避の言葉は面白いほどに脳裏に浮かび上がるのに、肝心の姉さんへの言い訳は露ほども出てこない。
そうこうしている間にも時は残酷に過ぎてゆく。
その一秒一秒の複利は刻を追う毎に取り返せないものになる。
やがてそれは決壊を迎える。
姉さんの声は震え始めた。
「何で……、どうして……何があったのよ……」
彼女は顔を覆い、泣き始めた。
歔欷きならまだしも、それはやがて大粒の涙を伴う。
心配させたくないから何も伝えられない。
その思いの先行は更なる心配をもたらす。
悲劇とは初めは小さな嘘で、その連鎖がやがて大事になる。
心配させまいと行動する事自体がその心配を増大させるんだ。
……ただ。
ただそれでも。
俺は姉さんに真実を言う訳にはいかない。
彼女だけには、唯一彼女だけには清廉潔白な俺の偶像を見せ続けたい。
最下層のクラスにいて、素行不良で、ましてや出席日数が足りそうに無い、そんな俺は姉さんの前では存在しない。
だから言わない。
言えない。
……ったく、出来の悪い弟だな。
すっかり酔いも覚めてきた。
とにかく今は現状をどうにかしなくてはならない。
せめて何か言わなくちゃ。
「……なぁ、泣くなよ」
泣かせたのは俺なのに。
「心配かけて悪かったって」
本当にそう思うなら、何故まだ嘘をつく。
「ほら、俺これからは変わるからさ」
嘘つき。
「もう平気だって、な? 」
これだって詭弁。
「だから、いつも通り“おかえり”ってしてくれよ」
ただズキンと痛み続ける心を殺して、彼女に“いつも通り”を求めるしかなかった。
結局は相手を安心させるのではなく、自身の平穏を保つための保身に走った。
情けないし、みっともない。
けれどこの人にだけは弱さも真実も見せちゃいけない。
強くなきゃダメだ。
今までの分も含めて。
姉さんは涙を手の甲で受け流しては、手首でまたそれを拭う。
その一連の動作の中で俺の方を見た。
「スン……もう絶対、ダメ、ヒグ……だからね。こういうの……スン……」
「あぁ、分かった。ごめんよ、姉さん」
ただ謝ることしか出来ない。
そのまま抱きしめられた。
最早俺には抱きしめ返す以外の選択肢は残されていなかった。
だが不思議とそれは苦ではなかった。
それは自身の不甲斐無さを埋めるための心の有り様なのか、それともアーサーのおかげで変われたからなのか。
いずれにせよ、もう彼女に心配をかける行動は慎もうと決心したことは固く誓える。
じゃなきゃ俺はたった一人のブリキ男だ。
「エグッ……おか、えり。……ユウ、ト」
「……ただいま。姉さん」
温かい抱擁の末、やっと彼女の涙がおさまってきた。
こういう時に家族にかける言葉は決まっていた。
“愛してる”だ。
この時それを言いかけて、もう喉元まで到達した。
舌にそれ言葉が弾んだ時、俺は口を閉ざした。
ズルいと思ったから。
どうしてまだ誠意も見せていない段階で、嘘をついたその口で「愛してる」なんてほざく事ができるのだろう。
確かに今、俺は姉さんに許しを貰いたい。
だけどそのために愛を道具にすることは卑怯だし、駄目だ。
それをしたら最後、俺はもう、何にも真っ直ぐに生きられない。
俺の信じる世界に対する恥に満ちてしまう。
だから口を噤んだ。
そのはずだった。
「……愛してるわよ、ユウト」
――っ。
生来の人たらしめ。
「俺も……愛してる」
そうすると途端に強く抱きしめられ、数秒後に腕を持たれ、パッと離された。
「何?どうしたの、今日はやけに素直じゃない?」
彼女はニヤけた顔で俺を見てきた。
「別に。……シャワー浴びてくる」
俺はすっかり元通りになった姉さんから離れようとした。
多分また揶揄われるようになるから。
「ヒヒッ、私が洗ってあげよっか?」
「調子乗んな」
腹の立つ笑顔をした自分の姉にそう言い残し、俺は浴室に入る。
「……はぁ。何やってんだか」
シャワーのボタンを押す。
瞬く間に出てくる熱いお湯に癒されながらも、激痛が走る。
「痛ッ」
体のあちこちの傷に染みる染みる。
この痛みも姉さんの心の痛みに比べりゃ……。
「……」
ただ下を向き、湯気に包まれながら頭上から髪を伝いお湯が滴るのを黙って見ていた。
償いは行動で取るしかない。
これからは毎日アカデミーに行って、喧嘩も対立もせず、平穏に暮らそう。
アーサーとはこれから長い付き合いになると思ったが、どうやらその目論見は外れたらしい。
しばらくはSHINERにもナカトミにも行かずに大人しくしていよう。
俺のためにも姉さんのためにも、それがいい。絶対。
そう決意し、浴室を出た。
でも湯船には浸かったから十分くらいらそこに居たんだと思う。
着替えてリビングに行くと、姉さんはコメディを観ていた。
いつも通りの笑顔を見て俺は少しホッとした。
そう思って少し彼女を見ていると、戻ってきたこちらに気づいた。
「ん、なに?」
「別に」
「そ」
ソファで姉さんの隣に座った。
きちんとこれからは変わるってことを伝えたくて。
これからはきっと真面目になるってことを。
「あのさ――」
「やめてよね」
「え?」
一体何をやめろと言うんだろう。
俺は戸惑った。
「これから僕は優等生になります!とかやめてよって言ってんの。アンタはアンタのままでいいんだから、これからもシルヴィオさんにもロブさんにも沢山世話になって、ビルとも沢山遊ぶのよ」
テレビを空見しながら彼女は続けた。
「私はただ隠し事をやめてほしいだけなの。アンタと私は唯一の姉弟、家族なんだから。嫌でも正直に話して欲しい。それだけなの。分かった?」
そしてこちらを見る。
「……じゃなきゃ許さないから」
――っ、なんだよ。
なんなんだよ。
なんでそんなに……。
……なんで。
「……っ」
俺は限界だった。
とうとう泣き出してしまった。
最悪だ。なんの格好もつかない。
俺が悪いのに。俺だけが悪かったのに。
散々人に冷たくして、世の中憎しと全てを他のせいにして。
挙句、企業の御曹司と仲良くなるために大喧嘩までした。
飲んだ後、下手にヘマをして、さらに身体は傷だらけ。
だのに彼女は何もかもお見通しで、俺を許すと言う。
しかも俺に変わってほしくは無いとまで。
じゃあ俺はどう償えばいいんだ。
姉の優しさにただ浸るだけで、俺は何を……。
一体何を……。
すると、姉さんの手が俺の頭の後ろを静かに通過する。
されるがままに頭を抱えられ、体を彼女の方へ傾けさせられた。
身体を姉さんに預けた。
その瞬間から涙は止まらず、ついには嗚咽も混じった。
罪悪感と優しさに押しつぶされそうだった。
俺は一体、あと何を捧げればこの恩を返せる?
俺はあと何回人生をやり直せばこの優しさに報いることが出来る?
それでも彼女は俺の頭を撫でた。
俺という不可逆の罪を、洗い流す事をよしとせず、ただ聖母のように受け入れた。
「本当に良い子ね。でも一人で抱え込んじゃダメよ。私はアンタが元気で居てくれて、たまに笑顔を照れくさそうに見せてくれるだけで幸せなんだから」
彼女は笑った。
「元気でいなさい。好きなことをして、遊んで、恋して、勉強もして、大いに暴れなさい!それでこそ私の自慢の弟よ」
俺はただ、その言葉に首を上下にするしかなかった。
「全くもう、バカなんだから」
姉さんは俺の額にキスをした。
そして何度も頭を撫でた。
泣き終わるまで、何度も、何度も。
これが俺の忘れられない“あの夜”の出来事だった。
どれもこれも、アーサーが居なければ起こらないイベントだったと考えると、あいつを親友だと認めるには十分なものだった。




