七話『父の真実』
そして迎えた内覧の日。
途中で宅見氏の車に乗り合わせた私達は、再度、あの静寂な住宅地へと突入した。
この美しい街並み! 隣に座る妻は、さぞ感動している事だろうと、チラと横目で様子を伺ったが、彼女はミミの顎を撫でて可愛がるばかりで、然程、高美が丘という町に興味を示していなかった。
なーんじゃい。
まあ、いい。そんな余裕でいられるのも今のうちだ。
内覧すれば気持ちも変わるだろう。それが高美が丘の魅力なのだ。
私は鼻息を鳴らして視線を前へと向けた。件の物件は、高美が丘のほぼ中央部分に位置している。
街路樹で美しく彩られた通りを抜けて目的地に辿り着くと、我々は住宅へと群がった。
築年数は30年と少々。ま、新しい物件とは言えないが、こんなところだろう。
一刻も早く中に入りたい気持ちを抑え、今回は宅見氏の希望で、家の中よりも先に庭を見た。
高美が丘は、各家庭が協力して自然溢れる街並みを目指しているとの事で、どの家も樹木で彩られており、今回の家も庭には立派な梅の木が伸びていた。
「ああ、これは良いなあ。春の訪れを感じられる。
宅見さんもそう思いませんか? 中で茶を飲みながら美しい庭を……
おや、何やってるんですか?」
「外壁の状態のチェックですよ。これは極めて重要です」
我々の背後にいた宅見氏は、外壁を隅々まで見まわしたり、屈み込んだりして、その都度メモを取っていた。
そうだ、本当に大事なのは家の方だった。
それは分かるのだが……
しかし、外壁に限っては大した問題ではなさそうだとも思う。
そこまで熱心に見るべきものなのだろうか。
「ううむ、外壁ですか。確かに塗り直した方が綺麗かもしれませんが……」
「それだけじゃありません。カビや湿気から屋内を守る重要な要素です。
それに、基礎部分のひび割れもチェックしないといけません。
0.5mm以上のひびが見つかった場合は、補修費を頭に入れておいた方が良いですよ」
「ミミもチェックする! ミミも!!」
宅見氏の話を聞くや否や、ミミが「オモチャだウヒョウヒョ引っかかせろ」の目つきになって、外壁に飛びつこうとする。確実に外壁の傷を増やす事になるので、その前に抱きかかえ、また私の腕にはひっかき傷が増えた。
私は涙目になってミミを妻へと預け、その後も外壁をぐるりと見回ってから室内のチェックに移った。
で……要約すると、内部は、思っていたよりも劣化が激しかった。
バスタブは交換が必須で、備え付けの電化製品は機能してない物があった。
内壁も、クロスの張替は不可避であろう。
数十年住めば、この程度の劣化は生じる。これは仕方がない。
だが、その分、修繕費は必要となる。
内覧を終えて車に戻ると、宅見氏は渋い表情で車を走らせた。
「あの家は、少々お値段が張るかもしれませんね」
「まあ、元々2000万超えですからね」
「ええ。それに加えて修繕も500万では足りない可能性があります。
実際のところは、インスペクションという正確な調査を行わないと算出できませんが、諸経費も考えれば、3000万円程要する可能性もありますよ」
「むむっ」
「最終的には、この家へのお気持ちを大事にされるべきです。
ですが、予算も極めて重要な要素ですので、ここにするかどうかは、ご夫婦でしっかりと検討なさって下さい」
「むむむっ」
3000万は痛い。完全に予算オーバーだ。
余分に用意しなくてはならない1000万があれば、3食1000円焼肉の生活を10年送れるではないか。
いやしかし、3000万が絶対に無理というわけではない。
ローン有りならマックスで3000万円と見込んでいたので、その範囲には収まっているのだ。
しかしながら、ローンは極力組みたくないというのが、我が家の方針である。
「ローンか。ローンはなあ……」
私は後ろ髪を引かれる思いで、バックミラーに移る住宅を見つめながら唸った。
債務を追う事態は、極力避けたい気持ちがある。
誰しもそうだろうが、おそらく私は人一倍敬遠しているだろう。
その原点は、父の体験談にある――
『お父さんな、昔は自分の家を持ってたんだぞ』
私の父が、遠い目をしながらそう語ったのは、私がまだ小学校低学年の頃だから、30年程前の事だった。
父は健康食品のセールスを生業としているが、私が生まれてくる前は左官をしていたらしい。腕も非常に良く、随分と稼いでいたそうで、若くして自分の家を持っていたとの事だった。
だが、その家は売り払ったそうだ。
無論、その理由を尋ねたのだが、具体的な話は教えてもらえなかった。
ただ、寂しそうな声で「知人に騙されて債務を背負った」とだけ聞かされた。
その話は私のトラウマとなり、借金だけはするまい、と固く誓う事となった。
で、その話が全てウソで「ギャンブルに溺れて家を手放す事になった」と母から聞かされたのはつい最近だ。
30年も騙され続けていた私だが、とにかく、債務を恐れる気持ちは今でも強いのだ。
◇
帰宅後、簡単な家族会議を開きはしたが、答えは車中で決まっていたようなものだった。
予算を大幅に超える点や、妻が今回の家にそこまで興味を持てなかった事を踏まえ、我々は宅見氏に、購入を見合わせる旨のメールを送った。
すると、その代わりと言わんばかりに、宅見氏は別の物件を案内してくれた。
約700万円の5LDKで、高美が丘ではないが、その付近の小さな住宅街にある家らしい。鉄筋住宅で、宅見氏曰く「おそらくすぐに買い手が決まる掘り出し物」との事だった。
特に断る理由もなく、我々は翌週末に内覧をさせてもらったが、住むには不自由しなさそうな家だった。
今回は値段も申し分ない。
だが、私が希望する『コンセプトがある生活』に該当しそうな要素は無かった。
数日の保留を希望したが、翌日、他に買い手が現れた事がメールで告げられた。宅見氏の予想どおりだった。
A社の内覧は3連続空振り。
宅見氏の内覧も、希望がある内容ではあったが、2連続空振り。
どうにも調子が上がらないが、我々は消沈する事はなかった。
宅見氏からのメールには、思いもよらない提案もつづられていたからだ。
『懸念材料も多い物件ですが、500万以下の古民家がありますよ。
場所は竹原市の田万里ですが、どうなさいますか?』
竹原市。
アニメの舞台になった事もあり、もしかしたら、東広島市よりも知名度があるかもしれない都市だ。
小京都の異名を持つ街並みも抱えているその竹原市は、東広島市の東に位置している。
つまりは、お隣さんというわけだ。
東広島市での購入に固執していた我々にとって、この提案は目から鱗だった。
もちろん、職場までの距離は問題となってくるが、場所によっては可能性もゼロではない。
これまで完全に視野に入れていなかった竹原は、この後、我々に新たな知識と問題を投げかけてくるのであった。