クロウ 二十 ー 20 ー
鬱蒼と茂る森の中。
女はいつもどおり主人の命令で森の中にひっそりと建てられた小屋に向かっていた。
森とは、もちろん魔が住み着いているあの森だ。
女の手には行灯ーー神官だけが生み出せる炎を持っている。
魔が住んでいる森など行きたくないが、炎を持たされては行かないわけにはいかない。
主人が怖いからだ。
使用人など道具としか思っていない主人に逆らえば、女の命は道に転がる石の様に弾き飛ばされてしまう。
炎と言ってもとても小さくとても弱い。
道中魔憑きが出ないように祈るしかない。
「失礼致します」
小屋に辿り着いた女が中を窺う様に戸を開ける。
中にいる男の機嫌を損ねたら帰れなくなってしまうからだ。
しかし、小屋には『人』がいなかった。
「ひぃ……っ!」
女の手から行灯が落ちる。
足がガクガク振るえ、腰が抜けて転んで尻を打った。
痛みなどどうでもいい。
早くこの場から逃げなければと頭に警鐘が鳴っているが、思う様に体が動かない。
助けて助けて助けて助けてーーーー
魔の森の中にこっそり建てられた小屋など誰も知らない。誰も助けてくれない。
女の悲鳴は誰にも届かなかった。
「当然であろう。我が娘は神官の妃になるべく育てたのだからな」
カンが得意げに答えた。
隣に座っているアイリの顔など見ようともせず。
口元は笑みを浮かべているが目が笑っていないどころか冷え冷えとしている。
さも自分が育てたと言わんばかりに自慢をしているが、実際はどうだ。
見目麗しいだけでなく、教養に優れ、音楽や行儀にも才能を見せる娘が、自分の言うことを聞く人形だとでも思っているのか。
「さすがはイ家のご令嬢ですな。マオが生きていたら良い友になったことだろう」
ト家のソンが苦笑いを浮かべる。
都での家位はイ家のが上。
大神官を輩出した数が最も多いからだ。
ト家は商人から成り上がり、神官の血筋を受け入れたのは二代前の一度きり。
家格の年季が違う。
それに気位の高いマオがアイリと話が合うとは想像もつかない。
「ははっ、そうでございますね。ロアン様の推挙がなければ、私などこの場にいるのも相応しくありませんから」
トゥンの口から地方神官の名前が出るとカンとソンの眦が一層鋭くなった。
『地方神官でありリオンの実兄であるロアンから信頼を受けて妃になる為わざわざ邑に来た』と言っているようなものだ。
家格が高かろうとも、神殿に出入りできなかった二人の前で。
わかって言っているのかと疑いたくなる。
「ロアン様とは……懐かしい御名だ。学舎に通っていた頃、同じ師を仰ぎ、学を磨いたものだ」
「それは数奇な巡り合わせですね。ご縁を感じます」
トゥンが妙縁に感動している横でリオンが小さく吹き出した。
なるほど。偶然的な縁ではないようだ。
もう少し隠してほしいところだが、カンたちが気づいた様子はない。
「ハ家の。其方はどこの学舎の出だ?」
カンは都で一等のと名高い学舎の出だ。
そこそこの成績を収めているカンにとって、学舎の名は肩書きも同然。
自分の価値、自信へとつながっている。
「お恥ずかしながら、成人後すぐに地方神殿に勤めに入ったので……」
「ーーっ なるほど」
カンの表情が一瞬歪む。
学舎を出ずに地方とはいえ神殿に席を置いていたトゥン。
カンが望んでも手に入れられなかったものでもある。
ソンも同じだったようで、トゥンを見る目が鋭くなっている。
すっかり茶会の空気ではなくなってしまった。
「あ……っ!」
メイが小さな悲鳴をあげる。
手を滑らせて杯を落としてしまったようだ。
硬質な音を立てて杯が割れた。
「申し訳ございませんっ!」
女中の習性が出て杯を拾おうと席を立った。
しかし、今は妃候補としてこの場にいる。
女中の真似事は相応しくない。
さっと駆け寄った女官たちによって片付けられていく。
メイはハッと気づいた。
会話が止まり、視線が集中していることに。
リオンやトゥンは同情的な目をしていたが、カンとソンの目は険しい。
憎悪と言ってもいい程に。
アイリはその視線を遮るようにメイの横に立ち、手を握る。
「お怪我はございませんか?」
「アイ……ええ、大丈夫」
「お茶がこぼれてしまいましたね。もう一杯、お淹れしますわ」
アイリは新たに用意された茶器を手に取る。
軽やかな手つきで二杯の茶を淹れた。
一杯はメイに、もう一杯はカンの前に置く。
「なんのつもりだ」
カンはキッとアイリを睨みつける。
アイリはくすりと笑みをこぼした。
「一口も飲んでいらっしゃらないですもの。すっかり冷めてしまっていましたわ」
「給仕の真似事などお前のやることではない」
カンの言う通り、茶葉を女官に渡せば良いだけ。
アイリ自身が手を出すことではない。
特に作法に厳しい父親の目がある。
何か意味がなければ、普段のアイリならしない。
目的は知れないが、クロウに一手がない今、アイリの好きにさせることが吉に出るかもしれない。
「良いではないか。美味い茶が飲めるのなら歓迎する」
「若造が……」
舌打ちをするが、ちんけな悪態などいちいち気にすることでもない。
皆の視線がカンに集まっている。
せっかく愛娘が気を利かせたというのに、と期待が籠っている目だ。
カンは仕方なく茶碗を掴んでぐいっと呷る。
「…………少し苦いのではないか?」
「苦みを感じたのでしたら、こちらでしょう」
アイリは袖から何かを取り出す。
ことりと卓に置かれたそれは、細かい彫りが施された硝子の瓶。
一目見て高価なものだとわかる。
これは何だと問おうと視線を上げると、カンの引きつった顔があった。
「お、まえ……それは!」
「貴方から頂いた物ではないですか。お忘れですか?」
「知らんっ! そんな物は知らんぞ!」
「でしたら、何故そんなに慌てているのです? ただの瓶ではございませんか」
カンは勢いよく立ち上がった。
勢いのあまり座っていた椅子がうしろに倒れるのも構わず。
アイリはくすくす笑みをこぼした。
可憐と称される美女というより、悪に手を染めた妖艶な鬼女のようだ。
「アイリ嬢、それは何だ?」
「こちらですか? なんでしたっけ。服用するとまず手足の先が痺れ、寒さで凍え、最後に息が止まるという、毒ですわ」
「毒!?」
部屋がざわめいた。控えの間からも悲鳴も上がる。
カンが飲んだ茶はメイにも渡されている。
メイは蒼白な顔でアイリを凝視していた。
信じていた友人に裏切られたかのような絶望が浮かんでいる。
「そんな物、何所で手に入れたんだ」
「神殿へ移る際、荷物に紛れておりました。こちらの手紙と一緒に」
取り出したのは一枚の紙切れ。
手紙というより書き物の切れ端という程小さい。
衛兵が受け取り、クロウへ渡す。
「………………ふん、なるほど。指示書だな。チェン」
「はい」
控えていた文官長を呼ぶ。
さっと傍に寄ったチェンに紙切れを見せた。
「この手は誰の物かわかるか?」
「是。間違いなく、イ家のカン氏のものです」
チェンは毎日何十もの手書きの文字を見ている。
筆跡の特徴から誰が書いたものか推測するのはお手の物。
妃候補に関する陳情を多く神殿へ提出しているのはカンとソン。
チェンがよく目にする筆跡だ。
「知らんっ! そんな紙切れも! 毒もっ!」
カンが吠えた。
体が小刻みに震えている。
顔色も悪い。唇など真っ青だ。
「たった一滴でそのようになるのですね。そんなものをミアン様に飲ませようとしたこと、わたくし怒っているのですよ?」
「なんだって! まさか……!?」
ミアンの名が出て、トゥンが顔色をなくす。
まさかとは思うが、と衛兵にミアンの様子を窺いに走らせようと命じようとした時、バン、と乱暴に扉が開いた。
外を警備していた衛兵が飛び込んでくる。
「報告します! 魔憑きが出ました、人型です!」




