リン 二十 ー 31 ー
四方を山に囲まれ、湖の畔にある隔離された村。
資源が豊かだが、人の心は貧しかった。
常に外から来る人間に嫌疑の目を向け、追い払おうとする。
受け入れられないのは猜疑心からか、それともーー
「あっはははっははははっ! だからさぁ」
「仕方ねぇだろ。つーか笑うな!」
「女性だったんですね。気づきませんでした」
ぽたりぽたりと、髪から滴る水滴が床に染みを作る。
一宿の礼に魚を獲りに湖に潜った。
浅瀬で小魚が群れで泳いでいたので上着を網に見立てて大量捕獲した。
もちろん上着以外の着衣は剥ぎ取り、裙も脱ぎ捨てた。
濡れた体の上から再度それらを身につけると、布はたちまち水気を含んで重みを増す。
上着に魚を包み、シウマの家に戻ったら、スエンに怒られた。
ちゃんと服を着ろ、と。
身一つで湖に入ったので他に魚を運ぶ物がなかったのだ。仕方がない。
だが、つい先日も同じことで怒られたばかりだ。
しかも風邪を引きそうになったので大人しく説教を受け入れようと正面で聞いていたら、スエンが突然座り込んでしまった。
そんなスエンをリャンは指を指して笑った。
「もういい。風邪引くから着替えてこい」
「うん。えーっと。心配してくれたんだよな、ありがと」
「……おう」
卓に魚を置いて、二階に続く階段を上る。
二階の一部屋を貸してもらった。
とんとんと上った先で、思わず足を止めた。
三つ並んだ部屋を繋ぐ廊下に、ぼんやりと人影が浮かんでいる。
「……お客さん?」
人影がリンを見つめる。
ほっそりとした女性だった。
「シウマさんの、奥さん、か?」
「ええ、そう。シウマの妻のシャラといいます」
シャラは静かに笑みを浮かべる。
空はぽっかり月が浮かぶ夕闇に染まっており、光の乏しい廊下では幽鬼と見間違えそうだ。
体調が良くないらしいので、寝間着姿なのだろう。
白い襦がなおさら現実からかけ離れていると錯覚させられる。
「濡れていらっしゃるの? 風邪を引いては大変。早くお着替えになって」
「あ……はい」
部屋に入り荷物から女性に見える方の着替えを取り出す。
旅装とはいえ、今着ている方のが断然動きやすいので気に入っている。
「濡れたままでは駄目よ。待って。拭く物を持ってくるわ」
シャラは隣の部屋から拭き布を持ってきて一枚をリンに手渡す。
もう一枚をリンの頭に被せ、濡れた髪を丁寧に拭いた。
優しい手つきに、胸の奥がくすぐったくなる。
粗方拭き終わると、シャラはすっと立ち上がった。
「私は奥の部屋におりますので、足りないものがあったら呼んで下さいな」
「ありがとう」
シャラは一礼をして戻って行った。
後姿を見送っただけなのに不思議な気持ちになった。
一拍置いた後、着替えを素早く身につける。
もう一度扉を見た。
窓から漏れる月光のみ、人影はもうない。
急に背筋が寒くなり、光を求めて階下へ戻る。
「リンー。魚捌くの手伝えー」
「おう」
リンが獲ってきた小魚を捌いていたリャンに声をかけられる。
ひとつひとつは小さいがなんせ数がある。
「塩焼きにするのか?」
「うんにゃー。一匹二匹は焼きでもいいけど、数あるからさぁ。叩いて丸めて湯に入れようかなって」
「いいじゃん。あったかい湯食べたい!」
湖に入った所為で体が冷たい。
野宿は基本簡単に調理できる焼きものばかりだ。
湯のように手の込んだ料理に飢えている。
まだピチピチ跳ねる魚の鱗を取り、頭を落として内臓を外す。
港町の宿屋で厨房の手伝いで魚は捌き慣れている。
大将の味は出せないが、温かいものが食べられるだけありがたい。
長く勤めたリンより、厨房の手伝いを主にしていたリャンの方が大将の味に近いかもしれない。
ますます大将の料理が恋しくなる。
「そういえば、先程シウマさんの奥さんに挨拶しましたよ。拭く物を貸してもらいました」
「っ!」
背後でシウマが息を呑んだのがわかった。
シャラは如何にも病弱そうだった。心配にもなるだろう。
「何も、ありませんでしたか?」
「え? はい、ご自分で立っていましたよ」
「そうじゃなくて……」
シウマは言い淀んだ。
リンに異常がないとわかると安堵で肩が下がった。
「何でもありません。驚かせてしまいました」
「シャラさん、重い病気なんですか?」
「…………そんな所です」
これ以上シウマが口を開くことはなかった。
森の中にポツンと建つ一軒家は静かだ。
時折、獣の息遣いや虫の羽音は聞こえるが、耳をくすぐる子守唄のよう。
借りた一部屋に寝台はなく、毛布に包まって横になるだけだ。
それだけでも室内で眠れるだけありがたい。
長旅で体は疲弊している。
安心して休める時に休みたい。
「?」
獣とは違う気配を察知し、リンが毛布から抜け出した。
そっと窓辺に近づく。
腕に抱いていた愛刀の柄を握る。
窓の外には誰もいなかった。
乱立する木々と風で舞い上がる木の葉だけ。
気の所為かと再び毛布を被って横になる。
常に危険と隣り合わせだったこともあり、過敏になっているようだ。
目を閉じ、今度こそ眠りについた。
次に目を覚ましたら朝になっていた。
近くで小鳥が囀っている。
まだ思考がはっきりしない。
深夜に何かを感じ取った筈なのに、正体がわからない。
夢だったのだろうか。
「起きたか」
「ん……」
先に起きていたスエンと共に一階へ降りる。
窓からしとしと水音が聞こえてきた。
森の中だからか気にならなかったが、雨が降っている。
階段の途中から空腹を掻き立てる良い匂いがした。
起きた時、既にリャンの姿がなかったのでもう下にいるのだろう。
「おはようございます。もうすぐ朝餉ができますからね」
竈門の前に立っていたのはシャラだった。
色白い印象はなく、健康そうに見える。
とても大病を患っていそうにない。
「おはようございます。お元気そう、ですね」
「はい。元気ですよ」
シャラはにこりと笑った。
この部屋にはシャラしかおらず、男二人の姿はない。
「お連れの方でしたら外へ散歩に行きましたよ」
「そうですか」
散歩と言付けていたなら、おそらく街道へ戻る道を模索しているのだろう。
そういえば、シウマは外への道をシャラが知っていることを仄めかしていた。
知っているのならば聞いておきたい。
「朝餉ができましたよ。お粥しかありませんけど」
「充分です」
「ふふ。私は主人を起こしてきますから、先に召し上がって下さい」
湯気が立つ粥が入った椀を卓に置かれた。
粥の中には刻んだ野菜が浮かんでいる。
ほんのり塩が効いた優しい味だ。
寝起きの体にじんわり染み込んでいく。
朝餉を堪能していると、乱暴に扉が開いた。リャンだった。
「腹減ったぁ。おっす、寝坊助ども」
「おかえり。何か見つけたか?」
「んー。見つけてはないけど、行けそうな所はあったかなぁ」
言いながら自分の分の粥をよそって卓につく。
髪がしっとり濡れている。
大雨というわけではなさそうだ。
「湖の向こうの空が真っ黒だったから、今からすげー降りそう。出来れば上がってから出発したいなぁ」
「雨の山を歩く方が危ねぇ。落雷とか洒落にならん」
リャンの意見にスエンも同意する。
リンも頷いた。
魔も恐ろしいが自然が牙を剥く瞬間も恐ろしい。
何もない山中で事故に遭うのは避けたい。
ぬかるんだ地面を滑るだけならまだしも、滑って岩にぶつかり打撲、滑った拍子に木の根に躓き転落して骨折、なんて事態になるのは鍛えた者としては間抜けだ。
視界が悪いし体温も奪われる。
動けなくなるのは必然。
それに大雨になれば湖の水嵩が増す。もちろん山肌を流れる小川もだ。
水際に近づくのも危険極まりない。
「でしたら、もう一晩我が家で休んでください」
「シウマさん……」
シャラを伴ってシウマが階段を降りてきた。
眠そうに瞼が半分下りている。
おはようございます、という挨拶も欠伸混じりだ。
「おはようございます。先に頂いています」
「構いません。どうも、朝は弱くて。お恥ずかしいです」
シウマは頭を掻く。
何にしても、もう一晩部屋を貸してもらえるならありがたい。
三人それぞれ胸を撫で下ろした。
「迷惑ついでに、山の抜け方を知りたいんですけどぉ。奥さんがご存知だとか」
思い出したようにリャンがシャラに話しかける。
断片的でも道標が欲しい。
シウマとシャラが顔を見合わせ、困ったように眉を下げた。
「もう、六年も前だから正確な道とは言えませんが」
「構いません。俺たちが来た道は使えないので」
脇目も振らず走って山に入り、山に入ったら猛獣に襲われ、道なき道を通って湖に出た。
これを逆に辿ろうとする方が無謀だ。
運良く戻れた所で面倒なことになる。
「山の様子も変わっているだろうし、確かなことは言えないけれど」
二階から木の板と墨を持ってきたシャラは、細い棒の先に墨を付け板に図を書き始めた。
左側に楕円、右側に波打った線を引き、その中間にいくつか中心で交わる斜線を記していく。
「ここが村がある場所。北西と南を結ぶ街道に戻るなら、村よりもう少し先から山に入る方がいいでしょう。この印はおすすめできません。絶壁の崖があったり、人食いの獣が出ます」
楕円を始点に指を滑らせていく。
楕円は湖、波線は街道を見立てているのだろう。
説明をしながらどんどん印を付け加えていく。
山の広さは正確ではないにしろ、村の位置と進む方角がわかるだけ戻れる可能性が高まった。
「詳しいですね」
「シャラは外から来たんです。あなたたちと同じく迷って……」
「逃げてきたんです、魔に襲われて。山で彷徨っているところを夫に助けてもらったんです」
やがて空は真っ黒な雲に覆われ、白い稲光と腹に響く轟音が村を襲った。




