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自作小説倶楽部 第25冊/2022年下半期(第145-150集)  作者: 自作小説倶楽部
オープニング
1/26

00 奄美剣星 著  『魔女の理科実験室 01』

挿絵(By みてみん)

©奄美「フランス窓」

 魔女に出会った人は幸いである。なぜなら、あの美しい〝塩〟の結晶を目撃することが出来たのだから。〝塩〟は、オレンジのような香りを放ち、恋太郎を酔わせた。高校一年の冬だった。

 どこの学校にもあるように、恋太郎が在籍した高校にも科学室があった。

 フラスコがあり、ビーカーがあり、試験管やアルコールランプを置いたテーブル、そして試薬を収めた棚が置かれている。違いといえば、ただ一つだけあった。その科学室には魔女の血を引く化学教師がいた。名前は麻胡。祖父の代に、戦前に台湾からやってきてそのまま日本に帰化した。先祖には葛洪という仙人、麻胡という女仙がいて、生家の男女は何代かおきに襲名するのだそうだ。

 麻胡。

 なんて神秘的な響きなのだろう。「麻」の下に秘術を意味する「鬼」をつければ「魔」となり、「胡」は西をさすから、「西からきた魔女」だ。麻胡のローマ字表記〝Maco〟は〝Mago〟とも書け、魔法を表す〝Magic〟という英語にさえ似ているのは偶然だろうか。

 実際、化学というのは魔法使いや魔女たちによって培われてきたものだ。中国での火薬。ドイツ・マイセン窯での磁器。化学を古風にいえば〝仙丹術〟とか〝錬金術〟となる。

 長く艶やかな黒髪、華奢な体躯、細くしなやかな四肢。ヴァイオリニストが奏でるかのように、なめらかな動きをした指が、黒板に、異国の文字を、規則的に書いていく。

 福音を唱えるかのような法則的な声は、ライン川の魔女ローレライが、転覆させる瞬間のようだった。操舵を忘れた水夫のように、男子生徒は、講義をまともに聴かず、講義の間ずっと、惚けた顔をしていた。

 化学における〝塩〟〝Salt〟とは何か。

 ――酸由来のアニオンと塩基由来のカチオンがイオン結合した化合物。酸と塩基成分の由来によって、無機塩、有機塩とも呼ばれる。

 では塩基とは何か。酸と中和反応して〝塩〟を生成する物質グループのことだ。

 女子はノートをとり続け、男子はただ惚けていた。恋太郎は恋太郎なりに考えた……つもりだった。

 麻胡先生のいう、〝塩〟と、トマトサラダに振りかける食塩との比較。

 ――酸味の利いたトマト、これに塩を振りかける。美味しく食べられる。美味しく食べられる状態が中和反応で、塩化ナトリュウム〝食塩〟になった状態。化学肥料をやったのが無機塩、堆肥をやったのが有機塩だ。

 恋太郎が勝手な解釈をしていると、心に直接語りかけてくる存在を感じた。

(あら、こういう解釈もあるわよ)

 麻胡先生の声。いや、目線というべきか。その人は、テーブルの間にある通路をすり抜けて、教壇から恋太郎の後に行き、恋太郎の肩を叩いた。

(私が酸で、あなたが塩基。そしてこれが中和反応)

 少年の唇に、その人が唇をそっと重ねた。オレンジのような香り。

 突然、麻胡先生がテーブルを叩いて大声をはりあげた。

「こらあっ、男子ども。何を妄想してた?」

 惚けていたのは恋太郎ばかりではなかったようだ。化学室にいた男子生徒全員が、冷水をかぶせられたかのような顔になった。

(や、やばい。心を読まれた。麻胡先生は魔女だった!)

 翌年の春、麻胡先生は修士マスターの資格をとるため大学に戻ることになった。〝お別れ会〟で体育館に集められた生徒、特に男子生徒の大半が、壇上にいた麻胡先生をみつめて一斉に、「嘘だ!」という声をあげた。


               ***

    

 十年後。

 女の子にプレゼントを贈るなら、同じ年頃の店員に選ばせることだ。――そんなふうに会社の先輩がいうので、想いを寄せる娘に香水を贈ろうと、三越百貨店にやってきた恋太郎は、化粧品売り場を散策していて懐かしい匂いを感じた。

 甘酸っぱい匂い。店員は麻胡先生に似てなくもない。

「香水は、花のエッセンスでつくります。オレンジではありません」

 笑顔まであの人に似ている。

 恋太郎は香水の名前を忘れてしまったのだけれども、香りだけは、いまも、記憶しているのだった。


     ノート20120615

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