ミアン 十七 ー 2 ー
良い匂いがする。
蜜の様に甘く花の様に華やかで品がある良い香り。
至近距離でこの香りを嗅ぎ続けていたら酔ってしまいそうだ。
家で着ているものより格段に上等な寝間着を身に着け、寝台の縁に腰を下ろす。
用意された茶をゆっくり飲む。
口当たりが柔らかく温かい茶は、ゆっくり体に染み渡っていく。
だからといって、この緊張が解れるわけがない。
「ミアン様、お肌綺麗ですね。少ぉしお化粧してみません?」
「無理強いしちゃ駄目よ。ミアン様、嫌なら嫌と言わなければアイリの玩具になるわよ」
「は、はあ……」
「せっかくお友達と一緒に過ごす夜だもの。少しはしゃいでもよろしくなくて?」
アイリはさっそく、と化粧箱を取り出した。
心なしかウキウキしている様に見える。
化粧箱から取り出されたのは、白粉、色紅、瑠璃色の粉末、墨筆、乳液。
化粧品は高価で、一つ持っているだけでも一財産。
隔離された邑でこれほど充実した化粧箱を持っているのはイ家のアイリ以外いないだろう。
神官の妃と期待されたアイリに用意された物だ。
アイリが普段から纏わせている香りも同じ。
精製水から作られた香水など、はたして邑で何人が持っているか。
それに寝間着も。
アイリは神殿に泊まり込む為に屋敷から生活道具一式を運ばせた。
言付けでは着替えだけだった筈だが、気を利かせた侍女が色々と支度道具を持ってきたのだ。
その中にアイリが普段使っている化粧道具と茶葉、何故かミアン用の寝間着が入っていた。
つるつるとした肌触りで軽く着心地が良い。
「ふふふっ。先日隊商が来た時にミアン様に似合う寝間着がありましたので、つい購入してしまいました。うちの侍女ったら気が利きますでしょう?」
「えっと……ありがとうございます?」
「こちらこそお召し頂いてありがとうございます。とても愛らしいですわ」
「あ、はは……」
うっとりとしたアイリの視線をどんな気持ちで受け止めていいか、ミアンにはわからなかった。
ミアンは当代神官の妃候補だった。
都より南部の都市で産まれ育ち、四つになる歳に邑へ移り住んだ。
小さな頃から人見知りであらゆるものが怖かった。
獣も怖い、人の視線も怖い。もちろん魔も怖い。
曲がりなりにも家名のある家に生まれ、地方都市の屋敷ではそれなりの人数の使用人に囲まれ育った。
過去に神官の血が混じったことがあるというだけで、秘境の地へ飛ばされることになり、使用人たちは半分もついてこなかった。
何もないどころか、魔が住み着いた場所など好き好んで行く輩などいない。
地方神殿に勤めていた父は無職となり、頼れる知り合いのいない土地へ一家で放り出されてしまった。
子供ながら、自分に運がないと思い知らされた。
邑での生活は楽なものではなかった。
固有資産がないので貧乏を強いられ、都から移った家名持ちたちからの風当たりが強い。
働かなければ食うに困るので、平民に混じって畑を耕す。
それも彼らから下に見られる要因。
善か悪かという以前の話しで、これ以外に生きる道はなかった。
慎ましく細やかに、いずれ神官の妃になるのだということも忘れて生きてきたのに。
神官の妃候補と呼ばれるようになってから命を狙われる様になった。
本当に、運が底をついていた。
『怪我をしたくなければ、妃候補から降りろ』
神殿で行われる茶会に行く途中、何者かに襲われ、脅された。
護衛についてくれていたフォウは多勢に無勢で攻撃を受け、大怪我を負った。
ミアンが妃候補でいるから彼はこのような目に遭ったのだ。
神官の血が流れる家名持ちであり、家名持ちが故に平民たちから距離を置かれる。
平民たちは優しく接してくれるがそれだけで、彼らの輪に入っていけなかった。
邑で誰よりも異質なミアンをただの一人の少女として接してくれたのがアイリ。
アイリはミアンを友人と呼び、構い倒してくれる。
それが何より嬉しかったか。
だから、アイリとの唯一の接点である妃候補の椅子を降りることが出来ないでいた。
先日と同じ応接室で、ミアンはクロウと対峙していた。
ただ互いに座って茶を飲んでいるだけだが、雰囲気は固い。
ミアンは取り調べを受けている気分だった。
神官と言えば、家名持ちであっても天上人の如く尊い存在。
朱色の髪に明るい茶色の瞳が神官の特徴であり、先代の神官であるリオンはまさにその色を持つ。
目の前の神官は混じりのない白髪に金色の瞳。どう見ても異質だった。
だが、神官の最大の特徴である魔が嫌う炎を出現させる能力は、先代を上回る。
見た目がどうであろうと、クロウは神官だった。
「昨夜はゆっくり休めただろうか。不自由はなかったか?」
「は、はいっ。全然……!」
「うん? 全然、休めなかったか?」
「ええっと……休めました」
疲れているだろうから、とメイが早めの就寝を提案してくれたお陰だ。
まさか三人同じ寝台で眠ることになるとは思わなかったけれど。
人肌を感じて眠るのは子供の頃以来だった。
「そういえば。アイリ嬢とメイが貴女の寝所に押し掛けたらしいな。騒がしいようなら注意をするが」
「いいえ! お二人のお陰で気が紛れて、昼間のこと思い出さずに、済みましたから」
「そうか」
一瞬、クロウが視線を泳がせた。
気の所為かとじっと見ていたら、目が合った。
色ばかり気になるが、よく見るとクロウの容姿はかなり整っていて美しい。
異性だと意識すると、途端に恥ずかしくなった。
「改めて謝罪がしたい。怖い思いをさせた」
クロウが深々と頭を下げる。
邑の最高権力者の謝罪にひっと悲鳴が上がりそうになった。
なんとか声を抑えても冷や汗が止まらない。
「そっ、そんな! 神官様の所為では、ご、ございませんよ」
「邑で起こったことはすべて私の責任だ。貴女は妃候補である所為で悪徒に目を付けられ危険な目に遭った。これは変えられない事実。だから、私が謝罪するのが筋だ」
「そんな……」
ミアンの目からぼたぼたと大きな涙が零れた。
襲われた恐怖を思い出したからではない。
クロウの謝罪に心が打たれたからではない。
容易に頭を下げ、謝罪一つで今までのことをすべて許さなければいけないことに腹が立った。
ずっと我慢していた感情が涙となって溢れた。
「ミアン嬢……!?」
「あ……これは……」
目をこすっても涙は止まらず、流れ続けた。
泣いても怒っても解決しない。
ミアンの中で昇華しなくてはずっとしこりを残したままになってしまう。
一言伝えれば、憂いは消える。
「神官様の所為ではございません。ですが」
やっとできた初めての友人だったのに。
こんな形で手を離してしまう。
でも、限界だ。
「妃候補を、降りさせて頂きます」




