八話『田万里ンピック』
「タマリン、タマリン、田万里ンピック~♪」
ミミが、運動会でよく流れる『天国と地獄』のフレーズに合わせて適当な歌を口ずさんでいる。
歌だけなら良いのだが、こいつは毎日のように夜中の運動会も開くから困る。
特に競争する相手もいないのに、なんとも迷惑な猫である。
だが、その気持ちは分からなくもない。今から向かう物件もそうなのだ。
まだ不動産情報サイトにも載っていない物件で、競争相手はいないはずだが、助実物件の時のように、思いもよらない形で取り逃す可能性もある。
私は、アクセルをほんのわずかに強く踏み、田万里への道を急いだ。
――竹原市の古民家を勧めてきた宅見氏への返事は、保留にした。
最大の理由は、竹原の事をほとんど知らない為である。
なんでもかんでも内覧するのは、宅見氏に迷惑だろう。
よって、まずは選択肢に入る土地かどうかを精査し、問題なければ内覧を検討するべきだと考えたのだ。
そうなると、真っ先に確認すべき点がある。
周辺の商業施設や街の雰囲気も大事だが、まずは職場までの距離だ。
事前にネットで調べた限りでは、職場まで20分と問題なさそうではある。
田万里は竹原市の西部に位置しており、東広島市までの距離が短いし、国道2号線を突っ走れる利点もあるのが大きいだろう。
これまでは隣の市という事で選択肢には入れていなかったが、これは面白い事になるかもしれない。
だが、念を入れて、実際に車で走ってみるに越したことはない。
そんなわけで、今日、我々はこうして国道2号線を走って田万里へと向かっているのである。
舗装された大きな道路は乗用車以外も行きかっている。前後には大型トラックが目立つし、自衛隊の車両ともすれ違った。
広島県を横断する重要な道路だけに、当然の光景ではある。
……しかし、この光景はどこかで見たような気がする。
いや、この場所は、これまでも何度か走った事があるのだ。そうではなく、他に何か……。
「どうしたの、竹内力みたいな顔をして」
隣に座る妻が、そう尋ねてきた。相当眉間にしわが寄っていたようである。
「いや、このシチュエーション、どこかで見たような気が……」
「なにそれ。それよりも運転に集中してね。ほら、このトンネルを抜けたらもう田万里よ」
「うーむ……。……あ、ああっ!!?」
私はトンネルを出た早々に、すっとんきょうな声を上げて目を見開いた。
分かった、分かった!
そう、私はこの光景を間違いなく見ている。
正しくは、田万里を自衛隊車両が走る光景を見ているのだ!
「集中豪雨の時だ……」
「また変な事言い出してどうしたの?」
「うむ。着いてから説明しよう。しかし、そうか、それがあったか……」
私はなおも渋い顔をして車を走らせ、それから数分で目的地付近に到着した。
目的地の眼前に車を停める事は叶わなかった。川沿いに建つ古民家の周辺には、未だ治水工事中で通行止めの道があった為である。
あの豪雨から3年経っても、まだ元には戻っていないのだ。
……おそらく、今回の物件は見送る事になるだろう。
私はそんな思いを抱きながら、隣を歩く妻に向かって話を再開した。
「3年前。平成30年の集中豪雨で、日本中、酷い災害に見舞われたのは覚えてるかね?」
「もちろん。東広島市でも死者が出たわね」
「うむ。……竹原市、特にこの田万里の被害はもっと酷かった。
陸の孤島になっていたのは知っているかね?」
「あ……なんだかニュースでやっていたような……」
「私達が来た東広島市に通じる西側の道路、広島空港に通じる北側の道路、竹原市中心部に通じる南側の道路、それらすべてが土砂崩れ等で通行困難になり、ここは一時的に陸の孤島と化したんだ。
当然、ライフラインの復旧にも時間を要し、自衛隊が仮設風呂を手配していた。
ここ百年で、田万里があれほどの災害に見舞われたのは初めての事らしい。さぞ大変だったろうね。
治水工事している道は、あの災害の爪痕だ。ここはまだ完全に復旧していないのだよ」
「へえ、随分と詳しいじゃないの。見直したわ」
全部、この近所に住んでいる上司から偶然聞いていた話なのだが、それを口外する必要はない。
私は久々に家長の威厳を堪能しつつ、話を続けた。
「これまで軽視していたが、今後はハザードマップも要チェックするべきだね。
竹原は田万里に住めないという話ではない。
個々の備えがしっかりしていれば、問題なく暮らしていけるだろう。
……ただ、共働きの我々は、いざという時にミミを助けられないかもしれない。
そう考えると、加藤家としては、田万里は難しいかもしれない……」
道の隣を流れる川を見つめながら暫し歩くと、目的の建物に辿り着いた。
確かに古民家の類ではあるが、私が待望する町家風建築ではなく、橙色の石州瓦と納屋が特徴的な、東広島市では非常によく見る農家住宅であった。
町家風でなくとも、これはこれで、お金を掛ければ風情がある和風建造物に改装できるだろう。それが可能な安値物件なのだ。
だが、我々は数秒間その建物を眺めた後、無言で踵を返した。
帰りの運転は妻に任せ、私は宅見氏に断念の旨をメール返信したのであった。
◇
我々は、少々焦りを覚えるようになっていた。
物件情報サイトには、毎日のように新着物件情報が掲載される。
中には、私のようなこだわりを持たなければ問題なく住める住宅も多い。
だが、これほどまでに物件があふれているのは、今だけなのかもしれないのだ。
「住宅ローン減税が効いているうちに決まると良いですね」
宅見氏がそんな事を言い出したのは、その翌週のお茶の稽古の席だった。
だが、この発言は少々おかしい。
我々は住宅ローンを組まず、手持ちの予算で購入する腹積もりなのである。
その事は宅見氏にも話したはずなのだが、それを再確認すると宅見氏は首を横に振った。
「ええ、もちろんそれは存じ上げています。
ですが、住宅ローン減税は売り手の動きにも影響を及ぼすのですよ」
「と、言いますと?」
「減税があれば、買い手も積極的に動きます。これは分かりますよね?」
「ま、まあ」
「買い手の中には、多少金銭で折り合わなくても、減税で相殺と考える買い手もいるでしょう。
売り手もそれを見越して、積極的に物件を売ろうとしているんですよ。
つまりは需要が高まった分、供給も高まっているんです。
ですが、おそらく11月中旬……住宅ローン減税期限が近づくと、売り手の動きも鈍ります。
新着物件も数が減りますので、良い物件があれば今がチャンスですよ」
なるほど、確かに宅見氏のいうとおりだ。
物件数が激減すると、こだわり物件は断念し、無難な物件を選ばざるを得ないかもしれない。
これは、思わぬ形のタイムリミットである。
もう、次の物件辺りで決着をつけるつもりでいた方が良いのだろう。
……だが、本当にそんな事が可能なのだろうか。
買付証明どころか、インスペクションも、リノベーション見積もりまでいった事もない。宅見氏のお陰で道は拓けているものの、その長さと制限時間までどうこうする事は不可能なのだ。
翌日、私は大きく溜息を零しながら、日課であるスーモと不動産ジャパンの検索を行った。
おそらくは、無理だろう。
今日も、ないだろう。
そんな思いは、良い意味で打ち砕かれた。
そこに掲載されていたのは、城壁風の塀に囲まれた、純白の日本家屋風建物だったのである。