リン 二十 ー 27 ー
※残酷な描写があります。
視界がぼんやりとしている。
白い何かに遮られていて見通しが悪い。
足元すら危うい程濃い霧が辺りに漂っている。
リンの目を持ってしても何も見えなかった。
はっとなり、腰に手をやると、馴染みのある感触があった。
愛刀が傍にあるというだけで落ち着きを取り戻せた。
踏みしめた感触は柔らかくもないが岩程固くもない。おそらく草が生えた土。
昨夜走った草原と同じ場所だろう。
一緒にいたはずのリャンとスエンの姿がない。
この霧では探すことは困難。
周囲を歩き回ればわかるだろうかと、足を進めた。
しばらく歩いても何もない。
二人もいないし、戻るべきかと一度立ち止まった。
まだ霧は晴れない。
夜が明けているのかどうかもわからない。
白いだけの世界は、起きているのか眠っているのかさえわからなかった。
感触はあり愛刀が手元にある。
現実だと思っているのに、自信がなくなってきた。
再び視線を上げると、人影を見つけた。
リャンかスエンか。
ほっと肩の力が抜けた。
「やっと見つけ……」
近づくと人影の輪郭がはっきり見えてきた。
そして、いるはずのない人物に目を見開いて驚いた。
「…………クロウ?」
腰に届く程の真っ直ぐな白髪に、黄金の瞳を持った、一度見たら忘れられない程の美貌の男。
リンの呼びかけにクロウらしき人影が手を差し伸べる。
柔らかく笑ってリンを呼ぶ。
「っーーーークロウ!」
クロウクロウクロウクロウーー
何も考えられなかった。
いるはずがない。邑から出られないクロウが、遠く離れた運河岸にいるわけがない。
だからこれは夢。現実ではない。
そんなことすらわからないほど頭の中はクロウでいっぱいだ。
ずっと、ずっとずっと会いたかった。
どうしようもない程焦がれた存在がすぐそこにいる。
気が逸って足が縺れそうになるけれど、クロウの元へ駆けた。
「クロウ!」
腕に導かれるまま飛び込んだ。
記憶にあるクロウの匂い、クロウの温もり、そのままだった。
さらりと頬に触れる絹糸のような髪の感触が、これはクロウだと信じさせた。
「クロウ、ごめん俺……ーー」
少しだけ高いクロウの目を覗き込む。
クロウの顔は蒼白で、口から赤い液体が滴っていた。
クロウは都から命を狙われている。
敵かと焦ったが、違うとすぐに気づいた。
恐る恐る視線を下ろす。
リンの手には抜き身の愛刀。
刀身はクロウの腹に埋まっていた。
「ーーーーーー!!?」
自分が何をしたか信じられなくて、よろよろと後退し、尻餅をついた。
ガクガクと手が振るえる。
いつの間にか手は真っ黒に染まっていた。
喉が貼り付いて声が出ない。
クロウの体が地面に倒れて、動かなくなった。
金の瞳がリンを捕らえて語る、どうして、と。
そうだ、これが怖くてクロウの元に帰らなかったんだ。
クロウを見たら、リンの中にいる魔がクロウを殺してしまう。
リンの体を使って、クロウを手にかけてしまう。
これは現実ではない。けれど夢でもない。
未来に起こりうる、リンとクロウの姿だ。
『忘れるな。ーーだ』
頭の奥から声がする。
ボワンボワンと反響しているが、知っている声だ。
何度も聞いた。
憎悪に塗れた嗄れた声。
何か大切なことがあった筈だが、記憶が途切れて思い出せない。
『白の神官を殺せ』
耳を抑えても頭の中で何度も反芻される。
割れそうな程の頭痛に襲われ、魔が作った悪夢から逃げ出した。
次に目が覚めたのは現実だった。
真正面からリャンと視線が合う。
リャンの顔は見たことない程険しい。
チャキっと耳元で鍔が鳴る。
首元に抜き身の愛刀が押し当てられていた。
「……リーか?」
「おはよう、兄貴」
数秒睨み合い、リャンは刀を鞘に収めた。
リンが起き上がったのを見て、剣を放って寄越した。
肩で大きく息をする。
落ち着いて異変がないか確認する。
全身ぐっしょり汗をかいていた。
夜通し走り、運河から分岐した細い川の側で休息を取っていた。
すでに夜は明け、闇色だった空は白から薄青に変わっている。
開けた原っぱで見通しがいい場所は見つかる危険性と共に、すぐに気がつける利点もある。
夜は目立つ為火を熾さず、交替で睡眠を取っていた。
「おいおいおい」
少し離れた所で火を熾していたスエンが目を剥いて驚いていた。
リャンが放っていた殺気は紛うことなき本当。
本気でリンを殺そうとしていた。
「何やってんだ、お前ら」
「…………もしかして、魔が出てた?」
魔が見せた悪夢と同じく、腕が黒く染まっていたのなら、いくら鈍感なリャンでも気づく。
両手を確認するが、何も変わった所はない。
土に塗れて汚れているがいつもと同じ肌の色をしている。
感覚もあり、きちんと動く。
「あぁ」
「そっか」
魔は光に弱く、闇の中は力を増幅する。
火がない暗闇で意識を手放したら、リンの中にいる魔が表に出てきてもおかしくない。
魔憑きを葬り慣れているリャンの手際は確か。
それが幼馴染みでも例外ではない。
「リャンはなんでリンの剣使ったんだ? それで魔を押さえ込んでいンだろ?」
「この剣は特別なんだ」
「神官から賜ったロ氏の作品だから?」
神官だけが持てる朱色の武器を渡されることは、神官からの命を預ける程の信頼の証。
長く神殿に仕えていても滅多に神官から下賜されることなどないからも、特別感がある。
「そうだけど、それだけじゃなくて。この剣がクロウの血を受けているから特別なんだ」
魔を浄化するクロウの力が僅かに宿る特別な剣。
頑丈な魔憑きを確実に葬れる。
「なんだそれ……神殿に献上しなきゃいけねえ宝剣じゃねーか」
「ありえない偶然の産物なんだけどなぁ」
「だから俺は、魔に負けないでいられる」
「なるほどな……」
リンが大切にしていた剣。
以前、女だからという理由でスエンが取り上げようとした。
なんとしてでも取り上げられまいと必至だった剣は、リンにとって二重にも三重にも替えられない特別なものだった。
急にばつが悪くなったスエンは頭を掻いた。
「どうした?」
「……んでもねえ」
僅かな休息の後、三人は北へ向かって歩いた。
注ぎに行くべき場所は決まっている。
運河を渡る橋を管理している町だ。
本当は管理している地方神官のロアンの許可証が欲しい所だが、戻るわけにも行かず、税関を通って行くことにした。
リンとスエンはロアンの元へ戻ろうと提案したが、リャンが頑に拒否した為だ。
「そうだ、リャン。昨夜のこと聞かせてよ」
「んー? えーっと……」
「”やられた”って何のことだ、って」
「あー、はいはい」
宿で襲撃された心当たりがあった口ぶりが気になって再度訊ねた。
同じ町に敵がいたとしても、その日の内に襲われるのは早過ぎる。
「邑に行商に来てた一行あったじゃん」
「は? うん」
「宿の部屋さぁ」
「うん」
「その商隊にいたおっちゃんに偶々会って、譲ってもらったんだわ」
「…………え?」
「おい、それって……」
「あの部屋に俺とリーが泊まるの知ってたの、おっちゃんだけなんだよねぇ」
「おっさんはガイと通じてる、ってことかよ」
「昨日襲ってきた奴の中にガイいたんだ?」
「いた」
「じゃあ確定だな」
他の可能性もあるが、今のリャンの話しでは一番ありえることだった。
商人は主に神殿と家名持ちと取引をしていた。
邑に数日滞在し、神殿の前庭で市を開き、外へ売り出すものは直接神殿とやりとりをしていた。
邑という単位での取引は神殿が、家名持ちたちは個人で取引をしていたので、商人一人一人との付き合いは家名持ちたちの方が強いのかもしれない。
動く額も家名持ちの方が大きい分仕方ない部分はある。
情や力ではなく利で動く商人相手に文句は言えまい。
「襲撃された理由はわかった。神殿に行くなって言うのも、ガイがすでに根回ししてるってことか?」
「ガイが直接、ってのはわかんないけど。たぶん、ロアン様が用意してくれるって言う商人があいつらなわけだろ」
「そうなのか?」
「邑のこと知ってるの、あの商隊だけだからな」
「そっか」
案内できるけれど、リンを狙っている家名持ちたちの息がかかっているということだ。
行っても行かなくても同じ結果になる。
「そもそもロアン様と商隊が繋がっていて、魔憑きであるリーを消そうとガイを嗾けた、って線もあるから、どっちにしろ神殿に近づかない方がいいっしょ」
「そう、だな」
どの可能性も捨てきれず、どれを選んだとしても危険を孕んでいるのなら、選択肢をすべて捨てて三人だけで進むしかない。
ただ邑に帰るだけなのに難しいな、とリンは思った。




