失恋と出会い
何もできなかった俺に、泣く資格なんて無い。 そんなことわかっている。
「アキ!相田さんに、OKもらえたっ…」
その言葉に喉が縮み声が詰まった。
昼休みも終わる頃、教室のドアを勢いよく開け、息を切らしながらそう言い駆け寄ってきたアイツの顔が蘇る。眉を八の字にして「信じられない」と泣きそうになりながらも、頬を染め興奮気味に話す様子は、これまで見たことのない、アイツの初めて見せる表情だった。
当たり前だ。俺は友達なんだから。
ついにきてしまった。全身から嬉しさを滲ませるアイツを見て、俺の胸は何かに押しつぶされるように苦しさが増していった。
それでも、とにかく祝いの言葉を返さなければと、真っ白になった頭から絞り出した言葉は、ちゃんと言葉になっていただろうか。音が遠のき、自分の声さえもわからないままに、二、三言言葉を発した俺は教室を抜け、逃げ出した。
眼の周りの血管が、ジワジワと痛み熱を持つ。鼻の奥がツンと痛み、視界が滲みぼやけてくる。まつ毛が重さにしなっていく。溢れさせまいと眉間に力を込めると、視界は一層揺れ動き、目の前の景色は波のように歪んでいった。
泣きたくない、泣く資格なんてない。そう思う頭の中とは反対に、耐えきれないほど大きくなったそれは、玉となり頰を滑るように伝っていった。熱いほどの水滴は、それを合図に堰を切ったように、ボタボタと溢れ出した。
その水滴を隠すように、瞼をこすらないようにして手の甲で目元を覆い、どこに行くでもなく、とにかく走り続けた。
何もできなかったくせに、一丁前に涙だけは溢れてくるんだ。あの子みたいに努力もしていないのに。
後悔、嫉妬、自己嫌悪。せめぎ合い溢れ出しそうな感情が、嗚咽とともに喉元に押し寄せる。決して溢れることがないように、飲み込むようにして蓋をした。
俺には後悔を口にする権利もないと思うから。
嫌という程自分の気持ちはわかっていた。あいつが笑いかけてくれる度に息が苦しくなり暴れ出す心臓、上がっていく体温、崩れる思考。あいつの一挙手一投足に俺の心は振り回された。恋は人をおかしくするとよく聞くが、まさしくそれだと思った。
痛いほど自覚はしていたが、結局行動を起こすことはできなかったのだ。だって男同士だ。気持ち悪がられるかもしれないし、今の心地良い関係が壊れるかもしれない。それなら友人として、今まで通りでいた方がいいんじゃないか。友人と恋人は何が違うというのだろうか。一緒にいれるのならどんな形でもいいんじゃないか。
行動しようとする度に色んな考えや不安が襲ってきては足が竦んだ。結局、俺は足元を踏みならすことしかできなかった。
俺には、一歩を踏み出す勇気がなかった。
先延ばしし続けた片想いは、届くこともなく終わりを告げた。
ーーーーー
自分の気持ちに気付いたのは、中学卒業間近のときだった。自覚したのはその時期だったが、いつ好きになったかと問われれば、それはもうわからないほどずっと前だったと思う。
そろそろ進学先の決定が急かされる学年となった中学三年生の春、自分とアイツの進路希望表の中身が異なっているのを見て、衝撃を受けたのを覚えている。今は一緒の教室にいても、これからの進路が分かれる可能性があることくらい、当たり前のこととして理解していた。しかし、いざその違いを目にすると、脳のブレーカーが落ちてしまったかのように頭が真っ白になった。それから数日、勉強も部活も何だか手につかず、頭が飽和したまま学校へ通っていた。
その時は、友達と離れることにこんなにショックを受けるとは…と自分でも驚いていた。顔に出やすい質なのか、周囲からどうしたのだと心配されることもあった。でもこんな情けない気持ちを話すことも出来ず、なあなあと受け流していた。そうしながら俺は何ヶ月も先の別れに向けて気持ちをつくる決意を固めた。
しかし、夏休みを目前とした頃、突然「個別面談で先生から勧められたから考え直してみた」という報告を受けた時は、拍子抜けしたとともにひどく安心感を覚えた。だから強めに頭を小突いておいた。
心の中の一騒動も解決し、楽しい夏休みが始まると思っていた。にもかかわらず、俺はそれから夏休みの間、アイツと顔を合わせる度に妙に緊張するようになってしまっていた。自分の中の想像以上の執着心に気づいてしまったからなのか、変にアイツを意識してしまうようになったのだ。夏休みが明けてもなお続く自身の違和感に、何故なのだと自問自答を繰り返した。その中でじわじわと自分の気持ちが言葉として浮かび上がってはいたが、それでもそんな事は有り得ないと打ち消し続けた。
しかし、冬休みが終わり、受験を目前とした2月のバレンタインデー。クラスの女子からチョコを渡されているアイツを見かけた。その光景から生じた感情に、自分の気持ちを認めざるを得なかった。
ーーーーーーーー
(・・・どうしよう)
何も考えず駆け出した俺は、靴に履き替えるのも忘れ、上履きのまま校門をくぐり、学校から少し離れた草木が茂る公園の奥、隠れるように配置された休憩所のベンチに座っていた。
学校を抜け出してしまった。突然の出来事に衝動的であったにしても、逃げ出した自分がこれまた情けない。こすらないよう気を付けたが、結局腫れぼったい気がする瞼と、学生の本分さえも全うできていないという現状、土で汚れた上履きが視界に入ってくる光景に、惨めさが一層増した。
(・・・)
もう何も考えたくない。
とりあえず、目元を冷やそうと顔を上げ、目を瞑り風に晒す。瞼の内側から灯った熱が、風によってどこかへ運ばれていく。ひんやりとして気持ちがいい。
ぐるぐると暗い感情が混ざり合う内心とは裏腹に、木々の隙間から降り注ぐ陽射しは穏やかで暖かだった。普段から人は少なかったが、平日の昼間という時間帯もあってか、周りには一切人の気配がしなかった。
涼やかな風に木々が揺れ、葉が音を奏でている。ざわざわと近づく音の動きでも風を感じ、それが頰を撫でる冷たさが心地よかった。普段なら同級生達の楽しそうな声や慌ただしい音に溢れた場所にいる時間だ。それなのに、外にはこんなに静かで穏やかな世界があったのか。
今までは学校に通うことに対して、何も疑問を持つことはなかったが、この空間を知ると、なんだかあの世界だけに閉じ込められているのは、勿体ないような気さえしてきた。
しばらく目元を風に当て、冷やしていると、
「あれ、人いる?」
後ろから誰かの声が聞こえた。急に現れたヒトの気配に驚きつつも、反射的によく耳を澄ますと葉が擦れ合う音の中に、コツコツと石畳を歩く音が近づいてくるのがわかった。慌てて足音のする方を振り返ると、ちょうど手入れされた植物が被っており、入り組んだ小枝の隙間から黒い人影が近づいてくるのが見えた。
初めて学校を抜け出している俺は、全身からドッと冷や汗が流れ、肝が冷えていくのを感じた。どうしよう、学校関係者かもしれない。どうしよう。どうしよう。
頭の中がパニックを起こし身体も動かず、足音が近づいてくることだけがわかる。心臓が喉から飛び出そうなほど激しく動いていた。
すぐそこで足音が聞こえた。
「す、すみませんでした!!!」
「おわっ!何!?」
普段、学校では比較的真面目に過ごしているため、こんな状況に慣れていない俺は、先手を打とうと脳がパニックを起こしているままに声を張り上げて謝った。
しかし、返ってきた声は予想していた大人の声にしては少し幼く、慌てて目の前の人物に焦点を絞ると、そこには近くにある他校の制服を着た男が立っていた。手には学生鞄と白いレジ袋を提げている。学校の近くにあるスーパーの袋だ。彼はこちらも驚いたとばかりに両目を大きく見開いて、後退りするような体勢でこちらを見ていた。
緊張で上がっていた肩が落ち、浅くなっていた呼吸が落ち着いていく。とりあえず学校関係者ではなかったのだ。よかった、本当に良かった。落ち着きを取り戻すまで若干数秒、ようやく目の前で未だこちらの出方を待っている男の子へと意識を向けた。
「あ、ごめん。その、知り合いかと思いまして…」
「そ、そう、ですか…」
「その、驚かせてしまって、すみません」
「あぁ、イエ…」
制服を着ていることから、高校生であり恐らく歳も近いだろう彼と微妙に堅苦しい言葉を交わす。友達の友達というわけでもなければ、学校の交流行事のように何か意図を持って話をするわけでもない。更に先ほどの突拍子もない出会い、悲壮感を漂わせている自分、という様々な要因が合わさってか、よそよそしく妙に緊張感を持った空気が出来上がっていた。
まぁそれももう、今はなんだかどうでもいいことのようにも思えた。とりあえず学校と関係のある人ではなかったのだから。
鞄や靴などは置いてきてしまっているし、当たり前だが明日からも普通に学校はあるわけで、結局は必ず顔を合わせ、叱られる運命が待っているわけではあるが、それはもう後から考えよう。具合が悪かったとかでいいだろう、もういいだろうそれで、よし、大丈夫。普段真面目にやってたんだから、それぐらい許してくれ。いや許してください神様…。
なんだか投げやりな気持ちになっていた。
(そもそも、なんでこいつはここにいるんだ?)
人のことを言える立場ではないが、学校だと通常は授業があっている時間帯だ。この場所は公園の奥まった場所にあり、よく学校帰りに立ち寄ったりしていたが自分以外の人とここで会うのは初めてだった。勝手な話だが、なんだか自分だけの秘密基地のように思っていただけに、少し残念な気持ちになってしまう。
「その、知り合いと喧嘩とか…したんデスか?」
この気まずい状況にすぐに立ち去るかと思いきや、意外にも会話は続行されるようだった。制服の学ランを若干着崩し、染めているのか染めていないのかわからない茶髪をセットした、学則のギリギリを攻めているだろう姿から一見、素行不良な生徒のようにも見える彼は、外見の奔放さに反して、敬語で話しかけてきた。彼自身も敬語を使うことに若干の迷いがあるのか辿々しくカタコトめいた発音になっている。
(いや、外見で人を判断しちゃダメか)
つまりは、微妙な空気感を察知しながらも彼は俺に話しかけてきているということだ。
まぁ、そりゃあんなに切羽詰まって出会い頭に謝罪をしなければいけない知り合いとは、どんな関係なのか。自分も彼の立場だったら気になってしまうだろうなとも思う。なので俺は慌てて訂正しておいた。
「いや全然揉め事とか、そういうのでは」
それならば何なのか、と問われれば答えられない。しかし彼は、特に追求する様子もなく返事はあっさりとしたものだった。
「あぁ、ならよかった」
「・・・」
返事自体は淡白だったものの、目線を俺の顔からチラチラと外しながら気まずそうに、何か言いたげにしている彼の態度に、そんなに深刻な顔をしていただろうか、と自分の小心者丸出しな行動を思い出して恥ずかしくなった。
しかし、ふとそういえば、今は泣いて目が腫れていたのだということを思い出した。咄嗟に顔を下げ、前髪で目元を隠そうとはしてみたが、当然、手遅れである。
「あ、ちがっ、ごめん!根掘り葉掘り聞こうとかじゃなくてっ、たださっきの君が、すごい真っ青で鬼気迫るみたいな顔してたし、その、大丈夫なのかなって。ごめんな、全然知らない奴なのに」
顔を下げてしまったため彼の表情は見えなかったが、前髪の向こうに、俺の視界に入るようにして両手を慌てて振っている彼の手元が見えた。
その態度とこちらを気遣う優しい声色に、ふいに胸に何かが込み上げた。そして、糸が切れてしまったように大粒の涙がまた、ボタボタとこぼれ出した。
自分でも意味がわからない。もしかしたら久しぶりに泣いてしまったせいか、涙腺がバカになったのかもしれない。失恋と自己嫌悪でボロボロになっている心に、他人の優しさがぬるま湯のように染み渡った。
「ごめ、」
止まらない涙に、咄嗟にごめんと言いたくとも、裏返ってしまう声に言葉を続けることは出来なかった。こんな醜態を人前でも晒してしまうとは。更に歳の近い見知らぬ相手に、本当に今日は散々で情けない一日だ。
目の前で泣かれては迷惑だろうと思いつつも、止まりようのない涙に顔を上げることも出来ず、彼が自分から立ち去ってくれることを祈った。
しかし、その祈りに反して、彼は立ち去りはしなかった。
最初戸惑った様子を見せながらも周囲をニ、三度見回した彼は、手に提げていたレジ袋に手を入れガシャガシャと漁ったかと思うと、下を向き垂らしていた前髪をくぐるようにして、突然、袋から取り出したソレを俺の顔の真下に突き出してきた。
視界いっぱいに見えたのは、大きく膨らんだ茶色い紙袋だった。中央にはかわいい魚のキャラクターが描かれている。
目元から滴り落ちた涙で紙袋に濃い斑点が出来た。
濡らしてはいけない、と思わず顔を上げると彼と視線がぶつかった。ボロボロと同年代の男が号泣しているのを直視したからか、一瞬驚いた表情をしたが、間を空けてから彼は話しだした。
「えっと、とりあえずよかったらコレ食べない?鯛焼きなんだけど、さっき買ったばっかで出来立てなんだ。いっぱい買ってあるから、って熱っ!!!」
「!」
突如そう叫んだ彼が後ろに跳びのき紙袋から手を離した。
顔の下で握られていたものが膝の上に落ちた。確かにじんわりと制服越しにも熱が伝わってくる。
彼は、パタパタと団扇のように右手を扇がせ「あっつ!」「ホントに出来立てでっ…!」「あっつ…!」と涙を滲ませながら繰り返し一人で騒いでいた。
なんだかコントみたいだと思った。
「ふ、ははっ」
一人悶絶する彼を見ているとなんだか笑いがこみ上げてきた。緩む口元に、笑っては駄目だと思いつつも、こみ上げるものに逆らうことができずに笑っていると、彼と目が合った。
彼は痛みで眉をしかめながらも、安心したようにニッと無邪気な笑みを返してくれた。
ーーーー
「オレここの鯛焼き大好き」
涙も引っ込み、改めて袋から取り出し差し出された鯛焼きを受け取ると、彼は自分の分も紙袋から取り出して口に含みながらベンチに腰を下ろした。一人分空けたスペースには、まだ沢山中身が入っているだろう紙袋が置いてある。
彼が渡してきた鯛焼きは、鯛焼きと呼ぶにはいささか疑問のある形をしていた。鯛焼きと名を打ちつつも、ここらへんの地域の特色をモチーフとしたゆるキャラ型に焼かれたそれは、なんとも言い表せない形をしている。原型が魚であることはわかるが、本来横顔が見えるであろう場所に2つの目と口があり、尻尾があるはずの場所には足のような焦げ目がある。
(ヒラメかカレイ…マンボウ?)
近くのスーパーで販売されていること自体は知っていたが、実際に食べるのは初めてだった。
ふと隣の彼を窺い見ると、既に一匹を平らげたようで、二匹目にかぶりついていた。
彼に倣って頭から食いついてみる。控えめにかじったにも関わらず、舌に乗った柔く甘い餡子に自然と頬が緩んだ気がした。
「美味しい」
「ここの鯛焼きは餡子がたっぷりで超美味いの。疲れた時とか頑張った時にサイコーなんだよ」
正面を向いたまま、そう話した彼は二口で恐らく足まで口に含み、両手を組んで伸びをしながら目を瞑っている。
ただ単にリラックスしているようにも見えるし、出来るだけこちらを見ないように気遣ってくれているようにも見える。とりあえず自分も同じように前を向いて二口目の鯛焼きもどきを頬張った。口に広がる甘さに、彼の言うこともわかるなと思う。涼やかな風も本当に心地がいい。
「今日テストだったの?」
昼間にここに居ることや、頑張った時に鯛焼きを食べると話していたことから、なんとなく思ったことを聞いてみる。
「そ。最終日だったからご褒美に鯛焼き買っちゃった。今回の範囲広くてオレ超頑張ったんだ」
「期末テスト?早いんだな」
「うちの高校、変な時期に文化祭あるから。それに合わせて前倒しでやってるみたい」
「制服見て西校かなって思った。西校文化祭有名だよな。一昨年始めて見に行ったら人多くてびっくりした」
鯛焼きもどきを食べながら取り留めのない会話が続く。沈んでいた気持ちも少しだけ和らいだ気がする。とりあえず直視せずにすんでいるからかもしれないが。
「上の兄弟いる?」
「え、いる。兄が一人と姉が一人。なんで?」
「ははっ、そんな感じした」
「そんな感じ?」
特に深い意味はないと言いつつ彼は可笑しそうに笑っている。
(「そんな感じ」ってどんな感じだ?)
たまたま居合わせた、初めましての関係にも関わらず、意外にも話は途切れずゆっくりと穏やかに時間は過ぎていった。目元の腫れもきっとそこまで目立たなくなったんじゃないかと思う。
(今なら教室に戻れるかも)
戻ってからの面倒なことが次々と浮かびあがる思考を一旦保留し、戻らなかった場合の面倒事を考えて勢いに任せて立ち上がる。
「どうした?!」
話の途中で急に立ち上がった俺に驚く彼に鯛焼きのお礼を伝え、好機を逃すなとばかりに走り出した。
直ぐにでも行動しないと、動けない性格は嫌というほど自覚している。
そんな気持ちと行動に反して、突然左腕が後ろへと引っ張られた。前へ進もうとする自分の意図に反して後方へ移動した重心はコントロールできるはずもなく、衝撃に備えて反射的に目を瞑ることしか出来なかった。
「あ、ごめ!」
ドン、と思っていたよりも固くない衝撃と、寸でに聞こえた声に、恐る恐る目を開けると目の前は真っ暗だった。
「え、なに!?」
咄嗟に疑問が口から出たが、落ち着いて腕を地面につき体勢を立て直すと、真っ暗だと思ったのは学ランの生地で、地面だと思ったものは先程まで話をしていた他校の男だった。
つまり俺は彼の上に倒れ込んでいるということか。
「うぐっ、痛てて」
その刹那、他人事のように状況を把握した俺は、下から聞こえた呻きに慌てて我に帰り飛び退いた。
「あ、悪い!大丈夫!?」
「いや、オレが引っ張ったから…」
急いで彼の手を取り怪我がないか確認する。ゆっくりであったが身体を起こし立ち上がる様子に、とりあえず骨折や捻挫などはなさそうだと胸を撫で下ろした。
「ごめん、怪我とかしてない!?」
立ち上がった彼はパッと慌てたように俺の腕や膝を心配していたが、彼が下敷きになっていたこともあり、どこも痛くないと答えるとほっとしたように息を吐いていた。
「ほんとごめん、呼び止めればよかったんだけど、名前知らなかったと思って」
「いや、俺も突然離れたから。なんか忘れ物してた?」
そもそも学校を突発的に飛び出してきたから忘れる物もないような気がしたが胸ポケットやズボンのポケットを確認しつつ思いついた理由を尋ねてみた。
「忘れ物じゃなくて。・・・よかったらなんだけどLINE交換しない?心配・・・はあるけど半分建前で、何となくもっと話したいなって思ったから」
始めは斜め下を向いていた視線が、途中から意を決したようにしっかりとこちらを見ていた。
意外というか、予想もしていなかった言葉に返事の言葉も浮かばない。
「LINE…」
「嫌ならいいから、てか俺のID伝えるね。もし大丈夫だったらメッセージちょうだい」
彼は持っていた鞄からペンを取り出し、少し悩んで紙袋の端を千切って文字を書き始めた。その姿がなんだか面白い。
受け取った切れ端には慌てて書いたからか、塗りつぶされてる箇所もありつつ、短いアルファベットと数字が並んでいた。もともと紙袋に印字されていた魚のキャラクターも居る。
「これゼロじゃなくでOだから、一応ふりがな振っといた」
「ははっ、俺相手に言うのも変だけど、ナンパみたい」
くすくすと込み上げる笑いとともに、茶化すように彼の顔を見ると「うぇ!?・・・確かに」と口元を覆い少し恥ずかしがっている様子に、また自然と笑ってしまった。面白いやつだと思った。
「俺、アキって名前。今スマホ持ってないんだけど絶対後で登録する。そっちも追加登録よろしく」
ーーーーーーー
その後、学校に戻ってからは案の定担任に呼び出されたが、日頃の行いも手伝ってか思ったよりも長くは拘束されず、「次同じことがないように」と念を押されるに留まった。
友人には心配や迷惑をかけたことをメールやLINEで謝ろうと思っていたが、教室に入ると呼び出しが終わるまで待っていてくれたようで、「なんかあったなら言ってほしいし、お前がいないのは寂しい」と普段は軽口を言い合う奴らが、真っ直ぐに伝えてくれた言葉に、本日何度目かもわからない涙が込み上げそうになり焦った。
「本当にごめん」と謝る俺に、肩を小突きつつ「戻ってきたならヨシ!ノートも明日見せるから心配すんな!また明日な」と何事もなかったかのように部活へ急ぐ姿に申し訳なさと感謝で一杯になった。
部活に向かう友人を見送ったあと、なんとなく直ぐに帰る気持ちにはなれず、先程急いで靴底だけは拭っていた上履きを改めて雑巾で拭いた。前日の雨のせいか、飛び跳ねた土が側面にも点々と付いている。
とび出した理由については、はっきりとは説明出来なかった。「男友達に失恋した」なんて。友人を信用してないわけではない。でも受け取り方はそれぞれだし、万が一にも失いたくない関係だと思ってしまう。
それに「失恋した」なんて、行動もしてない俺が言うのはやっぱり憚られた。
ーーーーー
外は既に陽が沈み、家屋から漏れる光が淡く道を照らしていた。
家に帰ると、自宅にも連絡は入っていたようで母に問い詰められたが「ごめん、二度としないから!」と言い捨てるようにして自室の扉を閉めた。
(自業自得だけど、疲れた…)
部屋で一人になると、途端に暗い気持ちが蘇ってきた。きっと明日から特別何かが変わるわけでもない。だって何も行動出来なかった俺は、アイツにとって単なる友人の一人に過ぎない。なんなら冷やかしの一つでも準備していくべきなのだろう。
(そういえばアイツとは会ってないな)
勢いに任せて学校に戻り、その後の怒涛のやりとりで考える暇もなかった。そもそもクラスが別なのだから、あの後、少しは疑問に思いつつも普通に教室に戻っていったかもしれない。
(帰りはあの子と帰ったのかな)
考えても仕方のないことだとわかっていながら、どうしてもアイツとあの子の並んで歩く姿が脳裏に浮かぶ。笑い合う顔も自然と想像できてしまう自分に嫌気がさした。
彼女が頑張る姿をアイツの友人として間近で見てきたのだ。友人として隣にいることを選んだ身でありながら、日々彼女の努力に比例して縮まる距離に、その過程に、羨ましいと思ってしまう自分が浅ましいと思った。
(支離滅裂だ…)
またも熱を持ち始める瞼に、このまま部屋に篭っていてはグルグルと思考を巡らせ、明日の朝には涙で干からびてしまうと思った。
(・・・風呂に入ろう)
とにかく気を紛らわせたい気持ちと、冷水で目元を冷やしたいという目的から自室の扉に手をかけた。
「アキいる?」
自室の扉前から聞こえた声に、心臓がギュッと掴まれたような驚きと、全身の血液が逆流するかのように内心は忙しなく張り詰めた緊張を感じた。全身の毛穴から冷や汗が押し出されようとしている。
今お前と合わせる顔は持ち合わせていない。
アイツが俺の家に来ることは今までに何度もあった。それこそ小学生の頃から、互いの家は「お邪魔します」「お構いなく」と挨拶こそすれど気兼ねなく出入り出来る場所であった。親も慣れてしまったようで「自分の部屋にいるわよ」と特に気にも留めず案内している。
「アキ、入っても大丈夫?」
既に扉前に立っているだろう相手に、どう断りの言葉を告げれば顔を見せずに済むか瞬時に思考した。しかし、焦る頭ではまとまる考えもなく呆然とただ扉の取っ手を握って立ちすくんでいた。
部屋の明かりは扉の上部にある透明ガラスから透けて見えるし、物音だって聞こえたはずだ。今更居留守は使えないし、そもそも親が「いる」と伝えているだろう。なんなら俺が扉前に立っていることも薄々気づいているかもしれない。
「・・・」
「アキ?」
心配を含んだ声色に胸がギュッと苦しくなる。思わず返答してしまった。
「いる。けど、ヒロムちょっと待って」
「え、わかった…けど」
普段なら「どうぞ」と気の抜けた声で返ってくると思っていただろう返答が違ったことにヒロムも少し戸惑っている様子だった。言葉にはしないが「何故?」と言いたげなニュアンスが伝わってくる。
(どうしようどうしようどうしよう)
確実に、今顔を合わせたらダムが決壊したかの如く号泣する。既に膜を張っていた瞳が、一層揺らぎを増していく。このままじゃ喋ることさえ出来なくなる。
「・・・ごめん。今日の昼休みにアキなんか落ち込んでたのに、オレ自分の話ばっかりして。なんかあった?」
俺の内心はバレずとも、沈んだ気持ちは気づかれていたようだ。つくづく自分の詰めの甘さに嫌気がさす。
「なんにもない!確かにあの時は腹痛くて走って教室出たけど、俺の方こそ、せっかくヒロムの嬉しい報告聞けたのにちゃんと祝えてなくてごめん。俺も、・・・嬉しかった。相田さん良い子だし愛想尽かされないようにしなきゃな」
「腹は大丈夫なのかよ。・・・ありがとうだけど、なんか遠慮してないか?あと、なんでドア越し?もう開けていいの?」
「ま、待った!遠慮はしてないから。でも今日はちょっと、部屋には入れられない」
もうどうにでもなれと、とにかく開けられないことをゴリ押ししてみる。涙腺は既に限界を迎え3、4粒程頬を伝っている。取手を両手で握りしめ、声色だけでも必死に平静を装った。
(お願い、帰ってくれ)
「入れられないって」
グッ…と握っていた取手が別の意図を持って動くのを感じ、決して開けられないように、こちらも力を込めた。
「・・・わかった。今日の所は帰るけど、明日絶対に話してくれる?」
「話す!だから本当に今日はごめん」
とりあえず引き下がってくれたことに安堵し、頬を流れる水滴達を制服の袖で拭った。
その時だった。手を離した取手が一人でに下がり、奥へと遠くなっていく。
勢いよく外開きの扉が開き、隔たりが無くなった目の前には、呆れたようにこちらを見るヒロムの姿があった。
「絶対なんかあっただろ、帰るわけない」
予想外の強行突破に、驚いて固まっていることしかできなかった。
ヒロムは水滴がいくつも伝う頬を両手で包んだ。咄嗟に、手に涙がつくからと振り解こうとした俺に抵抗するように、少しだけ力を込めるのがわかった。
「アキのそう言う所、嫌い」
手の平で乱暴に俺の頬から瞼を拭いながら「オレはそんなに頼りないか、泣き虫野郎」とヒロムは言った。苛立っている言葉とは裏腹に優しさを滲ませる声色と行動に胸が締め付けられる。
(やめてくれ)
更に増す涙をどう受け取ったのかはわからないが、「よし、よし」とヒロムは赤子を宥めるように優しく俺を抱きとめた。
ーーーーーー
「嫌いっての取り消せ」
結局、「理由は話せない」と泣きながらも頑なな俺に根負けしたヒロムは、涙が止まるまで無言で背中をさすってくれた。俺も時間とともに少しは平静を取り戻せたと思う。とりあえず号泣して気まずい状況を壊したくて、芯を食わない程度の軽口を切り出した。
「アキのそういう所、本当に末っ子を感じる」
「なんでだよ、偏見だ」
「いい意味でだよ。そこは好きだけど、嫌いも取り消せない。事実だし」
「・・・っ」
軽口に対して、珍しく本音を織り交ぜて返ってきただろう返答に、どうしようもなく言葉が詰まった。
「中学の卒業前にも、似たようなことあっただろ」
「・・・え」
「黙ってたけどアキが部室裏で泣いてんの見たんだ。それからしばらくずっと元気ないのに相談の気配も無くて。いつもは宿題忘れたとか直ぐに泣きついてきてたのに。オレは本当は頼りにされてないんだって当時すごいショックだった。だから次は意地でも放っとくもんかって思ってた」
まあ今回も理由は教えてもらえなかったけどな、と言いながらヒロムは皮肉のこもった恨みがましい目線で訴えてきた。
そんなことあったか?と惚けつつ、顔を見られたくなくて、涙を拭くフリをして顔を覆った。そんな前のことを覚えていてくれたこと、心配してくれていたことを嬉しく思ってしまう。一方で、純粋に友人として温かい情を尽くしてくれるヒロムを裏切ってしまっている自分も嫌になった。こんな気持ちを持って側にいるのは、相田さんにも申し訳ないと思った。
ヒロムが好きだ。
だからこそ、ヒロムの思うままに幸せになってほしい。
これだけ友人として大事にしてくれているのだ。もう充分じゃないか。これ以上を望むなんて、贅沢だろ。
いつもは自分に言い聞かせるように頭で繰り返していた言葉が、今日はすんなりと受け入れられた気がした。
ーーーーーー
落ち着いて軽口を叩く俺に安心したのか、ヒロムは以降、深く追求することはなく、台所から保冷剤、洗面所から濡らしたタオルを持ってきた後「また明日な」とあっさり自分の家に帰って行った。
昔から涙腺の緩い自分の近くに居たこともあって、手当てのように慣れた様子で欲しかったものを的確に準備してくれたヒロムに複雑になる気持ちもあったが「ありがとう」とお礼を伝えた。
今度、相田さんにも「おめでとう」と伝えようと思った。完全に気持ちの整理が出来たわけではないが、これから少しずつ出来る気がした。自分の気持ちに偽りなくヒロムの友人として、ヒロムの選んだ相手とヒロムを祝福したいと思えた。
今までとは違う前向きな気持ちの変化を嬉しく思えた。
(風呂に入って早く寝よう)
脱衣所へ移動する前に制服の上着をハンガーに掛けようと思った。ポケットを確認すると、日中受け取った紙切れに気づいた。完全に忘れていたソレを慌てて取り出し、鞄に入れっぱなしにしていたスマホを操作した。
律儀に振り仮名のついたアルファベットと数字を一つ一つ入力した。“葉月”という名前とともに鯛焼きのアイコンが表示された。わかりやすいなと笑いつつ、そのまま友達登録をしてメッセージを送った。
『アキです。今日は鯛焼きありがとう』
悩みつつ『テストお疲れさま』という言葉とともにおやすみなさいと書かれたスタンプを送った。約束を果たせた少しの達成感を感じながら脱衣所へ向かおうと扉に手をかけようとした時、後ろからブブッとスマホの振動が聞こえた。
再度振り返り、スマホを手に取ると
『葉月です』という短い言葉の後に、ヒラメのようなカレイのようなマンボウのような、そんな正式名称のわからないキャラクターが「よろしく」とお辞儀をしているスタンプがついていた。
スタンプまであるのか、と地元のゆるキャラの意外な販路の広さに感心していると
『学校へは無事に戻れた?』
とメッセージが届いた。
『戻れたけどいっぱい注意された。今度からはちゃんと早退手続きをする』
という言葉とともに「反省中」と書かれたスタンプを送ると、直ぐに既読が付き、
『ちゃんと???』
と疑問符の多い茶目っ気のある返信が来た。「ふふっ」と笑いつつ、
『ちゃんと!!!』
と同じ数だけ感嘆符を付けて返信すると、直ぐに『笑』とだけ返ってきた。