遭遇1
夢と希望を胸に進むのが若者? 年寄りにも夢と希望はある。かなうことはごく稀だ。
集中治療室で様々な医療機器につながれ、野口明は、がんの末期を迎えていた。
妻は数年前に交通事故死し、子はいなかった。
最期を看取ってくれる約束の姉弟とは、コロナパンデミックのせいで一度も面会ができなかった。コロナ検査では陰性だったが、病院ではすべての面会が禁止になっていた。
気遣ってくれたことに感謝を伝えたかったが、もう灰になってからしか会えない。
余命がわかった時に用意した遺言書は、法務局に預けているからトラブルにはならないだろう。
最後の仕事は未定稿のままだ。まだまだ書きたかった。読者や編集さんには本当に申し訳なく思う。
「……なんで……こんなことになったかなぁ……」
苦しい息の下で、それが最後の言葉だった。
目を開けると、薄暗いところに立っていた。
「……病室にいたはず、ここどこだろう? あのー、看護師さーん?」
薄暗いが部屋の中ではない。声もあまり響かない。立っているのに床はない。
……これは覚えがある。以前書いた軽い小説、異世界転生物の書き出しはこんな始まりだったか? 次は猫が話しかけてくる……だったか?
「ようこそ、エルクさん」
「あ、はい」
後ろからの声に振り向くと、白い猫がエジプト座りでこちらを見てた。
目が合うと小首をかしげた。長めの白い毛に、金と青のオッドアイ、しっぽは体に巻かれている。昔、家にいたシロ丸にそっくりだ。
……話しかけたのはこの猫?
「ええ!……今の……シロ丸がしゃべった?」
「しゃべったのは私ですが、そう驚かれても。エルクさんの書いた小説では猫が話していますよね。それでこの姿にしたのですが……」
……おおっ! 声の通りに口が動いてる。
「いや、それは……。たしかにそんな話は書いたけど、それはお話であって……普通じゃ猫はしゃべらないでしょ」
……ああ、そうかこの状況が普通じゃないか。がん末期で集中治療室にいて、……死んだのか?
「……シロ丸……迎えに来てくれたのか?」
「いいえ。私はシロ丸ではありませんし、天国からのお迎えでもありません」
「……私は死んだのでしょうか?」
……異世界物だとこの猫は、神さまとか管理者とかかな? なぜ『エルク』と呼ぶのか?
「はい、死にました」
「……やっぱりか」
「エルクさんの肉体は死んで今は精神体、魂だけの存在でここに居てもらってます」
「ではあの、あなたはどなたでしょうか? なぜ私のペンネームで呼ぶのでしょうか?」
「私が魂を選ぶ時は、その記憶をのぞきます。あなたの『エルク』という名前の記憶、知識、感情が気に掛かり、ここにお呼びしました」
白い猫はペコリと頭を下げた。
「私は、魔王です」
「え、はい?」
「魔王ルキフェ、と申します」
魔王ルキフェはほほ笑んで答えた。
……しゃべるのだからほほ笑みもするのか。しかし、魔王とは……。
「け、契約した覚えはない。魂はやらない!」
右前足を上げ、ピンクの肉球を見せて慌てたように答えた。
「勘違いさせたようですが、私は悪魔ではありません。エルクさんの魂が欲しいわけではありません。……いや、欲しいのかな……」
「あげません!」
「欲しいと言う意味を説明させてください。奪うとか地獄に落とすとかではありません。お願いを聞いてもらいたいのです」
「……魔王ってサタンとか、悪魔や地獄の王では?」
「いいえ、私はティエラ世界の魔族の王、魔王国の王、魔王です。魔王国が陥っている不幸の繰り返しを止めるのに力を貸してほしいのです。話を聞いてほしい」
ルキフェは頭を下げた。
「悪魔の契約ではないんですね? うーん、魔王様とお呼びすればよろしいのですか?」
「いえ、ルキフェと呼び捨てにしてください」
「初対面の人……人か? を呼び捨てにはなかなかできないですね。ルキフェさんと呼んでいいですか。詳しい事情がわからないとなんともお返事できないです。……もし、お断りしたら私はどうなるのでしょう?」
ルキフェは視線を落として答えた。
「どうもなりません。今は旅路の途中で寄り道をしてもらっているようなものです。魂は輪廻転生の旅に戻り、前世のことは忘れ、新しい生を得るでしょう」
「……ルキフェさんは神とか管理者ではないんですか? 魂ですか? 輪廻転生しないのですか?」
「神とか管理者……。エルクさんの小説に出てきますね。神は存在を知覚したことはありません」
こちらを見つめて話すルキフェの目、オッドアイの猫って本当に綺麗だ、などとどうでもいいことを考えていた。
「ここでの私も、魂だけの存在です。私が選べるのは二つ。一つは魔王として復活する。これには大きな問題があります。二つ目は、誰かに魔王を代わってもらい、輪廻転生の輪から離れ魂を消滅させることです」
……輪廻転生あるのか。いや、これは全部夢とかじゃないのか? なにかのペテンか? でも話を聞くのはネタにならないか? なぜシロ丸の姿か? 消滅するってどうなるんだろう?
「もし話を聞いても私のリスクにならないのであれば、話は聞いてみたいです」
笑顔の猫を見たことがあるだろうか? 反則だ。