四話『ミミの贈り物』
内覧予定の家の鍵が用意できたのは、また翌週末の事だった。
A社のB氏とは現地で待ち合わせとなり、まずは1軒目へと車を走らせる。
住所は、西条地区の外れだった。田舎過ぎる事はないが発展しているわけでもない場所だった。
築30年程の物件で、新しくもなければ古くもない。
値段と間取りは1600万の4LDKで、高くもなく安くもない。
何から何まで「まあまあ」な物件前に、約束の時刻に着くと、B氏は既に待機していた。
「むふーっ」
さあ、いよいよきたぞ。内覧だ。我が家購入の第一歩だ。
いや、第一歩どころか、内容次第では、ここからドバドバと濁流のような勢いで話が進む事もあるだろう。私は微かな興奮を覚え、妻とミミの前に立って胸を張り、B氏が玄関の鍵を開けるのを待っていた。
するとその最中、隣の家の住人らしき老婦人が小型犬を抱っこして、庭からニコヤカな笑顔を振りまいてきた。
「あらこんにちは」
「あ、あ、あ。どーも」
例によって見知らぬ相手との会話は焦るが、それでもなんとか頭を下げる。
もしこの家に住む事になったら、彼女は隣人になるのだ。
家や街並みだけじゃなく、ご近所付き合いも重要な要素なのだ。
だが……この『周辺環境』という情報は、重要なくせして、なかなか得難いものでもある。
気が付けば私は、コノヤロ何者だビームを放つ目つきになって老婦人を見つめていたが、妻に袖を引っ張られた事で、ようやく家の方へと向き直った。
「どうぞ、ご自由にご覧になってください」
Bに中を案内され、用意されたスリッパに履き替えて足を踏み入れる。
まず目についたのは、内壁だった。薄暗い家の中は、所々内壁のクロスが破れているのだ。
それだけではなく、天井や床にも傷んでいる様子が見受けられたが、その事をBに確認すると「大体こんなものですよ」との事らしい。
まあ、それもそうかもしれない。
内覧だから特に敏感になるのであって、今の私のアパートもジックリと観察すれば、同じくらい傷んでいるだろう。
もっとも、我が家の場合は、ミミが片っ端から壁をガリガリするせいである。
退去時には、会社が払っている敷金だけでは修繕費が足りずに、自腹を切る事になるだろう。
なんだかムカムカしてきた私は、同伴しているミミをキッと睨んだが、ミミはそれを「遊んでいいぞ」の合図とでも思ったのか、廊下を全力で走り始めた。
そんなミミを止めてから、各部屋・風呂・トイレ・キッチンと順に確認し、内覧は15分ほどで終了した。あらかじめ、ネットで見ていた写真と大差のない、完全無欠のまあまあハウスだった。
強いて特徴を挙げれば、和室の照明のヒモが床近くまで伸びている為に、自分が住むイメージよりも、前住人の寝たきり生活をイメージさせる家だった。
「さて、いかがでしたでしょうか、加藤様」
「うーん、まあまあ……」
「まあまあ、ですか」
「悪いというわけじゃないですよ。まあまあです。まあまあ。
……それより、リフォームの感覚がまだ掴めないんですよ。
どんなものなんでしょうか」
「クロスの張替は数十万で済みますね。あとは水回りが気になるかと思いますが、お風呂は取り替えても良いかと。これは大体100万程ですね」
そう、確かに他人が使っていた浴槽は気になるのだ。
ホテルの浴槽は全く気にならないのに、家のお風呂となると、なるべく新品にしたいと思ってしまうのだ。
ミミの、何でも気になる気になりキャットっぷりは、私に似たのかもしれない。
「あとは、何をどこまで直されるか次第ですが、最終的には2000万前後に収まるかと思いますよ」
「うーん、なるほどなあ……」
そう言われて、ようやく現実味が出てくる。
私は頷きつつ、改めて家を見上げた。
これが……この4LDKが、私と妻が15年間以上、汗水流して働いた結果かもしれないのか。
私は多少感慨深い気持ちになりながらも、家の外観を隅々まで見つめた。
……いや、やっぱりまだ決められない。
『まあまあ』であって『悪い』というわけではない。
だが、ドバドバ濁流決定コースでもない。
一生に一度の買い物、よっぽどの事がなければ即決はできないのだ。
私はB氏と多少言葉を交わし、予定通り、次の家へと案内してもらう事にした。
次の家は高屋という地区にある。
高屋は西条地区の北側に位置しており、いよいよ周囲を山に囲まれた土地だ。
いや、東広島市という時点で山に入ったようなものなので、今更山に囲まれたというのは少々不適切かもしれない。
とにかく私が言いたいのは、ここまでくると、もう明確に田舎寄りという事だ。
それでいて、この高屋は、東広島市の方では比較的開けた地区でもある。
今回は部屋が1つ減って3LDKになり、その分、お値段も1400万円と下がっている。だが、いざ中に入ってみると、部屋が少ない分、リビングが広く作られている為に、悪い印象はなかった。
私と妻とミミの3人家族であれば、家の大きさはこれでも十分だろう。
そして、この家には1軒目とは決定的な違いがある。
あらかじめネットで写真を確認して、なんとなく分かってはいたのだが、なかなか洒落た造りをしているのだ。
玄関ホールは吹き抜けで印象的だし、小さな屋根裏部屋やウォーキングクローゼットもある。
例えるならば、シルバニアファミリーの家ようなウキウキ感があり、『コンセプト』と言えなくもない。
これは、悪くないのではないか……?
「ねえパパ、こんなのがあったよ」
そこへミミが私の足元に寄ってきて、何かをペッと吐き出した。
私は、いつの間にか緩んでいた目を、それへと向ける。
なんだ? この、黒くて、楕円形で、足が幾つも……
「げぇっ、ゴキブリ!!?」
「うん、トイレに3匹くらい死体が転がってたよ。パパにあげる」
「バカ、いらない! ミミのバカ!」
私のウキウキウォッチングタイムは、これにて終了してしまった。
いや、単なる気分の問題ではない。
実はこの家の庭は、主がいない為に草が伸び放題となっており、まあそれだけなら当たり前の話なのだが……草の中には、大きめのキノコまで生えていたのだ。
もしかすると、家は良くても土地が良くないのかもしれない。
ジメジメとして虫も多いような場所なのかもしれない。
「お疲れ様です。この後、まだお時間はありますでしょうか?」
そこへ、またB氏が声をかけてくる。
「ええ、まあ」
「そうですか。でしたら、我が社のおススメする新築物件もご覧になりませんか? 実はこの近くにあるんですよ」
なるほど。
なるほど、そうか。
そういう事なのか。
私は、あまりにも合点がいった為に、反射的に頷いてしまった。
多分、B氏が薦めるのは、顔合わせの際に提案された家だろう。
やはり、B氏の本命は新築の方なのだ。
いや、これまでの中古物件を買わせてくれないわけではないだろうが、隙あらば新築をねじ込むのが不動産屋なのだ。その方が、仲介する彼らとしては実入りが良い。
このように鍔競り合いをしながら、理想に近づくのが、家を買うという事なのかもしれない。
その結論に至った私は、B氏の薦める新築物件を観に行った。
その後はB氏も打ち止めのようで、後程検討結果を伝える事にして我々は分かれ、帰路に就いた。
「さて……どうだった? 私はとりあえず、新築は無いと思うけれど」
車を走らせるなり、妻が苦笑まじりでそう声をかけてきた。
さすがに、この点の感想は一致しているらしい。
私は軽く鼻で笑い、小さく頷いただけで言葉を返さなかった。
口を開いたのは、次の赤信号で止まった時だった。
「……どっちもないかな」
「1軒目はどこがダメ?」
「普通過ぎる」
「普通ねえ。言い換えれば欠点がないって事よね。それじゃあダメなの?」
「そうだなあ。ダメだ」
「じゃあ2軒目は?」
「悪くなかったけど、なんだか陰気な生活になりそうな気もする」
「そこは気の持ちようじゃない?」
「それも否定はしないけれど……まあ、もうちょっと考えてみようよ」
「……まあ、そうね。どちらも可能性が無いとは言わないけれど、初めての内覧で即決、という程でもないし」
妻はそう言って、膝の上にいるミミを撫で始めた。
私に反論するような言葉を投げかけてはきたものの、彼女は別に、今日の物件に決めたいわけではないだろう。
連れ添って10年になるのだから、それは聞かずとも分かる。
おそらく妻は、私の判断基準を確認したいのだ。
ならば『あの話』もしておくべきかもしれない。
うむ、今がちょうど良い頃合いだろう。
「……なかなか見つからないものだなあ」
「まだ初めて内覧しただけじゃない。高い買い物だから気長に考えましょうよ」
「そうだね。なにせ『死に場所』なんだから、妥協せずに決めなきゃね」
「……死に場所?」
妻の声が、微かに曇るのが分かった。