04.イタコ修業
ネグレクトを感じさせる描写があります。不快に感じられる方もおられると思いますので、ご注意ください。
家族と別れた翌日から、トメを師匠と呼ぶ生活が始まった。
通常は10歳くらいから始めるイタコ修業だが、私の場合はトメの家に預けられたその日から始まった。
今までは暖かな自分のベッドで寝たいだけ眠り、朝起きればテーブルの上には温かな朝食が用意されていた。それが普通の生活だった。
しかしトメに預けられたその翌日から、まだ日が昇らぬうちから叩き起こされ、師匠と自分の食事の用意から一日が始まる。
まだ眠いと布団に潜り込もうとすると、師匠によって布団をはぎ取られ、板の間に放り出された。
今までは当たり前だった好物のいちごジャムをたっぷり塗ったトーストにオムレツ、ミルクにサラダなど、色とりどりのおいしそうな朝食ではなく、冷やご飯にお漬物だけの質素な朝食だった。
私はたいして大食いな方ではなかったが、それでもこの質素な食事だけでは足りなくて、自分のお腹が鳴る音を始めて耳にした時は、とても驚いた。ドラマや漫画の中だけでなく、本当にお腹が鳴ることを知った。
それが終ると自分たちが使った食器の片付け、部屋を箒で掃き、雑巾で拭き掃除をする。自分の部屋さえも掃除をしたことがなかった私にとっては、とても大変な作業だった。
最初は雑巾の絞り方などしらなくて、絞り方が足りずに床をびしゃびしゃにして怒られたこともあった。
普通の子供ならば、まだ親の庇護下にいるはずの年頃だった。
一瞬で変わってしまった生活環境。
今まで普通だと思っていたものが、すべて一瞬でなくなってしまった。
母に厭われながらも、それなりに穏やかだった生活は、もうどこにもなかった。
質素な朝食や片付け、掃除を終え、師匠からイタコの修行について説明を受ける。
イタコとは何なのか、これからどんな修業をしていくのか順を追って話してくれているのだが、まだ5歳の子供だった私には師匠の言うことは難しく、イタコがどういったもので、これからどんな修業が始まるのかよく解らなかった。そもそも修業がなんなのかも、解っていない。
ただ1つ解ったことと言えば、霊が見え、霊と話ができるだけでは、イタコにはなれないらしい。イタコになるには、厳しい修業が必要と言うことだった。
(厳しい修行って、何?いったい私は、何をさせられるの?)
修業の言葉の意味さえ、知らなかった。厳しいと言う厳しさの基準さえ、理解できなかった。
しかしもう帰る家も家族もない私には、イタコになる以外に生きて行く術がなかった。
今まであたりまえだった生活がどんなに恵まれていたか、今ならばよく解る。
自分を棄てた家族であっても、一応はぬくぬくと守られて過ごしてこれたのだと今さらながらに思った。
厳しいも辛いも知らずに育った私には、イタコ修行は未知の領域だった。
しかし今は、師匠に言われるままやるしかない。それしかないのなら、どんなことをしても耐えるしかなかった。
トメを師匠と呼ぶようになってから数日後、私は環境の変化に耐えきれず、熱を出して何日か寝込むことになった。
身体と心のバランスが、崩れてしまったようだった。
「おかあさん、ごめんなさい。もう、何も言わないから、許して。お家に帰りたい・・・・・・・・。」
しばらく熱に魘される日々が続く。
夢さえも、私に安らぎを与えてはくれなかった。
(ああ、私はひとり。誰も迎えには、来ない。)
熱に魘され何度も意識が夢と現実の世界を行き来しても、私はひとりだった。
人とは不思議なもので、いつまでも寝込んでいることはできなかった。3日も経つと、身体は生きようと回復を始める。特に若い生命力は、強かった。
ここで死んでも、別に構わなかった。
親にさえ棄てられ、もう夢も希望の欠片も残っていない。別にイタコになんて、なりたくなかった。
そう思っていたのに、私の心を置いたまま、身体は回復して行く。
身体が元気になると、私にはもうイタコになるしか道は残っていなかった。
両親のところには、もう帰えることはできない。帰れる家もない。
学歴どころか小学校にも行っていない私には、お金を稼ぐ手段さえなかった。
もう涙も、出なかった。
(イタコになれば、何かが変わるのだろうか?)
もうそれしか選択肢はないのだから、しかたがなかった。もともと無口だった私は、さらに必要なこと以外喋らなくなった。
日中は家事や炊事、雑用などをこなしながら、早朝や夜に祓いの文言や経文、祭分、イタコ歌などを、師匠であるトメの口伝で教えられた。
師匠のトメとの生活は快適とは言えないが、それでもありのままの自分でいられた。時々訪れる霊のことを話しても、誰からも咎められることはなかった。
6歳になると師匠は私を、小学校に通わせてくれた。
いつの間に用意したのか新品のランドセルと、新しい洋服が何枚かを渡された時には正直言って嬉しかった。
この国では中学校までは義務教育なのだから、通わせてもらえて、あたりまえなのだが、師匠にはとても感謝している。
唯一の交通手段であるバス停まで、私の足で歩いて1時間。それからバスに乗って、1時間半。往復5時間の登下校は、苦にはならなかった。
勉強は嫌いではなかった。むしろ好きと言ってもいい。知らない世界を知ることは、とても楽しかった。
イタコ修業と言う異質な世界にいるため友達などできなかったが、学校は唯一の憩の場だった。
一般常識やいろいろな知識は、学校や本で吸収した。
家にテレビやステレオ、スマホなどがない分、時間が許す限り図書館に通いつめ、貪るように本を読んだ。
漫画やラノベは、私を夢の世界に連れて行ってくれる夢のアイテムだった。
もともと耳が良い上に、電気のない生活は夜が長い。それだけしかすることがなかったこともあって、修業は師匠も驚くほどの吸収力だった。一度聞けば大抵のことは、記憶できた。
通常、すべてを憶えるには、早くて2年、覚えが悪ければ10年以上かかると言われていたが、私の場合は1年と少しでほぼ覚えることは終えていた。
この後、水垢離などのイタコになる為の通過儀礼をおこない、これを通過することができると一人前のイタコとして認められる。
しかし私は修業が一通り終わっても、まだ小学生だった。
このまますぐに未成年の子供をイタコとして働かせるわけにもいかず、小学校、中学校は普通に学校に通いながら、イタコ修行と師匠の助手をして過ごした。
トメは師匠として申し分なかったし、私は普通の生活とは言い難いが幸せだったのだと思う。
15歳、私の中学校の卒業と同時に、100日の通過儀式を行うことが決まった。
朝昼晩33杯ずつの水をかぶり、水垢離で身体を清める。
穀物、塩、火を断ち、小屋に篭って経文や祭文を唱え続けた。
この間も水垢離は、続けなくてはいけなかった。春とは言え山の中は寒く、白襦袢1枚ではとてもつらい修業だった。
「うっ、寒~い。このままでは、まじ死ぬかも・・・・・・・。」
寒いなんてものではなかった。寒くて、寒くて歯が、カチカチと鳴る。身体の震えが止まらない。唇は紫を通り越して、すでに色は無くなっていた。
100日と言う期間は、私にとって永遠にも思えた。
逃げ出したいと思うが、どこにも逃げる場所はなかった。私には、帰る家はない。こんな時に守ってくれるはずの親も、いなかった。
「もう、あの世に行っちゃたのかも?」
儀式中に水垢離や断食などで気力も体力も極限に達し、私は気を失ってしまう。
この時、師匠であるトメが私の生涯の守護神、守り本尊になる神の名を聞き、私は昏倒しながらも降りて来た神の名を口走り成功となる。
この時、神が降りて来なければ、イタコになることは許されないのだそうだ。
この儀式は生死をかけた厳しいもので、実際に昔は命を落とした人も少なくなかったらしい。
こうして死の世界に潜り、神から認められた私は、15歳で一人前のイタコになった。
読んでいただき、ありがとうございました。これからもどうかよろしくお願いいたします。