リン 二十 ー 33 ー
強く激しい雷雨が去り、残り香のような柔らかく細かな雨が空に斜を掛ける。
太陽は生憎薄灰色の雲に隠れ、姿を見せないが、数刻後には湖の上に虹を作るだろう。
森に隠れていた獣たちはゆっくり顔を出し、露で濡れた葉を舐める。
山の斜面は降った雨で小川ができ、下層に水たまりをつくる。
雨の中走り回った者がいるのか、大人の男と思われる足跡がいくつも残っている。
シウマはシャラを抱きかかえ、二階の寝室へ運んだ。
夫婦らしく大きな寝台が一つのみ。
シャラの顔色は悪く真っ青で、ぴくりとも動かない。
突き飛ばされた際に当たりどころが悪かったか、持病が悪化したかのようだ。
「この村に治療師は?」
シウマが首を横に振る。
「いません。多少薬草に詳しい人はいますが、シャラを治す程ではありませんし。私に譲ってくれる人もいない」
深いため息しか出ない。
それ程までに村人の差別が厳しい。
髪が朱いだけなのに。
「う……っ」
シャラが小さく呻いた。
そして、小刻みに震え出した。
「仕方ない」
シウマは右手をシャラの顔の前に掲げる。
思い出した様に顔を上げ、リンたちを見る。
「すみません。暴れると思うので、妻の手と足を押さえてもらえますか?」
「え? はい……」
言われるままにリンとリャンで左右の手足を押さえた。
同じ女でもシャラはほっそりとしており、とても押し負けるとは思えない。
暴れてもたかが知れている。
怪我をしない為のものだと軽く考えていた。
「では」
シウマが合図を発すると、手の間に朱色の炎が生じた。
魔が避ける守護の色、神官だけが生み出せる朱の炎。
過去、リンはクロウの炎により命を救われた。
尽きそうな命をつないだのは、他でもないクロウだけが使える白炎。
そもそも炎は怪我や病気を治すものではない。
シャラに炎を当てた所で病は治らないのだ。
シウマはシャラの薄く開いた唇に触れ、炎が灯った指をその口に突っ込んだ。
「はあ!?」
「何して……!」
驚いたのはリンたちの方。
外野の声など意に介さないシウマはさらに指を奥へ差し込む。
「ぐぅ……が、はあ……っ!」
シャラが呻いた。
苦しげに眉間に皺を寄せ、シウマの手を払い除けようと首を振る。
リンが押さえている腕が浮く。
細い腕の何所から湧いてくるのか、もの凄い力で押し返しているのだ。
リャンも蹴られながらなんとか脚を押さえている。
固く握り込んだ拳に血が滲んでいる。
額に、否、全身から汗が流れる。
これは息苦しくて暴れているのではない。
本能が炎を拒否している。
シャラはーー
「はあ、はあ…………これで、大丈夫な筈です」
荒く息を繰り返すシウマがシャラの口から指を引き抜く。
指から炎はなくなっている。
「炎を食わせたのか」
「……はい。以前もこれで持ち直しました」
シウマの言う通り、シャラの顔色は戻っていた。
胸元は規則的に上下している。
恐慌した者が炎に触れることによって自我を取り戻す。
この現象をリンは知っていた。
「シャラさんは、魔に取り憑かれているんですね」
「!?」
「…………」
身の内に魔を宿しているリンだから気づいた。
普通の女性が魔憑きの怪力を動かすことなど不可能だ。
何より、神官の炎を全身で拒絶した。
「魔、というものが、黒い靄のことなら……シャラは魔憑きと呼ばれるものです」
「それで俺と『同じ』なんですね」
シウマが悲しげに笑う。
持ち直した、ということは、何度も炎を飲ませているのだ。
炎を飲むことによって魔の侵食を抑えている。
完全に魔に食われたら会話さえ出来ず襲ってくるもの。
クロウの力が宿った剣を持つリンと同様、シャラはシウマの炎で自我を保っていた。
だからシャラの中から魔が祓えていない。
シウマが出せるのは朱色の炎のみだろう。
朱炎では魔が祓えないのだ。
「魔憑きの末路は聞いています。そうなる前にシャラを……でも、私は、シャラを失いたくない……っ!」
シャラを、唯一の家族を失うことは、シウマにとって絶望に等しい。
差別の激しいこの村でどれだけ心を打ちのめされたのだろう。
シャラの存在が生きる希望を与えたのだろう。
リンにとってのクロウが、シウマにとってのシャラだ。
シウマの気持ちはよくわかる。
「リン。馬鹿なことは考えるなよ」
「……わかってる」
リャンに睨まれ視線を逸らす。
やはり兄貴分は誤摩化せない。
先回りして釘を刺されてしまった。
「今日はもうお休み下さい。片付けは私がしますので、触らなくて大丈夫ですから」
「手伝いますよ」
シウマは首を振る。
見ている方が痛々しい表情を浮かべ、ゆっくりシャラの頬を撫でる。
傷ついているシウマを癒すことは、リンたちに出来ないのだ。
「明日は晴れますよ。村の人たちに見つかる前に出て行って下さい」
昼の嵐が嘘の様に、雲のない東の夜空に美しい月が浮かんでいる。
湖の波も穏やかで、魚も眠っているのか水面に姿はない。
静かな夜だ。
町であったなら、魔を警戒して夜でも火が消えずに明るい。
けれど、山間にある村は明かりは消され、眠りにつく。
まるで魔の脅威を知らぬよう。
水面に映った月が歪む。
雨で水量が増した湖にバシャバシャと音を立てながら誰かが入っていく。
その腕にはぐったりと横たえられた人が抱えられている。
「それ、どうするんですか?」
誰もいないと思っていた岸辺から声をかけられた。
高くないが凛とした女性の声だ。
びくりと背筋を振るわせ振り返る。
村人ではない彼女の姿に僅かな戸惑いと大きな安心が籠った息が漏れる。
同時に、可笑しくなってくすくす笑った。
彼女も村人に暴言を吐かれた側だ。
こちらの気持ちをわかっている筈。
なのに、彼女は怒っていた。
「苦しいのはもうやめたんです。ここにいても救われない。楽になりたいんですよ」
「だからって、人の命を奪うことはいけないことです」
「……あなたはわかってくれないんですね、同じなのに」
腕の中に抱いている体をそっと沈めた。
既に息をしていない。とうに事切れている。
「あなたが殺したんですね」
「そう。私と、あの人を苦しめる者は許さない……」
「待ってくれっ!」
森の方から、男が駆け寄ってきた。
余程慌てているのか、何度も脚を縺れさせる。
やっとの思いで辿り着いたと思ったら、ぬかるんだ土に足を取られ、派手に転んだ。
ボロボロに着古した衣も、鮮やかな朱色の髪も、全身泥に塗れた。
必至に手を伸ばし、岸辺に立つリンの脚に縋り付いた。
「待って下さい。あれは……妻は悪くないっ!」
「あなた……」
湖中の人影ーーシャラは、夫の姿に目を細める。
喜んでいるのか悲しんでいるのかわからない。
「どんな事情があろうと、魔に操られようと、人が人を殺めるのは悪です」
よく言う、とリンの中の魔が笑った気がした。
リンとて人を手にかけたことがある。
剣を握った手に感触が残っている。
身を守る為、人を守る為、人を斬った。
戻らない命を自らの手で絶った重みは承知している。
「これ以上、あなたに悪事を重ねさせない」
すらりと剣を抜いた。
シウマの顔が青く染まる。
「やめてくれ! 妻を殺さないでくれっ!」
シウマはリンの脚を掴んで止める。
リンも魔憑き。
魔憑きは炎を操る神官を無視できない。
たとえ弱かろうと、神官がいるだけで注意が逸れてしまう。
リンと内なる魔がどんな契約をしていようと、変わることのない不文律だった。
「……リャン」
「はいはい」
何所からか出てきたリャンが、リンの足元からシウマを引き離す。
シウマは抵抗するがリャンに及ばない。
背後からの羽交い締めで拘束した。
「はなっ、放してくれ!」
「ちょーっと黙ってて下さいねぇ」
地面に顔を押し付け、ついでに口も塞ぐ。
神官に対してあるまじき暴行だが、リャンが忠誠を誓う神官はクロウだけ。
余所の神官など眼中にない。
「あなた!」
シャラの顔が黒く染まる。
肩が盛り上がり、腕も骨が出っ張り歪に変形した。
もう人とは呼べない姿だ。
大きな爪を振り上げ、リンに向かって突っ込んでいく。
水に脚が取られ思う様に動けていない。
シャラが走る度、大きな水飛沫が上がる。
リンは剣を構えて地を蹴った。
「やめてくれぇーーーーーーっ!!」
シウマの悲痛な叫びと、落水音は同時だった。
無惨に散らばった黒い髪が、湖面に浮かぶ。
静寂だった村に火の明かりが灯った。
【捕捉】裏設定を間話で書こうと思ったけれど掘り下げるまでもないので。
シウマの曽祖父は当時の大神官の弟(無力)だったけれど、祖父の代で神殿内の勢力図の傾きにより都を追われた血混じりの家名持ち。
シウマの母は村の娘で、父とは少ない同年代のため結婚。
離婚の後、村の男と結婚し、娘を出産。娘の名前はチカ。シウマとチカは異父兄妹。
子供の誘拐はシャラ(魔憑き)の犯行。結婚して6年経っても子供ができないコンプレックスから。
最初の子供は大人の真似して罵ってきたので衝動で、チカの子供はシウマの妹の子供でありシウマの不幸の象徴であるので誘拐。




