一話『家賃1万円との決別』
「おい、こら。パパ、子分の件どうなったんだ?」
ミミが、職務質問をする警察官ような口調で尋ねてきたのは、うだるような暑さの8月であった。
彼はキャットタワーの上から私を見下ろしつつ返答を待っていたが、私が「知らんし」と言わんばかりに視線を逸らしているのに気が付くと、その視線の先にある収納棚に飛び乗って、棚の上にある貯金箱を忌々しげに床へ落とした。
茶トラ猫のミミが我が家に来たのは、2年程前になるだろうか。
当時、生後2ヶ月のミミにとっては、家にある物も、家の住人も、全てが新鮮に映ったようで、彼は何でも気になる気になりキャットとして、あらゆるものにちょっかいを出すようになった。
やりたい放題のミミに、家長の座を奪われた気がした当時の私は、悔しさのあまりミミに対して頻繁にシャドーボクシングを仕掛けた。その結果出来上がったのは、ワガママさはそのままで、私に対してのみ噛み癖を発揮する、傍若無人な猫であった。
「前に言ったやん、子分が欲しいって。
生後2か月くらいの男の子がいいな。名前はムムくんだ」
「ミミ、それは無理なんだ」
「ムムくんって名前がいかんのか。メメくんかモモくんでもいいぞ」
「名前じゃなくてさあ」
私は落ちている貯金箱を拾い、首を左右に振った。棚に戻す前に振ってみたが、中からは貧弱な金属音しか聞こえなかった。
「なんでさ。もう1匹養えんのか。甲斐性無し」
「いや、それくらいは余裕だよ。家長を侮るんじゃない」
「じゃあ、子分連れてきてよ」
「問題はアパートの契約だ。うちは1匹しか飼っちゃダメなアパートなんだよ」
「引っ越せばいいじゃん!」
ミミは明るい声でそう言い、ニャハニャハと笑った。
自身の発言を妙案だと思っている彼に、我が家の金銭事情を説明するのは少々骨が折れそうだった。
――我が家は3LDKながら、家賃を1万円しか払っていない。
私が住んでいる東広島の相場なら、3LDKで7万円ほどするというのに、我が家は1万円で済んでいるのである。
その理由は住宅手当だ。
我が家の賃料も正しくは7万円だが、借上社宅の為、そのうち6万を私の会社が持ってくれているのだ。しかも、本来なら結婚した時点で消滅する手当なのに、私の場合は結婚後から現在に至るまで、住宅手当が継続しているのだ。
これは、会社が私を高く評価している事に他ならない。
この待遇を誇りに思っていた私は、11年前の結婚当時、妻に「イッチマンエン! イッチマンエン!」と、家長が受けている待遇を自慢した。
生暖かい目をした妻が「私の年収は、あなたの年収+6万×12か月分と変わりないんだけど」と告げるまでの、ごく短い期間の自慢だった。
しかし、家賃が1万円で済んでいる事に変わりはない。
極めて恵まれた環境だが、自身の都合で引っ越せば住宅手当は無くなる。
家計が苦しくなると、私は妻に完敗して家長の尊厳を完全に喪失し、ミミは非行に走って隠れてマタタビを吸うようになり、きっと我が家は崩壊するだろう。
「ダメダメ。引っ越しはダメ」
「なんでなん。なんでなん」
「私の言う事が聞けないのか。家長なんだぞ」
「課長どころか係長にもなれないじゃん」
「生意気な猫め、尻を撫でるぞ」
「こっちは噛むぞ!」
この2年間で私の腕は、ゴルゴ13のように傷だらけにされた。当年とって38歳、治りも遅く、傷は増える一方だ。私は思わず「ヒッ」とひきつった声を漏らし、助け船を求めて、隣で話を聞いている同い年の妻を見た。
妻は何か考え込んでいる様子だったが、やがて掛けている眼鏡をキラリと輝かせ、ミミを撫でながらフンワリと語り始めた。
「引っ越したらいいんじゃない?」
「君までそんな事を言うのか。住宅手当が出なくなるんだぞ」
「いいじゃない。どっちみち、家を買ったら住宅手当もでなくなるんだし」
「……家を、買う?」
衝撃的な進言を受け、私は妻の発言をオウム返しにした。
田舎の東広島とはいえ、家は決して安い買い物ではない。
私の次に賢い妻がその事を理解していないはずはないのだが、妻は「その疑問は分かっている」と言わんばかりに首を横に振った。
「考えてみて。マイホームなら、もう1匹飼えるだけじゃなく、ミミの遊びやすい環境に仕上げる事もできるじゃない」
「話を逸らさないでくれよ。問題なのは住宅手当だ。金だ、金。金なんだよ」
「そもそも、お金を溜めなきゃいけないという決まりはないわ」
「なにっ?」
「まず、何の為にお金が必要なのかを考えて。普通の家庭なら子供の為に何百万、何千万と必要だけれど、私達には人間の子はいないでしょう?」
「確かに、猫のミミだけだが……」
「子育て費用も、遺産を気にする必要もないから、貯金に固執しなくても大丈夫よ。それよりはミミちゃんにお金を使いましょうよ」
「むむむっ」
「ミミちゃんもお友達ほしいわよねえ」
「うん、欲しい! ママ大好き!」
ミミはそう言うと、甘い声を出して、妻のスネに額をこすりつけた。
こいつらは、いつもこうだ。妻はミミを溺愛し、ミミは妻だけに甘えている。結果、我が家では完全に2vs1の構図が出来上がっている。しかも家長たる私が孤立しているのだ。
妻とミミの結託ぶりの例を挙げよう。
まずは妻の溺愛ぶりだが、夕飯の刺身をミミにも分け与える時に、私がミミの分配分から少々摘まみ食いしようとした事があった。すると妻は私だけをひっぱたいて「いい年した大人なんだから、猫の分を食べないで」と詰ってきたのだ。
次に、ミミが甘える時はこうだ。
冬になると、ミミは毎晩妻のベッドの中で眠り、私のいる煎餅布団には見向きもしなくなるのだ。悔しさのあまり、ミミを布団に移植しようとしたが、腕の傷が増えるだけであった。
「……しかしなあ。
金に固執する必要がないというのは分かったが、猫の為だけというのもなあ」
私は、その傷だらけの腕を組みながら眉をひそめた。
「あら。でも家を買うのは私達の為にもなるわよ。
老後を考えて病院の傍に居を構えるのも良いし、毎月の出費が無いというのも精神的に楽じゃない。他にも色々とメリットはあると思うわ」
「むむむっ」
私は腕を組んだまま唸り、通帳の残高を思い出した。
確かに、老後にだけ備えておけば良い加藤家は、懐には若干の余裕がある。
それに、住宅ローンというものもあるのではないか?
そんな事を考えているうちに、気が付けば、私の頭の中に100人の私が出現し、彼らは皆思うところを口にし始めた。
『我が家の財力で、本当に家を買えるのだろうか?』
『買えるとして、どの程度の家なのだろうか?』
『新築? 中古? あるいはマンション?』
『そもそも、家はどのようにして選び、買うのだ?』
『何か変なものを掴まされたりしないだろうか』
そんな疑問を思い尽くすままに垂れ流すのは、50人の無知な私だった。
残る30人は新生活を妄想して呆けた顔をし、10人は居眠りをした。
更に残る精鋭10人のうち、ガマ口財布を首に掛けた9人は首を横に振った。
そして最後の1人が、雄々しく立ち上がって腕を振るった。
『家を買おう! 立派な家を建てて、家長としての威厳を取り戻そう!!』
そうだ。一国一城の主というではないか。
立派な家を手に入れれば、ミミは「パパのお陰で新しい猫が飼える」と私を尊敬するだろうし、妻も私のリーダーシップに平服するだろう。
これは戦いだ。戦いなんだ。私が立派な家長になる為の城取物語なのだ。
しかし、残る99人の意見も無視はできない。
特に、新生活を妄想した30人は大事にしたい。
これでも創作者の端くれ。何かを『創る』事は嫌いではない。これは私の人生で最大の創作にもなるだろう。
そして、その創作を実現する為には、50人の無知な私に必要な知識を与え、過半数の賛同を得なくてはならない。家を買う前に勉強も必要だろう。
「むむむっ」
私はもう一度唸った。だが、腹ではもう答えは決まっていた。
妻は全てを見通したように目を細め、ミミはまた「ニャハニャハ」と笑った。
夫は、家長のプライドと人生最大の創作の為に。
妻は、ミミの幸せと今後の加藤家の為に。
猫は、年若い子分の猫の為に。
かくして、加藤家の住宅購入計画は始まったのであった。