天使なお嬢様と、死にたがりの俺
唐突だが、俺は今日殺されることになった。
相手は侯爵家、ノースデイ家の御令嬢。
貴族の中でも有数の権力を持つ者で、その次女だと聞いている。
ちなみに、殺され方までは知らない。
一瞬で命を絶たれるのか、拷問の果てにすり潰されるのか。
考えると胸の高鳴りが止まらない。
勿論、この殺人は強制ではない。
俺を含め、双方で了承した上での話なのだ。
俺には身寄りがない。
帰る場所も、頼るべき人もない。
あらゆる者が、俺の死を望んでいる。
色々と疲れてしまった訳だ。
でも、自殺は出来ない。
自分で命を絶つことだけは、俺のポリシーに反する。
だから今回の話を聞きつけ、その人身供物に志願した。
「もう一度尋ねるが、本当に良いのかい?」
「何の問題もありません」
運ばれた先、ノースデイ家の応接間で俺は最後の問いに答えた。
目の前に座すのは、ドレスを着こなし、絹のような黒髪と赤い瞳が映える女性。
十人いれば、全員が振り向く美貌の持ち主。
彼女の名はエスティア。
現ノースデイ家の当主であり、この一件の依頼者だ。
見た目は20歳程だが、家名を背負う者として適齢期は迎えているらしい。
そしてその瞳は、何処か浮世離れしていて、死を願う俺をじっくりと値踏みしていた。
「自分の死に頓着しないとは、奇妙な男だな。こんな無茶な依頼を受ける者など、そう簡単に見つかりはしないと踏んでいたんだが」
「生きようと考える人もいれば、その逆を考える人もいる。それだけの事です」
「……まぁ、余計な詮索はしない。ただ、君の犠牲は無駄にしないよ。確かに此処にあった者として、このノースデイ家の記録に残され、遺体も丁重に葬られる。君は安心して、妹の手に掛けられると良い」
成程、それは助かる。
俺のような、どうしようもない人間にも、人としての尊厳を与えてくれるとは。
貴族は気難しい人々ばかりだと思っていたが、それは間違いだったらしい。
俺は感謝するように笑ったが、エスティア嬢は何故か不信そうな様子だった。
何だろうか。
顔に何かついているのか。
「……何か?」
「君はやっぱり、変わっているよ」
よく分からないが、顔には何もついていないらしい。
それは良かった。
死の間際に、情けない姿は晒せない。
言うなれば、アレだ。
食事中にご飯粒がついているよ、と同じことだ。
これでは格好がつかない。
食事は静かに、かつ礼儀正しく取らなければならない。
「それでその、妹様は?」
「さて。眠っているのか、起きているのか。少なくとも、暴れてはいないようだ」
「……」
「気になるかい?」
「俺を殺すお相手の事は、礼儀として知っておきたいですね」
あまり詮索はしたくないが、一応の作法として相手の事は知っておくべきだ。
俺を殺す相手が、何を考え、何を元に、どんな思いに至って手を掛けるのか。
人は言わば、一冊の本なのだ。
生まれてから死ぬまでの人生が刻まれた書物。
外見はそれらを彩るブックカバーに過ぎない。
俺も、目の前にいるエスティア嬢も同じこと。
中身を読まずして、表紙だけで何が分かるというのだろう。
するとレティシア嬢は軽く息を吐いて、座っていた椅子に深く腰掛けた。
「と言っても、話すことは殆どないだろうね。君も知っているだろう? 私の妹、レティシアの噂を」
「強すぎる魔力を持っていて、地下に幽閉されている、ということ位は」
「その通りだよ。あの子の魔力は、私から見ても桁違いだ。それでいて、魔力制御も殆ど適わない。人前に出せばどれだけの惨事を生むか、想像に難くない」
「……そんなに凄いんですか?」
「あぁ。あの子がその気になれば、一晩で一国を墜とせるだろう」
成程、それは想像以上だ。
妹君の書物は噂以上に厚く、そして何より重い。
俺の瞼の裏には、それが乱雑に書き殴られた絵本のように見えてくる。
色とりどりの、色があり過ぎて黒く変貌してしまった、ごちゃ混ぜのページ。
彼女の人物像が、少しずつ分かってきた。
「妹の魔力を唯一鎮めるには、それをぶつける、発散する相手が必要。今までは私が色々な物を与えてきたが、徐々に歯止めが効かなくなっている。このままでは、地下の封印も自力で解いてしまうだろう」
「物だけでは足りないから、人を与えればどうにかなる、と?」
「非情、だと思うだろうね。でも、これは私が『視た』ものだ。他の何物でもない、私の力がそう告げたのだよ」
エスティア嬢には、俺には見えない何かが見えているらしい。
恐らく内に宿る魔力が原因だろう。
一国を滅ぼせる妹様の話はさておき、彼女もまた相当な力を持っている。
対面していて、下手なことを言えばどうなるか分からない。
そんな圧迫感が漏れ出ている。
でも、一つ疑問が残る。
「別に構いませんが、良いんですか? 俺を殺しても、歯止めが効くとは……」
「いや、そうはならないらしい」
「……?」
「今回の件で始めに連れて来た者。つまり君だね。その人物こそ、死と代価に妹の力を封じることが出来る。そういうことだ」
いや、どういう事なのだろう。
残念ながら、俺にそんな大層な力はない。
「……恐縮ですが、俺のような何の役にも立てない男に、そんな力はありません」
「君が自覚してようが、いまいが関係ない。私には確かにそう『視えた』。そして、君が来た。これが、紛れもない事実だ」
余程、自分の力を信じているらしい。
もしかすると、彼女が当主に至るまでにも、その力を存分に使っていたのかもしれない。
とは言え、納得がいかない。
俺のような男に、妹君を救えるだけの価値があるのだろうか。
残念ながら、期待には答えられない。
死ぬことに関しては、普通にウェルカムである。
寧ろ俺を生から救ってほしい。
それでも他者を救えるという点に関しては、全く以て自信がない。
或いは俺が華麗に死ぬことで、何か心打たれるモノを引き出せる、ということなのか。
死ぬためのパフォーマンス。
成程、ダンサーにでもなれば良いのか。
「さて、お喋りもここまでにしよう。君を妹の元へ連れて行く」
と、そこまで考えるもエスティア嬢の一言が聞こえる。
反動で俺は身を乗り出した。
曲が掛かったダンサーの如く、一歩前に踏み出す。
「来ましたか」
「……随分、嬉しそうだね」
またもエスティア嬢が気難しい顔をする。
そんなに変なことを言っているのだろうか。
まぁ、それでも構わない。
彼女が俺の無能さに失望した所で、事は既に終わっている。
死人に口なし。
後の事を考える必要はない。
俺はただ、粛々と殺されればいいのだ。
「こちらへどうぞ」
出入り口で待機していたメイドさんに連れられて、俺は応接間を出た。
エスティア嬢とは、ここでお別れらしい。
さようなら、エスティア嬢。
軽く会釈をすると、彼女はやっぱり複雑そうな顔で見送るだけだった。
煌びやかな館から一変、古びた地下通路へと案内される。
階段を下る度に、暗澹とした空気が身体を包んでいく。
成程、これは陰鬱な気分になる。
こんな場所に籠りきりでは、真っ当な精神は育まれないだろう。
そう思って歩き続けると、暫くして巨大な門に辿り着く。
様々な魔法陣が描かれ、中の脅威を封じている扉だった。
メイドさんは、その前に立つと何か呪文のようなものを呟いた。
同時に、門が重い音を立てて開いていく。
どうやらこのメイドさんも、中々の実力者らしい。
しかし長いこと開けている猶予はないのか、即座に彼女は俺を中へと引き入れる。
門の先は、見果てぬ闇だけが広がっていた。
「ご武運を」
死へ向かうことに、武運も何もないのだが。
一応メイドさんに礼を言って、俺は暗闇の中を歩いていった。
十数歩程度歩くと、背後の扉が音を立てて閉まり、完全に封鎖される。
暗い。
まるで俺の心境を現しているようだ。
何処までも永遠と続く、絶望の闇。
だがこの闇の向こうに、光明がある。
俺を光へと導いてくれる片道切符が、そこにあるのだ。
早く来ないだろうか。
歩きながらそう思っていると、足で何かを蹴飛ばした。
何だろう。
屈んでよくよく触ってみると、何かの小さな物体が手に触れた。
「破片?」
破片は一つではない。
そこら中に様々な欠片が落ちているようだった。
何故、とは考えるまでもない。
これは残骸。
部屋の主が残した、傷跡のようなもの。
そして既に、俺の近くにその主は迫っていた。
「本当に……来たのね……」
「!」
少女の声が聞こえ、思わず顔を上げる。
現れたのは白いネグリジェを纏う、金髪の少女だった。
歳は15歳前後だろうか。
姉であるエスティアを考えれば、それ位の幼さでも疑問はない。
「良いわ、お姉さま。言う通りにしてあげる。そして私の力に怯えて、震えてしまえば良い。どうせ私は、化物なんだから……」
ただ、少女の言葉は非常に投げやりだった。
悲観し、全てを諦めた様な声。
自分と何処か似通っているようにも感じられる。
そして彼女が纏う白いネグリジェが、視界で小さく舞う。
俺が何も言えずにいると、少女は目の前までゆっくりと歩いて来る。
「こんにちは。生贄さん」
「君は……」
「そう、私が怖いのね? 良いわよ。その恐怖も、直ぐに分からなくなる位、グチャグチャにするんだから」
「……」
「怖気づいた? でも無駄よ。貴方は此処に来てしまったの。もう戻れない。生きて帰れない。私が人を殺せないと思ったら、大間違い。今まで、何度も壊してきたんだもの。人の壊し方だって、私は知っている……やれる、やれるわ、やってやるもの」
どうやら俺が死を恐れていると思っているらしい。
自分に言い聞かせるように、おもむろに右手を持ち上げる。
力を放ち、直ぐにでも縊り殺すのだろうか。
だが、俺に恐怖はない。
そこにあったのは別の感情。
俺は彼女の事を、書き殴ったごちゃ混ぜのページだと思っていた。
でも、それは違った。
現れたのは死を運ぶ手ではなく、救済の手。
安寧をもたらす、救いを与えてくれる天使だった。
あぁ、やっと終わる。
俺は思わず声を漏らした。
「き……」
「……何? 遺言くらいなら、聞いてあげる」
なんと心優しい天使だろうか。
俺のような救いようのない人間に、最後の言葉が許される。
今まで生きてきた中でも、久々に感じた心の温かさ。
遺言とばかりに、俺は一言こう告げた。
「綺麗だ」
「え……?」
素っ頓狂な少女の声が響く。
何だろう。
何か、変な事を言っただろうか。
もう思い残すことはないのだ。
速やかに俺を召してほしい。
何となく、閉じていた瞼を開いてみる。
すると少女の顔が、急に真っ赤になった。
ぼんやりとした闇の中でも、それはハッキリ見えた。
「な、何を……! よくも……よくもそんな冗談……言えたものね……!」
動揺するように彼女はそう言って、片手で口元を隠し、顔を逸らす。
何故、口元を覆っているのだろう。
分からない。
何か、意味があることには違いないのだが。
口元、鼻。
匂い。
そこまで考えて、まさかと俺は考え至った。
彼女は臭いを気にしている。
間違いない。
俺の口臭が気になって、鼻を覆っているのだ。
俺は愕然とし、思わず閉口する。
おいおい、最悪じゃないか。
確かに、俺は死ぬために万全な体制を整えてきたつもりだった。
死に装束の一環として、口臭対策も万全だった。
なのに、まだ足りなかったということなのか。
レティシア嬢の顔が赤くなったのも、口臭のせいで怒り心頭になったためだ。
やってしまった。
こんなもの、天使に唾を吐く行為と同じだ。
地獄の釜の蓋でも開いたのか、俺は。
これでは、彼女に殺してもらえなくなる。
何という事をしてしまったのだろう。
どうする、どうすれば。
焦りの果てに、俺は彼女に問う。
「あの。近くに洗面所があるなら、貸してもらえないだろうか」
「えっ……洗面……?」
レティシア嬢は意味が分からなそうに視線を迷わせ、奥に見える扉を指差す。
有難い。
俺はすぐさま洗面所に飛び込み、両手で口を覆いながら呼吸を繰り返した。
そして懐から歯磨き用のブラシを取り出す。
死にゆく者として、身だしなみは当然心掛けなくてはならない。
血が滲む程に磨いてやった。
それから口臭用の錠剤も口の中に放り込む。
大丈夫か。
大丈夫だよな。
暫く経って、何度も確認してから、俺は恐る恐る洗面所を後にする。
鉢合わせしたレティシア嬢は、赤い頬を崩さなかった。
「申し訳ない。君を不快にさせるつもりはなかったんだ。礼儀知らずな俺を、どうか許してほしい」
「い、いえ……別に……」
流石に口臭の事を面と向かって言える度胸は、俺にはなかった。
洗面所をいきなり借りるという愚行を侵して尚、彼女は俺を手に掛けてくれるのだろうか。
不安ばかりが胸を締め付ける。
すると調子を取り戻そうと、彼女は問いを投げてきた。
「あ、貴方こそ、何なの? いきなり、あ、あんな事をっ……貴方は、お姉さまから選ばれた生贄なんでしょう?」
マズい。
俺のような腐った供物を持ってきて、姉上は一体何を考えているのだろう。
そう言いたげだ、間違いない。
何てことだ。
俺は自分だけでなく、エスティア嬢の顔にも泥を塗ろうとしている。
それだけは断じて、断じてさせてはならない。
俺は弁明するように彼女に言った。
「エスティア嬢に責任はない。これは俺の責任だ。俺が望んで此処に、君に会いに来た」
「あ、会いに……? 私に……?」
「あぁ。勿論だ」
手入れすら満足できずに会いに来てしまった、そんな醜悪な俺を許してほしい。
遠回しにそういうと、彼女は声を荒げた。
「ばっ、馬鹿にしてっ……! 私は、化物なのよ!? 直ぐにでも貴方を殺せる! 貴方だけじゃない……周りのモノだって、全部メチャメチャに出来るわ! そんな私に会うなんてっ……!」
「そんな事は分かっている。全部、分かってる。それでも、俺は此処に来たんだ」
寧ろ歓迎なのだ。
彼女のような少女に殺されるのは、まさに天啓。
神が俺に与えてくれた、唯一の救いの道なのだ。
化物だとか、そんなふざけた言葉は気にする意味もない。
目の前の少女は確かに、天から降り立った天使そのものなのだから。
「先の言葉は本当だ。俺が抱いた、本当の思いだ。だからどうか、聞き届けてほしい」
聞き届けてくれ。
殺してくれ。
そのために、此処にいるんだ。
俺は全ての思いを曝け出す。
するとレティシア嬢は、言葉に詰まり数歩ずつ下がっていく。
まさか、まだ臭かったのか。
嘘だろ。
血が滲む位には歯を磨いたし、錠剤は飲込んだ筈だぞ。
気まずく感じた俺は、それ以上には何も言えない。
それから暫くの沈黙の後、やがて彼女はこう言った。
「……出て行って」
「えっ」
「出て行ってよ。貴方を見てると、変になりそうだわ。何なの……この胸の、モヤモヤはっ……」
金槌で殴られたような感覚だった。
いや、実際に殴られて昇天できればどれだけ良かっただろう。
彼女から発せられたのは、拒絶の言葉だった。
「レティシア嬢……俺は……」
「良いから……! 出て行ってってば……!」
瞬間、圧のような力がレティシア嬢から放たれる。
それが俺の右腕に触れ、一気にポキリと折れる。
痛い。
だがそこまでだった。
命に別条がない程の怪我を負っただけで、俺は風に飛ばされたように後方に吹き飛ばされ、強制的に退室させられた。
「どういう事だい……? 右腕の骨折といい、生きて帰ってきた事といい……一体、妹と何があったんだ?」
扉の封印をこじ開けられ、廊下で倒れ伏していた俺はメイドさんに助けられ、再びエスティア嬢の前に連れ出される。
彼女は生きて帰ってきた事に驚きを隠せないようだった。
勿論、俺も同じだ。
そして、それだけじゃない。
先程働いた数々の無礼が、頭の中で反芻される。
「失望させてしまった……俺は、最低だ……」
「何だって?」
「エスティア嬢……俺はそんなに、臭うんですか?」
「はぁ?」
間の抜けた当主の声が、部屋に響き渡った。
●
「また、来たの?」
結局、俺は次の日にまたレティシア嬢に会いに行った。
どの面を下げていくんだという話だったが、未だに俺は死んでいない。
エスティア嬢との契約のため、この屋敷から出ることも出来ない。
救いの道は一本なのだ。
進む以外に方法はない。
しかし、一度は彼女に拒絶された身。
一体どうすれば良いのだろう。
対面しても尚、掛ける言葉も見つからずにいると、先に彼女が頭を下げて来た。
「ご、ごめんなさい」
「え?」
「右腕……そんな、そんなつもりじゃなかったの……。私……本当に、加減が出来なくて……だからっ……」
そう言って、申し訳なさそうに俺の右腕を見る。
そこには包帯でグルグル巻きにされた腕があった。
昨日、彼女の力に触れて呆気なく折れたモノだ。
まさか、あんな無礼を働いた俺を気遣ってくれているのか。
何という優しさだ。
俺は思わず首を振った。
「気にしなくて良いんだ。寧ろ、俺は嬉しい」
「え……」
「俺を気に掛けてくれることが。てっきり、嫌われたと思ってた」
「そ、そんなこと……」
いきなり部屋から追放される、そんな事にはならないようだ。
しかし彼女の態度はよくある、表面上の言葉だ。
本心では、やはり俺のことを警戒している。
これでは、俺の願いは聞き届けられそうにない。
ならばどうするか。
今までの悪いイメージを払拭するしかない。
彼女と親身になり、生贄としての体裁を整えなければならない。
「俺は君の事をもっと知りたい。何が好きで、何が嫌いか。そうすれば、きっとお互いの事がよく分かる筈。勿論君が良ければ、だけれど」
「……変な人」
ポツリとレティシア嬢は言う。
勿論、これは俺が生を全うするために必要な事だった。
だが、それ以上に気になったのだ。
彼女という本の中身が。
俺のような男を気に掛けてくれる、そんな天使が何故、こんな場所に囚われなければならないのか。
「嫌いなものなんて、沢山あるわ。この部屋も、この屋敷も、この力も……」
「……君の魔力の事だね」
「私は、ずっとこの部屋にいるの。危険だから、迷惑をかけるからって、物心ついた時から、ずっとここに」
「そんな頃から……」
「する事なんてなかった。だから、今まで物を壊してきたわ。沢山、沢山よ。そうすれば、気分が良くなるの。おかしいでしょう? こんなはしたない事、獣がする事よ。理性のない、ただの獣」
「……」
「軽蔑したでしょ? 恐ろしいでしょ? だから、私は化け物なの」
部屋の奥に通されて、俺は彼女から経緯を伝えられる。
そしてそれ以外の事は何も語らなかった。
というより、語るものがないのだろう。
彼女にとってはこの部屋が全てであり、それ以外は存在しない。
俺は部屋中に散らばる、何物かの破片を見つめた。
そして俺は口を開く。
「いや、君は化け物じゃない」
「また……適当な事を言って……」
「適当じゃない。君は俺の右腕を折って謝った。気遣いが、誰かを思いやる心がある人だ。君が自分を嫌いだと言ったものも、その表れだ」
「……」
「確かに君の話は外でよく聞いた。でも、改めて会って分かったよ。君は諦めずに自分の心で戦っている。俺なんかよりも、ずっと強い人だ。それだけは断言できる」
俺は既に諦めてしまった。
だが彼女は違う。
心にはまだ、人を大切にしようとする思いが残っている。
俺のようなモノとは比べる事すら烏滸がましい。
化け物と言うなど、あまりに無礼だった。
だからこそ、一目見た時から天使のような雰囲気を錯覚したのかもしれない。
するとレティシア嬢は再び頬を赤くして、顔を逸らした。
「そんなの……そんな事言われても、私……どうすれば……」
待ってくれ。
俺の口はまだ臭いのか。
変な物は何も食べていない筈なのに。
もういっその事、口を永遠に閉じていた方が良いんじゃないか。
俺も思わず顔を逸らし、何か話題になるモノを探す。
「レティシア嬢」
「は、はいっ……!」
「好きなものはあるかな? 気分を落ち着かせるためにも、そういったものを傍に置いていると良いかもしれない」
嫌いなものは聞いた。
ならばその逆はどうだろうか。
安直な問いだったが、レティシア嬢は真面目に考え、躊躇いがちに俺を見た。
「ク……」
「く?」
「クッキー……好きなの。でも、あまり食べてなくて……」
●
「急に厨房を借りたいなんて、本当に変わった男だね」
「無理を言って申し訳ないです。でも、これも必要なことなので」
「まぁ、別に良いよ。広すぎて困っていた位だ。とは言え……」
「……?」
「片腕だけでは不便だろう。彼女を手伝わせよう」
翌日、俺は厨房を借りた。
レティシアの好きなもの、クッキーを振る舞うためだ。
レシピは見なくとも、既に頭の中で覚えている。
メイドさんに手伝って貰いながら、手早く型取りまで済ませる。
その様子を見ていたエスティア嬢は、不思議そうに問い掛けた。
「なぁ。君は一体、どんな魔法を使ったんだい?」
「魔法?」
「ここ最近、妹……レティの魔力が暴走していない。まるで峠を超えたみたいに平静だ。こんな事は、今まで一度もなかった」
「そうなんですか」
「随分と他人事だね。これでも、私にとっては重要な事なのだけれど」
そう言われても、大層なことはしていない。
俺はただ、今までの無礼を返上するため、今出来る事をするだけだ。
しかし契約者の望みならば明かさない訳にも行かず、事細かではないが、ある程度の経緯と事情を話しておく。
「俺はただ、彼女に認めてもらいたい。それだけですよ」
「あの子に殺してもらうためかい?」
「えぇ……その通りです」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
何故詰まったのかは、俺にも分からなかった。
するとエスティア嬢は小さく息を吐いた。
「君は罪な男だ。自覚がない分、余計に質が悪い」
「えっ?」
「あの子に、面と向かって綺麗だと言ったのは、君が始めてなんだよ」
「……」
「死んだ父や母も、レティの力を恐れて遠ざけていた。ここまで言えば、分かるだろう?」
●
「あ……来たのね……」
再び地下の部屋を訪れると、レティシアは穏やかな様子で俺を出迎えた。
初対面の時のような諦観も、感情の荒波も見られない。
少しは心を許してくれたという事なのだろうか。
何かを話すよりも先に、取りあえず俺は小袋に詰まったクッキーを掲げた。
「おいしい……」
「形は少し悪いけど、美味しいなら良かった」
「腕……大変だったでしょ……?」
「そんな事はないさ。メイドさんにも手伝ってもらったしね。それに菓子作りは久々だったから、ちょっと新鮮だったよ」
彼女は俺とメイドさんが作ったクッキーを気に入ってくれた。
一度片手で袋から取り、両手で持ち換えてからゆっくりと食べ始める。
こうしてみると、年齢以上に幼く見えてくる。
彼女は俺を導く天使でありながらも、心優しい一人の少女なのだ。
何となくだが、そう思った。
しかし、もう少し袋の口を広げた方が取り易いか。
そう思って手を伸ばしたが、同じタイミングでレティシアがクッキーを取ろうとしたので、互いの手が僅かに触れてしまった。
「あ」
「あっ」
俺は割と普通だったが、彼女は怯えるように手を引っ込める。
見ると彼女は頬だけでなく、耳の先まで赤く染まっていた。
またか。
また俺は彼女を怒らせてしまったのか。
天使の食事を邪魔するとは本当に情けない。
差し出がましい事をすべきではなかった。
地獄の業火に焼かれる思いで、申し訳なさを感じつつ、俺は素直に謝罪する。
「すまなかった。他意はないんだ。どうか、気を悪くしないでほしい」
「わ、私も夢中になって……ごめんなさい……」
何故か謝られる。
寧ろ悪いのは俺の筈なのだが、余計に彼女に気を遣わせたのかもしれない。
少しでも近づけたかと思ったが、やはり道はまだまだ険しい。
俺はただ、彼女に向けて問題ないと首を振るだけだった。
それから時間が経ってクッキーを食べ終えると、唐突にレティシアは俺を見上げる。
「一つ、聞きたいの」
「何だい?」
「貴方は、お姉さまに選ばれた生贄。間違いないのよね?」
「……そうだね」
「やっぱり、私に殺されるために……死ぬために来たの?」
彼女は俺の目的を分かっていた。
エスティア嬢の契約通りに、殺されるために此処へ赴いたのだと。
その問いに対して、初対面の時ならば俺は迷わず頷いていた。
だが今は即答できない。
何故なのだろうか。
分からない。
分からないが、彼女の揺れる瞳を見ていると、どうしても断言できなかった。
「分からなくなってきた」
「え……?」
「元々は、そのつもりだった。でも君を見てから、次第にそう思えなくなったんだ。こんな事、今まで一度もなかったのに」
エスティア嬢からの言葉を思い出す。
彼女は両親から恐れられ、遠ざけられた。
一人孤独に、ここで生き永らえ続けて来た。
それは恐らく地獄だったのだろう。
地下に閉じ込められ、人と言葉を交わすことすらままならなければ、人の心など簡単に壊れてしまう。
そして物を壊すことでしか、自分を表現できなくなっていたのだ。
確かに目の前のレティシアは、俺のとっての救いの天使だ。
彼女の力ならば、俺を簡単に殺すことが出来る。
しかし俺がここで死ねば、彼女はどうなるのだろう。
一瞬だけそんな事を考える。
傲慢かもしれない。
驕りかもしれない。
自惚れという事もあり得る。
だが、それではあまりに彼女が救われない。
エスティア嬢が言っていた、俺が死ねば力が封印されると言うのも眉唾物だ。
それに彼女が俺に見せた優しさが、化け物と自嘲する寂しさが、クッキーを食べる少女らしさが。
先に待ち受ける孤独と重なり、俺を殺させることを躊躇わせた。
そして言う。
「俺はまだ、君の傍にいたい、のかもしれない」
「……!」
「不躾で、礼儀知らずなことは分かっている。君のお姉さんの意志に反することも。それでも俺は知りたいんだ。君の望むものを。その先に、俺の望むものもある気がするから」
「私は……化け物よ……?」
「前にも言った筈だよ。君は人間だ」
「この先だって、貴方を傷つける。腕だけじゃない……取り返しのつかないものを壊しちゃう……それでも……?」
「構わない」
痛みなら、とうの昔に慣れている。
それに彼女自身が痛みを与える事を恐れているのなら、まだ戻れる。
手を差し伸べる者がいるなら、きっと道を踏み外すことはないだろう。
俺が断言すると、レティシアは天井を見上げた。
「外に、行きたいわ」
「外……」
「陽の光を見たい。外の空気を吸いたい。綺麗な花を見たり、小鳥が飛んでいる所を見たい」
「それが、君の望むもの?」
恐る恐るレティシアは頷いた。
普通に生きているなら、当然知っている筈のモノだ。
だが、彼女はそれを知らない。
陽の光すら、どんなものなのかを知らないのだ。
ならば俺に出来る事が何なのか、死に行く前にすべきことが何なのか、直ぐに理解できた。
「分かった。約束する。俺が君に、外の世界を見せよう。どんな痛みが伴っても、この部屋から必ず連れだしてみせる」
これは俺にとっての贖罪なのかもしれない。
今まで重ねてきた罪を償うためにも、レティシアをこの場から救い出す。
それが死すべき者に許された行為。
彼女が本当の意味で救われた時、俺もまた死によって、またはそれ以外の何かで救われるのかもしれない。
そう思っていると、レティシアの身体が小刻みに震える。
驚いて顔色を窺うと、彼女はポロポロと涙を溢し始めた。
「ど、どうしたんだ?」
「そんな事……言われたの、始めてだからっ……」
「……」
「モヤモヤするの……胸の奥が辛いの……どうして……?」
●
「まさか君が、レティにプロポーズをするとは思わなかった」
「い、いえ、そんなつもりは……」
「で? 君は私との契約を反故にした訳だ。どう責任を取ってくれるのかな?」
「……命を奪う。それ以外でしたら、全て背負います」
「珍妙だね。死を望んでいた君が、死を拒むとは」
結局、生きて戻ってきた俺に対してエスティア嬢は冷徹な表情を見せる。
それも当然だ。
あれだけ死にたがっていたにも関わらず、俺は彼女との契約を破棄したことになる。
何をされても文句は言えない。
命を奪われる事を除き、どんな事でも従う所存だった。
しかし。
「そうだね。では先ず、この屋敷の掃除でもしてもらおうか」
「えっ?」
「次に庭園のガーデニングだ。繊細な植物が多いから、扱い方は彼女から教わると良い」
「ちょ、ちょっと待って下さい。つまりそれって……」
「君を、ノースデイ家で雇うことにしたよ」
サラッととんでもない事を言ってのけた。
俺はマトモな反応すら出来ずに、金魚のように口を開閉する。
「何だいその顔は。君には帰る場所もないのだろう? なら、此処で雇った所で何の問題もない筈だ」
「し、しかし……!」
「それに君を外に放り出せば、君を恐れる周りが黙っていない。そうだろう?」
「……」
「これは、そんな輩から守るためのものだと思えば良いさ。何、君の安全は保障するよ」
本気で言っているのか。
俺をここで雇うという事が、何を意味するか分かっている筈だ。
今まで沢山の人々を不幸にしてきた俺が、一つの場所に留まっても良いのだろうか。
だと言うのに、彼女は表情一つ変えない。
「本当、ですか……?」
「勿論。私を信用できないかい?」
「いえ、そのような事は……」
「あぁ、ついでにその言い方も直すと良い。此処で雇われたからには、私の事はお嬢様と呼ぶように」
「……」
「返事は?」
「は、はい、お嬢様……!」
思わず返答してしまう。
全く、とんでもない強制力だ。
否定を許さない、言葉だけで説き伏せてしまう威力を感じた。
無論、こんな破格の待遇はないだろう。
撤回する事もなく、俺は頭を下げる。
すると彼女は続けて言った。
「私の『視た』ものは絶対だ。君の死と代価に、レティの力は封じられる。しかし、彼女の力を封じる必要がなくなるなら……それに賭けても良いだろう。君が我が屋敷にとって、幸運の青い鳥であることを祈るよ」
それから俺は屋敷で執事的な役割を背負う事になった。
メイドさんから教わりつつ、日常的な屋敷の業務をこなしていく。
元からこういう事には慣れているので、割とすんなりと溶け込めた。
自分のような不出来な人間でも、取り柄はあるという事なのだろう。
今はクビにならない事を祈りつつ、粛々とエスティア嬢に従うだけだ。
そうして今日も俺は彼女の妹、レティシアの元に訪れる。
「来てくれたのね……その手に持っているのは何?」
「あぁ。今日は、君の部屋を掃除しようと思ってね。これも一つの気分転換だ」
「い、良いの……? 時々なら、私が寝てる間にメイドがやってるし……」
「なぁに、俺に任せてくれ。こう見えて、結構やるんだ」
未だに彼女の部屋は取っ散らかっている。
以前に壊されたものが、割とそこら中に散乱している。
部屋の乱れは心の乱れにも繋がるだろう。
それにこの程度の掃除ならば簡単に出来る。
任せてくれと言わんばかりに、俺は胸を張った。
するとレティシアはおずおずと進み出る。
「もし、良ければ……私も手伝うけど」
「えっ。いや流石に、ご令嬢に掃除をさせるのは……君のお姉さんに怒られてしまうよ」
「良いの。どうせ、見てないんだし。貴方と一緒の事を、したい」
彼女は恥ずかしそうに、微かに笑う。
笑みを見るのは始めてだった。
屋敷の令嬢を自ら掃除させるのは良いのだろうか。
したいと言っているなら、させるべきなのか。
そんな疑問が幾つも出てくるが、にこやかなその姿を見ていると、拒否する気にはなれなかった。
「そう言うものなのか?」
「そう言うものなの」
「……分かった。じゃあ、一緒に掃除をして、終わったら少し話をしようか。今日は、庭でとても綺麗な花を見つけたんだ。君に似合いそうな、白い薔薇を」
そう言って、庭に咲いていた薔薇を思い出す。
俺は基本的にどうしようもない人間だ。
殆どの者が、俺の死を望んでいる。
でも、彼女はそうではない。
こんな俺を前にしても、笑顔を見せてくれるようになった。
もしかすると。
もしかすると彼女は。
死を運ぶ天使ではなく、本当の意味での天使なのかもしれない。
安堵する彼女に向けて、俺は微笑み返した。