五話『本当の閑静』
私は、元々広島の人間ではない。
9歳までの幼少期を熊本で過ごし、20歳までの青年期を佐賀で過ごしてきた。
以降の18年は、就職した広島で過ごしてきたのだが、望郷の思いはあった。
別に熊本や佐賀に何かを残してきたわけではなく、残念な事に地元の友も少なくはあるのだが、それでも育った地への思い入れというものはあり、いつかは九州に帰るという気持ちは、そう簡単に消えるものではなかったのだ。
そんな私の転機となったのは、茶道だった。
29歳の時、武家茶人を題材にした深夜アニメ『へうげもの』に影響されて「茶道を生涯の趣味に」と考えたのだが、奇遇にも、私が住む広島は『へうげもの』の主要人物である上田宗箇の流派が根付く土地だったのだ。
強い縁を感じて上田宗箇流の門下生となり、近所で教室を開く先生に師事した。
それからの私の生活は、心にメリハリが生まれる素晴らしきものとなっている。
その数年後、学んできた茶道を題材にした小説が『ネット小説大賞』を受賞して、作家となる機会も得た。
運命。
そう思わずにはいられなかった。広島という土地が、私の人生を変えたのだ。
いつしか私は、広島に骨を埋めても良いと思うようになっていた。
だが、望郷の思いが消えたわけではない。
それを振り切って家を買うのだから、そこを自分の死に場所にする覚悟を持って挑むべきなのである。
その人生観を真剣に妻に語ると、彼女は笑いこそしなかったものの、感銘も受けなかったようだった。
「そんなに固く考えないでいいんじゃない? 転勤や転職がないとも限らないし」
「いや、考える。我が人生かくあるべきなのだ」
「あ、そう」
なんと。
妻には情動というものがないのか。
百歩譲って何も感じなかったとしても、家長を立てる気持ちはないのか。
そこは嘘でも「素敵よあなた」というべきではないのだろうか。
「君は性格があまり良くないね」
「リアリストと言って下さい」
「そういう批判をしているのではなく、もっと私の気持ちを察するべきだと言っているのだ」
「はいはい。それより、これからどうするの? 観たい物件は他にはないの?」
「うーん、そこなんだよなあ……」
条件に合致する物件は他にもあるのだが、どうにもテンションが上がらない。
その理由は、いずれも面白コンセプト物件ではない事だ。
そして、家を買う前にB氏を攻略する手間がある為でもある。
こう言ってはなんだが、B氏はレスポンスも少々悪い。
そこは大手A社。私以外の顧客を多く抱えているのだろうが、なかなか話が進まないというのはストレスなのだ。
私は少しばかり気分が沈んだが、こんな時こそ、気持ちを整えてくれるのが茶である。幸運にも今日は稽古の日で、帰宅した私は少し間をおいてから、茶道の稽古場がある神社へと向かった。
私の師は神社の神主の奥さんだ。年の頃は私の母と大差なかろう。
物腰柔らかい方で、私なぞが言うのはおこがましいが非常に良き指導をして下さる。それでいて、稽古中の雑談でふなっしーのモノマネをする事もある、人間味あふれる方だ。
そんな良き先生だから弟子も多く、この日は、姉弟子である宅見氏との同時稽古だった。
「どうもお久しぶりです、加藤さん」
私と並んで紐毛氈に正座した宅見氏は、明るい笑顔を振りまいて挨拶してきた。
先生よりもやや若い年頃の女性で、非常に社交的な人である。
やはり、優れた師のもとには、彼女や私のように優れた人物が集うのだ。
「やあやあ、どうも」
「休日に稽古に来られるの珍しいですね」
「今週は仕事の後に稽古へと抜け出せなかったんで、休日稽古にしたんです。
まあ、休日は休日でやる事がありますけれど」
「あら、なんでしょうか?」
「家探しですよ。実は中古の一戸建てを買おうと思っていまして。
でも難しいものですねえ」
「何かお困りの事があれば、ご助言しましょうか?」
「へ……?」
助言……それは、つまり……?
「あの、もしかして宅見さんのお仕事って……」
「言ってませんでしたっけか。不動産屋ですよ。最近独立したばかりなんです」
彼女の言葉を受けた私の胸に、またあの文字が浮かび上がってきた。
運命。
またも茶道が、私に何かを繋いでくれるのではないだろうか。
考えてみれば『宅見』という名前からして、まるで漫画に出てくる『いかにも』な不動産屋の名だ。
気が付けば、私は自分の思いの丈をぶちまけていた。
家長の権威。
面白きコンセプトの家を建てたい事。
広島を死地としたい事。
その為には妥協したくない事。
宅見氏はそれを真剣に聞いてくれた。
そして話が終わると、彼女は私の目を見ながらこう言った。
「なるほど……でしたら、面白い街があります」
「街……ですか?」
てっきり「私が良い物件を紹介しますよ」と言われると思ったのだが、どういう事だろうか。不動産屋は、自身の実入りの為に、なるべく高額な物件を勧めるのではないのだろうか。
「大事な買い物ですから、納得のいく所で納得のいく物件を購入するべきです。
もちろん、私から物件自体を紹介する事もできますが、まずはその前に、
加藤さんの世界観をより強固にして、その後で、条件に合致する物件を探してはいかがでしょうか」
そう告げた彼女が教えてくれたのは、高美が丘というニュータウンだった。
なんでも、つい先刻訪れていた高屋地区にある閑静な住宅街らしい。
何分、普段は訪れない地区という事もあって、完全に初耳の地名だった。
私は稽古が終わった後で、早速高見地区へとUターンした。
期待よりも、宅見氏の言う『閑静』が本物なのかどうか、確かめてやろうという気持ちが強かった。
辺りはもう薄暗くなっていたが、ナビに従って辿り着いた高美が丘の入口は、幻想的な外灯で照らされている。
そして車をいよいよ住宅地内へ進めると……気が付けば、私の口からは感嘆の息が漏れていた。
「これだ……探していたのはこれなんだ……!」
そこはまさしく、私が探し求めていたコンセプトの一つ……
『田園調布のような街』だったのだ。
そもそも田園調布を面白く思っていたのには理由がある。くだんの『直木御殿』の先生が関係している。
直木御殿の先生は、東京を舞台としたハードボイルド小説を書いており、私がそれを初めて手に取ったのは佐賀に住んでいた高校生の頃だ。見知らぬバブリーな都会の空気に感動し、特に一作目に出てくる、田園調布や青山に憧れたのだ。
それを彷彿とさせる高級そうな住宅が数千戸、街路樹と共に整然と建ち並ぶ街。
単に寂れているのではない、都会的な雰囲気を保ちつつも静寂に包まれた、本当の閑静な街。
そんな理想の住宅地が、この高屋地区に存在していたのだ。
「決めたぞ、よし、決めた」
私は独り言を零しながら、なおも高美が丘の街を走った。
だが、決めたのは、この街に住むという事ではない。
住む為には肝心の住宅が必要であり『街は良くとも縁はない』という可能性はある。
すなわち、私が決めたのは……
「この街を紹介してくれた宅見さんのお世話になろう……!」
――これが、宅見無双の始まりであった。