スエン 二十六 ー 4 ー
「ごゆるりとお楽しみくださいませ」
下女は酒の盆を置いて下がった。
ピシャリと戸が締められる。
部屋にはスエンとリンの、二人だけになった。
いつものように、昼間に酒場へ食事に行った。
非番なので、食後は診療所へリャンに会いにいく予定でいる。
通い慣れた道を歩いていると、酒場の常連である商人がスエンに声をかけた。
「やあ、役人の兄ちゃん。今から飯かい?」
スエンが酒場の常連になったことを知っていた。役人が東地区の酒場まで昼飯を食べに来るのが珍しいらしく、界隈では有名人になっていた。
はじめは役人という職業柄、嫌厭されていた節があったが、今では気軽に声をかけられるようになった。
「今日、リンはいないぞ」
「え?」
酒場の常連たちは、スエンがリン目当てで通っていると知っていた。
彼ら商人の目が鋭いこともあるが、スエンはわかりやすい。
直接口説きはしないものの、見る人から見れば一発でわかってしまう。
「いないって、まさか……」
リャンの怪我が治らない内は町を出ることはない。今すぐにでも帰りたい彼らはすでに出発してしまったのかと焦った。
挨拶の一つもないまま別れてしまうのは、あまりに薄情だ。
「今日はなぁ、なんと、リンが店に上がるんだ」
「店に上がる?」
リンは食堂で常に給仕をしている酒場の看板娘だ。
何のことかわからず首を傾げた。
「聞いてないのか。色街の娼館で、客を取るんだよ」
頭にガツンと衝撃が走った。
理由はわかる。旅費を稼ぐ為だ。酒場で働く分では足りないのだろう。
故郷で待つ男の為に操を捨てる。捨てられる。
そうまでして帰る覚悟があったのだ。
リンに客取りなどさせたくない。
いや、他の男が触れることが、嫌でたまらない。
「まだ決まった客はいないようだから、今頃ーー」
気がついたら、西地区の最奥ーー色街の方へ走っていた。
部屋には蝋燭が一本あるだけで薄暗い。かろうじて輪郭がわかる程度だ。
それでも、リンが驚愕を浮かべているのがわかる。
女らしく着飾ったリンは、綺麗だった。
「スエンが、俺を買った、のか?」
リンは立ったまま動かない。
リンの背後の戸は、格子状の木枠に布が被っているだけの簡素な物。庭の篝火から柔らかく光が入るようになっている為、逆光になっている。蝋燭の明かりでは足元しか照らされない。
スエンからリンの顔は見えない。
声が震えていた。
「まあ……座れって」
ぽんぽんと床を叩いて隣に座るように促す。
リンは一瞬視線を彷徨わせて、俯きながらも素直に座った。
酒の杯を掲げて飲むかと聞くが首を振って断られた。
「何でスエンが…………俺が、ここにいるって知ってたのか?」
「店に行く時、聞いた」
「そうか。でも、女を買うって……あっ! 俺でゴメン!」
「違ぇ!」
リンは、女としての自己評価が低い。未だ男だと思っている節がある。
白粉を叩いた肌、紅を引いた唇、影を作る睫毛、隙が多い衣装、ふわりと鼻をくすぐる妖艶な芳香。
『女』の武器を磨き上げたリンは、スエンがあの日一目惚れした姿だ。
普段のリンも、どんな女とも違う、魅力的な惹かれて止まないリンだ。
スエンにはこれ以上ない程上等な女に見える。
「それより、リャンは知ってンのか?」
「……そんなの、言うことじゃないだろ」
予想通り、黙っていた。
過保護な兄貴分はリンの自己犠牲を喜ぶどころか、絶対に怒る。
後で知られて面倒な事態になるだろう。
大金が必要だとしても、早まった真似をしてくれた。
思いとどまらせようと思案するが、巧い言葉が思いつかない。
ふいに肩に、トサリ、と軽い衝撃がきた。
触れた腕が熱い。
何かと理解して、さっと身を引いた。
「……えっと?」
リンが凭れ、いや、しな垂れ掛かってきた。
ここが『娼館』という場所だと強く認識した。
互いにどうしていいかわからないといった表情を浮かべる。
「……いや、だよな。やっぱり」
「俺は!」
リンが眉を寄せて笑った。
傷つけた。けれど。
「俺は、お前を抱きにきたわけじゃない」
「わかってるって。男か女かわかんねーようなヤツにそんな気おきねーよな」
「違うっ…………いや。俺も、お前たちに金がいることはわかってンだけど、お前にこんなことさせたくなかったんだ」
止めに来た。
阻むことが良いことではないと分かった上で、リンの客取りを邪魔した。
リンは困惑している。
ただの友人が口を出す領分を超えている。
リンが心配だったーーーーという建前を隠すことは、もう難しい。
いくら鈍いリンでも気付く。
目が、声が、熱が、愛しいと言っている。
「スエン?」
「俺はーー」
邑に帰る為に町を出て行ってしまったら、二度と会えなくなってしまう。
邑がある場所は魔が住むの森の向こう。
スエンは神殿所属の役人だ。港町の保安がスエンの仕事。自由に動ける範囲が限られている。
故郷を語るリンの顔が浮かぶ。
リンの思い出はすべてクロウで埋まっている。彼との思い出を語るリンは、女の顔をしていた。
クロウの傍が幸せなのだと語っていた。
リンの幸せを願うなら、スエンが一晩買う振りをしてやり過ごし、金だけ渡して送り出せばいい。
そうしたくない自分も、スエンの中にあった。
「俺が指輪を渡したら、受け取ってくれるか?」
スエンはリンの手に己の手を重ねた。




