とあるりゅうのむかしばなし
始まりはどこからであったのだろう。
己が眼を閉ざして彼は思う。
初めによみがえる記憶は、はるか無限に続く空間だ。
彼が生まれた時、世界はまだ世界としての様相を呈してはいなかった。すべてが存在し、されどもありとあらゆるものが形をなさない場所。空間の位置すら固定されずに曖昧で、ゆえに彼は虚実の入り交じったその空間を切り払い、光と闇とに分けたのだ。そこから更に空と大地と海とを築き、時を示す太陽と月を置いた。
――創造主。
遠い記憶の奥底で波のようにさざめく声がある。
柔らかに呼びかける、声がある。
――あなたの創る世界は美しいのだな。
始めから与えた役割などなかった。ゆえにそれは義務ではなかったのだ。
ただこの世界へ繋がれたその時から、自らの意思で世界を愛し、護ると定めた者だった。これから世界へ起こるすべての事象をその身に記録として刻むのだと、彼の創った世界を眺めてはうれしそうに微笑んでいた。
美しい、か。
そんなもの彼には微塵もわからなかった。数多の生命を世に放ったのはただの退屈しのぎに過ぎなかったのだ。原初の七神の他に幾多の神霊や星霊が生まれ、数多の命が世界にばらまかれたようとも彼にはどうでもよかった。けれど、そんな事情などあれには何一つ関係なかったのだろう。
――地上で肉体を保つのはまだ難しいようだ。
始めの頃、生命には肉体がなく、魂という概念のみで暮らしていた。それでも少しずつ進化を重ねており、あれは幾度もその様子を見てきては彼に語って聞かせてきたのだ。そんなことせずとも見渡せように、あれは必ず自らの足で生命の元へ赴いた。興味はなくともその声を聞くのは心地よく、彼もつい耳を傾けてしまったものだった。
――今日は陸に根を伸ばした草を見つけた。もう少しで彼らも海から出てくるだろう。
ひとまず水の中で泳げる肉体を得た生命は、次は陸に上がろうとしたらしい。今は地へ長く出れば肺が焼きただれてしまうが、いずれは克服するだろうと。陸ではどんな進化をするのかと、楽しげに語る姿は見ていて悪い気はしないものだった。
――今日は空を飛ぶものが生まれたのだ。
あなたも見に行かないか、と彼を連れ出した手はなぜだかひどくあたたかく感じられた。
だから、だろうか。移動などせずとも世界を見ることができながら、自ら赴くことを決めたのは。
互いに背の翼をはためかせ、数多の生命を共に見て回った。土に根を張り他の生命の支えにもなっているもの、海を自由に泳ぎまわるものや胴体を駆使して地を這い時には手足を使って駆け回るもの、それから発生したばかりと聞いた空を飛ぶものたち。陸地から少し浮く程度の翅を持つ生命もいれば、雲の見える位置で飛び続ける生命もいる。速く遠く空を飛び続ける生命もあり、それらは地をかける足をなくしていた。代わりのように得た羽は、柔らかな羽毛を幾重も重ねた、あれの背にある翼とよく似ていた。
そういった様々な生命をその視界に収め、進化というのは面白いものだと微笑むあれへ、そうかとだけ彼は返した。
それ以上に重ねるべき言葉は、見つからなかった。
やがてそれぞれの個体は集団生活を始め、縄張りを定め、時として無意味に争いを始めた。
海でも陸でも空でも同様の事象が見られたが、あれは決して手出しをしなかった。それらの事象は記録すべきことではあれど、干渉はすべきでないと判断したようだ。
生命が完全に死に絶えそうな時には手を貸したが、それ以外の事象をあれはすべて見守るだけに留めた。病が流行り多くの生命体が活動を停止しても、凍てつく寒さが地表の全てを覆い隠そうとしても、燃える大地がすべてを灰と化そうとわめきだしても、それが生命の完全なる消失を招かない限り、あれが手を貸すことはなかった。
助けはせんのか。
ある時、彼は訊ねた。あれはその言葉にきょとりと青い目を瞬かせ、何故かと逆に問い返したのだ。
お前はあれらを気に入っているようだったろう。
他の神々がそうであったが、だれしもお気に入り個体に対しては特別な措置を施していた。他の全てを打ち砕く力を与えたり、必ず逆境に打ち勝てるほどの知恵を与えたり、そういった奇跡と呼ばれる贈り物をするのだ。
彼の問いに、あれは、ふっと口元をゆるめるに留めた。
――彼らは生きているのだ、創造主。あなたが創り出した、この世界で。
生きるとは、自らの力で立ち上がり、自らの意思で歩むことを決めていくものなのだと、そう、あれは告げた。痛くても辛くても苦しくても身を引き裂かれそうな悲しみに揺さぶられようとも、生命は自ら立ち直り、時として協力し互いの力を借りて前へ進んでいく。そうして行き着いた先で、喜び、楽しみ、うれしさを得ては次の生へと繫いでいくものなのだと。
――進化の力は彼ら自身が生み出すものだ。私の手でそれを摘み取るわけにはいかない。
過ぎた力は生命を堕落させるだけなのだから。
あれはそう締めくくり、彼の爪の先を両手で抱くように持ち上げ、そっと頬をすり寄せた。それは親子の――そう、地上を見回った際に見た、獣らのふれあいにどこか似ていた。
――あなたの
視線の先、よく知った唇がやおらに動く。
水面に広がる波紋のように、静かに響く、音がある。
ゆるりと細められたその青を、そっと風に揺れるその銀を。
――あなたの創った世界だ、創造主。
彼は、今も。




