表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぼくも買おう おうちを買おう  作者: 加藤泰幸
三部:激闘! 手続き編
10/18

十話『今、俺の方が速かった』

 あくる日の夕方、私は眉間にシワを寄せてムムム光線をモニター放出しつつ、購入の意思を固めた物件の情報を見つめていた。

 買う家はきまっだのに、まだ悩むものがあるのか?

 あるのだ。

 ずばり、ムムムの理由は、買付証明書の金額である。



 買付証明書とは、いかなるものか。

 有体に言えば「私はこの物件をこの金額で買いますよ」という意思証明書のようなものだ。

 あくまでも意思表明なので、提出イコール契約というわけではない。

 しかしながら、提出してしまえば、記載額を前提として購入の話が進むので、この額をどうするのかはヒジョーに重要なのである。


 残念な事に「よっしゃ、それじゃあ半額スタートで、拒否されたら100万ずつ値上げすっかなウヒヒ」と、フリマアプリのような交渉もできない。

 金額は、基本的には一発勝負だ。「値切り過ぎて売却拒否されたから値切り額を調整して再提出」というわけにはいかないのだ。



 久々に真面目なお話をしているが、大事な説明がまだ1つ残っている。

 この買付証明書を提出すると、他の者は交渉に参加できないのだ。

 それがどういう事なのか、例を挙げよう。

 この1か月間、様々な物件を精査して、内覧に至った物件は2件だが、実は他にも内覧予定の物件はあったのだ。

 だが、内覧希望の旨を宅見氏に伝えた翌日「他の方が買付証明書を出しましたので、おそらく決まるでしょう」と返答を受け、我々の内覧は中止となったのだ。


 これで、買付証明書がいかに重要なものか分かってもらえただろうか。

 迅速に最適な額を定めて提出するべきものであり、不動産売買においては、中盤の山場とも言える手続きである。





「そろそろ宅見さんの事務所に行って印鑑押す時間よ。金額、どうするの?」

「……やっぱり、思い切って100万値切ろうと思う」

 私の隣で同じくモニターを見つめている妻の問いに、私はそう回答した。

 だが、本当にこの額で勝負して良いのかどうか自信はない。

 自分でも分かっているが、これはちょっと強気に過ぎるのである。


「でも、値切りの相場は、10万単位の端額切りなんでしょ?」

「うむ、そうらしいな」

「桁違いの値切りは無謀じゃない? 貴方の顔と松坂桃李(まつざかとおり)の顔くらい違うのよ?」

「うるさいな」

「貴方の身長と中村昌也(なかむらまさや)の身長くらい違うのよ?」

「うるさいな。君も分かっているだろう? この物件はお金がかかるんだ!」


挿絵(By みてみん)


 私は耳を塞ぎながら喚き散らした。

 そうなのだ、お金がかかるのだ。


 その理由は家の状態にある。

 我々が購入する予定の家は、新築並の費用を必要とする問題こそ抱えていないものの、それでも相応に劣化しており、例えば屋根の一部が破損しており、二階には雨漏りの跡がある。

 これは既にリフォーム会社に見積もりを出してもらったが、屋根の補修は工事自体に十数万、工事の為の足場作りに二十数万かかる。それに加え、雨漏りした天井も直したい所である。

 他にも外壁やらなんやらを加味すると、予算ギリギリに収まるかどうかの際どいラインなのだ。


 だが、ここで100万値切れれば、その分を新居用の家具に充てられる。

 すなわち、天地の差が付くのである。




「いいじゃないか。向こうも屋根の事は知っていて、負い目がない事もないだろう。勝算はゼロじゃないのだ」

「はいはい。じゃあ、それで出してみましょうか」

 

 かくして私は100万の値切りを決意し、宅見氏の事務所へ向かって買付証明書に判を押した。

 判を押した時の心境は、ようやく物件を確保できた安堵よりも、金という拠り所を失った不安さの方が勝っていた。

 これで、我々の銀行口座から千数百万が吹き飛ぶ事になる。

 自ら支払うというのに「ワシの金がぁ~」と嘆きたい気持ちさえあった。


 だが、もう後には引けない。

 私は覚悟を決めて、後の手続きを宅見氏に託した。



 ……が、それは結局、我々の立場の話である。

 それから数日後、宅見氏経由で告げられたのは「100万の値切りには応じられない」という回答だった。

 やはり、攻め過ぎたのだ。

 本来ならば、これで交渉は終了となる。説明した通り、基本的に値下げ交渉はできない。


 だが、あくまでも基本だ。

 1つだけ抜け道がある。先方の希望額をそのまま飲むのだ。

 これならば、売り手としては100点の条件で売却できるので、そもそも値下げ交渉ではないというわけである。


 どうやら、新居用の家具は断念せざるをえないようだ。

 私は値下げ勝負に完全敗北した事を自覚しながら、再び宅見氏の事務所へ向かって、今度は先方の希望額そのままで判を押した。

 この時私は、売り手との本当の勝負は、ここからが本番だという事を、まだ知らなかった。






 ◇






 翌日、宅見氏から早速連絡が入った。

 他に買付証明書を出していた者はおらず、買い手に受理されたとの事である。

 すなわち、我々は、ついに物件の交渉権を獲得したのだ。

 だが、喜ぶにはまだ早い。これからいよいよ交渉は本格化していくのである。



 まずは契約だ。

 1、2週間後には各種重要事項の説明を受け、異論がなければ百数十万の手付金を支払って契約を結ぶ。ここまでいけば、もういよいよ後戻りはできないだろう。


 その次に待っているのが決済である。

 更に1、2か月後に残金をすべて支払うのだ。その後で登記等の諸手続きを経て、家を購入した事になる。


 そして最後が、リフォームである。

 家が我々のものになれば、ようやく屋根の穴等に手を付ける事が可能となる。

 リフォーム内容にもよるが、これにも1、2か月を要するだろう。

 その後、ようやく転居となる運びである。


 

 今は第1段階である契約を待つ身ではあるが、その間もやる事はある。

 例えば、最終段階であるリフォームの想定だ。現地に足を運んで物件を見る事で、庭の造りや家具の内容やらを具体的に考えるのである。

 我々は連日、家の前まで車を走らせた。

 夜に訪れる事もあったが、未来の楽しい生活を思えば苦にはならなかった。


 だが、そこで我々は見つけてしまったのだ。

 ……家の駐車場に、他の車が停まっているのを。






「パパ、また車が停まってるぞ。引っ掻いていいか!?」

「ミミ、やめなさい」

 謎の車に猛然と突っ走ろうとするミミを抱っこして引き留めつつも、私と妻は訝しむ目つきで車を睨みつけた。


 実は、この車は内覧期間にも何度か見かけた事があるのだ。

 その時は、他の内覧者が来ているのか、不動産屋が仕事の都合で来ているのか、もしくはリフォーム会社が見積もりに来ているのかと思っていた。

 だが、我々が買付証明書を出した後も停まっているのは不自然である。

 早速、宅見氏に連絡を取ると、彼女は半日で、売り手側の不動産を経由して状況を確認してくれた。


 これは、どうやら近隣住民の車で、売り手……すなわち、家の現所有者が駐車場を貸し出しているそうなのである。

 無論、我々が転居した後も停められては困るので、契約締結後は貸し出しを終了してほしい旨を宅見氏経由で依頼した。




「……これで大丈夫だな」

 私は宅見氏にメールを送って、そう呟いた。

 隣に座る妻は何も言わなかったが、表情は決して明るくなかった。


 彼女の心境は分かる。強烈な不安を抱えているのだ。

 私も同じ気持ちだからこそ、大丈夫、という言葉が出てきたのだ。

 もしかすると、他にも「聞いてないよォ~」があるのではないか。

 駐車場のみならず、家の中も隣人に貸し出してやしないか。

 深夜、シャドーボクシングに打ち込んで「今、俺の方が速かった」と、ガラスの中の自分と戦ってやしないか。

 

「……なにか、景気づけのおまじないでも無いかしらね」

 妻が眼鏡を曇らせながら呟く。

 普段、おまじないをするような女性ではないだけに、大分気にしているらしい。

「ない事もないな」

「あら、どんなおまじない?」

「まず全裸になり、自分の尻を両手でバンバン叩きながら白目をむき……」

「それは家に幽霊が出た時にやってちょうだい」

「はい」


 妻からギロリと睨まれ、私は小さくなりながら頷いた。

 そんなわけで、おまじないというわけではないのだが「他にも未通達事項がないかの確認をしよう」という話になり、我々は宅見氏に以来のメールを追加で送った。


 ……そして、杞憂は現実となる。

 我々が認知していなかった問題が、まだこの家にはあったのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ