リン 十九 ー 18 ー
御年七十八になるシャオ老師が見たものは、彼の怒りの許容量を充分越えるものだった。
床に倒れる重症患者、暴れたことがわかる乱れた寝台、血が滴る腕を押さえた女、床に転がる血の付いた剣。
老師が入室する少し前に男の怒鳴り声がした。
先に病室の戸を開けたのは偶々訪れていた役人。
患者の身元は怪我を理由に役所に伏せたまま。何度聴取に来られても面会謝絶を通していた。
声が聞こえてしまっては仕方がない。
しかし、彼なら悪いようにしないだろうと判断し、案内していた所だった。
「診療所で怪我をこさえるんじゃない、馬鹿たれがっ!」
近年張ったことのない大声で、叱りつけた。
「どういうことか説明しろっ!」
リャンは鋭く怒鳴り、リンの手から剣を奪った。くるりと器用に持ち替えてリンの首に刃を突きつける。
目から怒りを感じた。
怒っている。当然だ。
生きるものすべての敵である魔に取り憑かれてしまった。
神官の傍に付き従う者としてあってはいけない失態だった。
「ごめん」
カッとなったリャンは、リンの首を落とさん勢いで振りかぶる。
リンは動かなかった。
魔に取り憑かれた影響か、リンの身体能力は跳ね上がっている。
大の男を打ち負かす怪力も、獣より速く動ける脚力も、暗闇でも衰えない視力も、すべて魔によって齎された。
リャンの動きは見えている。でも動かない。
自分では死ねないから、いっそ殺してくれたら、と心の片隅で願っていた。
「待てっ!」
間に入ったスエンが、リャンの腕を掴んで止めた。
腕の怪我は治りきっていない。掴んだら、もちろん痛い。
リャンの手から剣が落ちた。
「いったあ!」
「おっと。悪ぃ」
スエンがパッと手を離すと、前屈みになっていたリャンは体勢を崩し、寝台から落ちそのまま床に倒れた。咄嗟に受け身をとったので大事には至っていないが、肩の打撲痕を突いたらしく、床で悶絶している。
その一拍後にシャオ老師が入ってきたのだった。
リンが自分でつけた腕の傷はすでに血が止まり、治りかかっていた。
普通では考えられない治癒力にリャンもスエンも声なく驚いた。
それでも目につく傷であることにかわりはない。
シャオ老師は治療を施し、包帯で隠した。
落ち着いたのはリャンの検診が終わった後だった。
特に問題なし、とお言葉をもらったので、再び病室で横になっている。
布団は血で汚れたので替えた。
リンが『魔憑き』であることを告白してから半日経過した。
病室の惨状に血が上ったシャオ老師に追い出され、改めることになった。
この数時間、老師の怒りが収まるのを待ったと言っても過言ではない。
おかげでリンの頭も冷え、ロアンに言われたことを思い返せる程度、落ち着きを取り戻した。
店に老師の娘が顔を出し、リャンが待っていると聞くや否や、手伝いもそこそこ、愛刀だけを持って診療所へ向かった。
謝り倒してやっと許され入室した部屋には寝台が並んでいおり、部屋に染み込んだ薬草の匂いがふわりと鼻に届く。
窓際の最奥の寝台には、もはや病室が住居となっていたリャンが、明かり取りの窓から差し込む月の光を背負い、寝台の側面に座って体を拭いていた。
よく見ると、リャンの腕から大袈裟に巻かれていた包帯が取れていた。骨折を支えていた添木が外れたようだ。足はまだだが、隣に松葉杖があるので歩行可能と見ていいだろう。
顔色は悪くない。一月前から確実に回復している。
入ってきたリンたちに気づくと緩んだ表情を改めた。
リンはちらりと横に並んだスエンを見る。
「なんでいるんだよ」
すでに夜も遅い。
町中で火を焚いているので暗い印象はないが、昼のような活気はない。
酒場は夕方から人がわらわらやってくるので、今時分が混む時間帯。今頃、リンの話題で盛り上がっているだろうから、顔を出さない方が懸命だ。
すでにリンが神殿所属の兵士たちに混じって演習に参加し、圧勝したと噂になっている。
商人たちが、どこから話を聞きつけてくるのか恐ろしいばかり。
夜勤が多いスエンは、いつもなら役所で待機している時間のはず。
すでに演習は終わっており、視察が終わる明日にロアンは神殿へ帰るという。
前夜から詰めていたので、くたくただろうに。
「事情聴取」
着ているものはいつもの役人の支給服ではない。
いつも通り、昼頃店にふらりとやってきて、先程までちびちびと独り酒をしていたので非番だと思っていた。
役人の非番は休みではないらしい。関わった手前、同席するという。
リンについて病室に入室する。
「休みの日に聴取とは、仕事熱心だな。赤い顔して」
「ついでだ」
「何のついでだよ。担当じゃねぇんじゃねーの?」
「ついではついでだっつってんだろ!」
スエンは顔を更に真っ赤にして話を終わらせようとする。
意地っ張りなスエンをこれ以上問いつめても正解は貰えなさそうなので、この辺りが止め時だ。
「誰だ、アンタ?」
ほぼ初対面のスエンにリャンは怪訝な表情を浮かべる。
基本誰にでも友好的に接するけれど、知らない土地ということもあり、警戒心が強い。体が万全でない為、余裕がないのだろう。
「俺の友人だよ」
「友人ねぇ……?」
役人ということは伏せておく。下手な勘繰りをさせたくない。
リャンは細めた目でスエンを見据える。
値踏みでもしているかのようだ。
「なんだよ」
「別にぃ」
興味を失ったようにスエンから視線を外す。
そのまま標的をリンに戻した。
真っ直ぐ見据えるリャンの目にたじろいでしまう。
リャンの首についた痣が目を引く程度に目立つ。
つい目を逸らした。
「魔憑きとは何のことだ」
「…………そのままだよ」
左腕を摩る。
剣でつけたはずの傷はたった一日で塞がった。
リャンも腕に目を止め、ちっと吐き捨てた。次いで溜めた息を吐き出す。
可愛い恋人の前では荒んだ一面を絶対見せないのに、と胸内で呟くが口に出さない。図星を突いて睨まれるのがオチだ。
普段は緩いくせに説教の時だけ兄ぶるリャンに、リンはツンと横を向いた。
今更圧力をかけたところで怖くない。
答えづらくはあるけれど、答えないわけではない。
できれば、言いたくなかった。
「詳細」
「問題ない」
「起こったことの詳細を報告しろ。それでも軍人か!」
「……御意」
渋々頷いた。
さすが『猛将』ルオウの甥なだけある。
リンにも軍人としての誇りはある。騙すのは本意ではない。
「ちょっと待て」
「うん?」
振り返るとスエンが眉尻を下げていた。
「それは、俺が聞いていいのか?」
「帰ってもらって構いませんケド?」
確かに、役人であるスエンに聞かれるのは拙い。
魔憑きが町中、しかも二年も潜伏していたのだ。どんな事情があろうが即逮捕案件である。
スエンはロアンとの会話も聞いている。
神殿関係者と思われているかもしれない。
今黙っていても、余所から突かれる可能性がある。なら、本当のことを知ってもらった方がいい。
友人なのだから。
「昔話からしてやるよ。俺も身元明かしてないしな」
「そういえばそうだな」
身元引き受け人の保証があったので言及されていないが、リンは役所に戸籍申請をしていない。大陸の何所に問い合わせをしてもない。知られるのをひた隠していたのだから。
少し前の押し問答が懐かしい。
リャンと向かい合う形で、隣の寝台に腰掛ける。
「俺は、孤児だったんだ」
幼い頃、魔に襲われ住んでいた村を追われたこと。
逃げている時、魔憑きになった母親に殺されそうになったこと。
助けてくれた都の兵士に放置街に捨てられたこと。
掃き溜めの街で生命が尽きる寸前、リオンに拾われたこと。
リオンの元で、クロウと一緒に育ったこと。
「大神官の末子…………白髪の神官なんて、聞いたことねぇぞ」
スエンは額に手を当てて唸るような声を上げた。
都の神殿に属する神官は、地方神殿も含めて、皆存在が知られている。
特に大神官の親族は、何所にいるかまで有名だ。
「リオン様が引き取るまで後宮で隠されていたらしいから、知らなくて当然だ」
クロウの母親は家名持ちでも地位は低く後見もない。クロウを産んで間もなく儚くなった。
とても美しい人だったと、リオンは語っていた。
産みの親もいない、後見もない、異端な容姿の赤子は気味悪がられたことだろう。
存在そのものを神殿は消そうとした。
「都にいた頃、クロウは常に命を狙われていた。俺はクロウを守ろうと必至だったよ。まあ、ガキがなんとかできるわけでもねぇから、ひたすら強くなろうとしてた」
「今もだろ」
「女として慎みねぇしな」
「男として育ったんだから仕方ないだろ!」
可愛気がないのは自覚している。
周囲の勘違いを利用して、男であろうとした。
女のままではクロウを守れないと思ったから。
女の体が邪魔だと感じていた時期もある。女だから、女と知られたら、クロウの傍にいられない。
だから、女であることを黙っていた。
「おかげで丈夫に育ったよ。死にかけたこともあったけど」
「死にそうな目にあったのかよ」
「毒盛られたり、連れ去られそうになったクロウを庇ったり、刃物で脅されたりとか」
「…………本当に死そうになってんじゃねぇか」
寝込んでいた日々は今でも鮮明に覚えている。
クロウを庇って死ぬならいいとさえ思っていた。反対に、心残りの為に死にたくないと強く願っていた。
ーークロウをひとりにしたくない。
リンが倒れる度に、クロウの方が死にそうな顔色で、ずっと傍にいて離れなかった。
死線を彷徨いつつも、なんとか生き延びた。
何度も殺されそうになれば、互いに過保護になる。
大事な相手を傷つけられない為に強さが必要だった。
「リオン様から都を出るって聞いた時も、迷わなかった」
「都を出る?」
大神官の末弟が都を出たことは知られていたが、どこへ向ったかは秘されていた。
異国に遊学した、病で亡くなった、神殿の不興を買って殺された、など様々な憶測が噂されている。
正確な情報が市井に伝わるはずもなく、有耶無耶になっている。
知らない仲ではないとはいえ、言っていいものか迷う。
スエンがクロウの命を狙うとは思っていないが、何処で誰が聞きつけるかわからない。
ちらりとリャンに目配せを送る。
リャンは黙って目を閉じた。任せる、と言いたげに。
「…………魔の森の向こう。大陸の果てに、俺たちの邑がある」
「魔の森……だと?」
信じられないと、音にならない声が漏れる。
普通は、魔に遭遇するだけで命を落とす。魔の森を超えて生き延びるのは不可能。
それを可能にしたのが二人の神官の存在だ。
「クロウにとっては、都より安全だったんだ」
魔の脅威はあれど、クロウを慕う民たちとの暮らしは、都よりよっぽど充実していた。
土地は魔に侵されていても、神官の力があれば甦らせられる。
土を耕し、水を汲み、火を焼べ、生命を育む。
魔の脅威は一丸となって立ち向かった。
「十と数年、あの邑で暮らしてた」
膝の上においた愛刀を撫でた。
クロウから贈られた宝物。
クロウから貰ったものーー名前も言葉も過ごした時間もすべて、大事な大事な宝物だ。
「…………そこが、お前の故郷か」
コクンと一つ頷く。
土地は関係ない。クロウがいる場所が、故郷と呼べる帰る場所だ。
魔に侵された身では帰れないが。
「腹減ったな」
ずっと沈黙していたリャンが口を開いた。
突然の明るい声に、リンとスエンの注目が一点に集中する。
スエンはともかく、仕事の途中で抜けてきたリンの夜食はまだ。いつも最後の客を見送った後に済ませる。
言われてみれば空腹を感じる。
「店で何か作ってもらってくるよ」
「頼んだ」
食事に関することならリンが適役。なんせ、酒場の店主の料理に惚れ込み奉公を希望した。
毎日の賄いが細やかな楽しみなのだ。
「手伝う……」
「アンタは俺の相手してよ」
腰を浮かせるスエンをリャンが引き留めた。
三人前の料理くらい一人で運べる。日常的に行っているので手伝いがなくても問題ない。
男同士で語らうことがあるのなら止めるつもりはない。存分にやればいい。
「んじゃ、ちょっと行ってくる」
病室に二人を残して、リンは店へ戻った。




