十一話『いらねー』
屋根の上に、使用していない太陽熱温水器が載っている。
宅見氏経由でそんな連絡が入ったのは、契約を4日後に控えた大詰めの時期の昼間だった。
会社勤めでテレワークも行っていない私は、スマホで宅見氏のメールを確認するや否や、上司の警備を掻い潜って、メッセージアプリで妻に情報を共有した。
それと並行して宅見氏に詳細を確認すると、この家は今でこそオール電化だが、元々は太陽熱温水器を使用しており、それを撤去せずに残したままとしているらしい。
当面の害こそないものの、屋根を葺き替える時は邪魔になるだろう。何かの災害で落ちてこないとも限らない。我々はこの状況に不安を覚えると共に、駐車場貸し出しの件も相まって、正直な所、売り主に対して不信感を抱いていた。
それを払拭する……とまではいかないものの、
宅見氏は、この分の値引きを求めようと提案してくれた。
本来ならば、買付証明書提出後に金額が動く事はないのだが、今回は買付証明書提出前の説明が無かった為、交渉の余地があるのである。
理想は値引きではなく、契約後に売り手が残留物を撤去する際に、太陽熱温水器を一緒に持っていってもらう形だ。だが、これは先方の手間になるし、その時に屋根にダメージが行けばややこしい事になる。
そこで、値引きを落とし処とするのだ。
決済後に我々が撤去するので、その為の費用、約20万円分を値引きしてもらおうというワケである。
上司の警備の目が光る中では、この値引き作戦が妥当なのか、金額が適切なのか、調べる事は難しかった。
だが、宅見氏は信頼できるプロだという事は分かっている。
ここまでくれば、もう宅見氏に乗っかるしかない。
我は妻の承諾を得た後で、宅見氏に値引き交渉を全て任せる旨を通達した。
すると、仕事が早い敏腕宅見氏……というよりは、売り手や先方の不動産屋も、この時期にノンビリ検討する事はないようで、数時間後には返答が帰ってきた。
結果。
値引きには応じず、日割りの固定資産税約5万円の肩代わりが限度との事。
そしてもう1つ告げられたのは……付帯設備表を添えないという先方の意向であった。
◇
「これは、トラブルが起こる可能性が高い物件です」
その日の夜、我々は仕事が終わるなり合流し、宅見氏の事務所を訪れた。
宅見氏は、私と妻には温かい紅茶を、ミミにはちゅーるカツオ味を出した後でトラブルの可能性を告げると、我々に契約書のような書類を見せてくれた。
A4サイズの用紙で10ページ程だが、難しそうな文言が並んでいて、中身を理解するのには時間を要しそうだった。
こんな時は、とりあえず知ったような顔をするに限る。
私はウォッホンと大きく咳払いして、契約書を手に取った。
「ふむ。契約書ですな」
「いえ、重要事項説明書です。契約書は別にあります」
「あ、はい」
「この重要事項説明書と契約書は、売り手側の不動産屋が用意するものですが、事前に草案をチェックしないとトラブルになる事があるんですよ。今回のように」
「トラブル……付帯設備表を添えない、という話は聞いていますが、これがトラブルになるのでしょうか?」
「はい。こちらをご覧下さい」
宅見氏がそう告げて重要事項説明書の特約事項ページを開くと、そこにはこんな事が書かれていた。
別ページの定めに関わらず、設備についてその設備書を添付しない。
……これはつまり、別ページにて定めてある設備書添付がデフォルトであって、
今回の契約は例外的に添付を避けたいので、特約事項に記載しているのであろう。
「確かに添付しないと書かれていますね……。
その前に、そもそも付帯設備表とは何なのでしょうか?」
「家に備え付けられている備品と、その動作状況を記載した資料です。
これは本来、先方の不動産屋と売り手とが共同で用意するものです」
「なるほど。それで、これが無いと、どのような問題が起こるのでしょうか?」
「そうですね……例えば、売り手が残留物を撤去した後で加藤さん達が引っ越しますよね? その時に、撤去予定だと思っていた、壊れた電化製品が残っている事があるかもしれません」
「いらねー」
そう口を挟んだのはミミである。
ミミが言わなければ、私が言いたいところだった。
「そうですね、不要です。捨てるにはお金が必要ですが、付帯設備表が備わっていれば、それを盾にして『これは付帯設備ではないので、売り手さんが処分費を払って下さい』と主張できます」
「それができなくなってしまう、というわけですか」
「ええ。あくまでも例ですから、他にも問題が起こる可能性はあります。これは法令で定められてはいませんが、非常に重要な資料なので、慣例として殆どの売買においては付属しているものなのですが……」
「むむむっ」
宅見氏の事務所内に、重い空気が立ち込め、話に飽きたミミがピチャピチャとちゅーるを舐める音だけが響き渡る。
だが、すぐに隣に座る妻が居住まいを正し、宅見氏を直視しながら口を開いた。
「今回は、何故、付与して貰えないのでしょうか?」
「売り手側の意向ですね。とはいえ、何かを隠蔽したいのではないと思います。壊れているなら壊れていると書けば良いのですから。……おそらくは、付帯設備表を書くのが面倒なのか、もしくは、後から何かしら指摘されるリスクを除外したいのか……」
「厄介ですね。宅見さんでも、説得できないのでしょうか?」
「申し訳ありません。重ね重ね要求しましたが、難しそうです。私は直接売り手様とお話はできないので、先方の不動産屋を介して要求するしかないのですが、先方の不動産屋はこの物件に力を入れていないのか、説得には消極的ですね……」
「そうですか……」
「……では、宅見さん。これからどうするべきとお考えですか?」
妻に代わって、今度は私がその疑問を口にした。
……いや、疑問ではない。
本当は、答えは分かっているのだ。
私の心情としても、少なからずその答えに傾いていた。
こんな答えに傾きたくはなかった。
家に罪はなく、気に入っているのだ。
新生活を毎日のように想像しているのだ。
郷里の両親や妹にも、引っ越したら遊びに来てくれと頼んだのだ。
だが、これは家を買うという行為だ。
絶対に後悔があってはならない。危険なつり橋を渡るわけにはいかないのだ。
宅見氏は私を見つめ返したが、考えはある程度伝わっているようで、さほど言い淀む様子もなく、その先を口にした。
「……このおうちは、諦める事をお勧めします。付帯設備表無しでも契約は可能ですが、加藤様に新生活の保障ができない以上、私では扱えない物件です」
私は、小さく天を仰いだ。
かくして、我々の家探しは振り出しに戻ったのである。
帰りの車内で、我々は冗談半分で聞くに堪えない放送禁止用語を連発し、それを広島東洋カープ応援歌「Let's Win!」の替え歌にした。
だが、いくら悪態をつこうとも、結果は何も変わらないのだった。