リン 二十 ー 47 ー
翌朝、一人で着られる袍に着替えると、リオンの元へ向かった。
リンの私室はクロウの私室と続きになっていて、一枚の簡素な扉で隔てている。
その扉に鍵をかけ、夜中でも忍び込んで来ないようにした。
リンは怒っているのに、適当に宥められて有耶無耶にされかねない。
顔を見たくなかった。
外出許可はリオンにもらうつもりだ。
神官の婚姻には成婚の儀式を執り行うことが慣例となっており、リンたちはまだ済ませていない。
謂わば今は儀式の為の準備段階のため、リンは正式には妃候補という立場だった。
正式に妃となれば、妃は神官の所有物として何を行うにしても神官の許可がいる。
まだ妃候補であるリンの処遇は養父であるリオンにも権利があった。
リオンはあっさり許可をしただけでなく、神殿の外へ自由に出られる様手配までしてくれた。
事情は聞かれなかったが、生温い視線を送りながら「喧嘩も程々に」と言われた。
リンたちの会話は筒抜けのようだ。
自室に戻るとクロウに捕まりそうなので、近くにいた女官にアイリへ伝言を頼むと、そのまま神殿の外へ出掛けた。
神殿の門を警備していた衛兵にリオンからもらった木札を見せるとすんなり通してもらえた。
女の格好をしたリンがよく知るリーと一致しないのかじっと見られたが、言葉で確認されることはなかった。
目的地のロ家の工房は、神殿の南隣の区画にある。神殿の南門を出てすぐだ。
路面沿いは工房、住居はその奥に建っている。
工房の朝は早い。日が昇りきる前に炉に火を入れる。徐々に温度を高くしていき、日が落ちる頃まで絶やさず燃やし続ける。
火を入れる作業は工房の跡継ぎであるカナンの役目。
現在の工房の主人はカナンとルオウの父。
次男のルオウは神殿での役職がある為、工房を継ぐのは長男であるカナンと決まっている。
リンはこっそり工房の中を覗くと、カナンがひとりで炉の番をしていた。
真剣に炉の中の火と向き合っている。
邪魔をしては悪いと思いつつ声をかけることにした。今を逃したらまた居住区に軟禁されかねない。
「おはよう、カナンさん」
「あ……っ、ええっと、リー……かな?」
「お久しぶりです」
ぎこちなく笑うと、カナンも困ったように微笑った。
カナンとクロウの間に気まずい空気が流れているのを感じ取っていた。
剣の話をした時、制作者であり実際に修繕するカナンの名前が一切出てこなかった。修理の依頼もルオウ経由。
子供の頃から頼ってきた大人の一人であるカナンに直接頼む筈なのに仲介を入れた。
時間がなかったので工房の身内を頼った、という筋は理解出来るが、クロウらしくないと感じた。
原因はおそらく、カナンの一人息子であるリャン。
リャンは、クロウに付き添って魔の森に入って魔に襲われた。
クロウが魔の森に入ろうとしなかったらリャンは行方不明にならずに済んだ。
邑の人間なら、誰でも神官であるクロウを守ろうと命をかけようとする。
当然だとわかっていても心が追いついていかないのも無理はない。
リャンは帰って来たが、息子を失ったと思っていた時間は埋められない。
クロウとカナンの仲を取り持とうとなどとは考えていないが、原因の一端であるリンも責任を感じているのは確か。
「剣の修理がそろそろ出来上がるって聞いて見に来たんだけど」
「ああ。明日にでも神殿に持っていく予定だったんだ」
カナンは工房の端で布に包まれている長細い筒状の物を持ち上げる。くるくると布を外すと刀身が磨かれた抜き身の剣が現れた。
傷や欠けはなくなっており、元の灰銀色が陽の光を受けて滑らかに白く光っている。
無駄な装飾がないリンの剣だった。
「鞘はまだ乾燥中でね。祖父は、もう起き上がれないから私の手作業ですまないが」
リンの剣は、本体はカナン、鞘は前工房主であるカナンの祖父ジンの作。
ジンが手がけた最後の作品でもある。
「じい様……寝たきりだって聞いたけど」
「歳だからね。会わせてあげたいけれど、目を開けている時間も殆どないから」
ロ家の大老が臥せっているとは聞いたが、想像以上に状態がよろしくないようだ。
元気が取り柄だったジンが臥せっていると聞いた時、冗談かと思った。
工房に遊びにくる度気持ちよく迎えてくれた大きな声が、脳裏に再生される。もうあの声を聞くことが出来ないのだ。
「剣を握ってみるかい?」
「うん」
差し出された剣を利き手で握る。
体の中心で構え、内側に捻る。今度は手首を返して両手で握る。
「長さは変えていないよ。扱い慣れた物の方がいいだろう」
子供用の少し短い刀身をずっと振るってきたので、リンの感覚に染み付いている。
軽く振るうと、剣先までの感覚が手に伝わってきた。
「ありがとう。いい剣です」
「よかった。鞘が乾ききるまでまだ時間があるけれど、直したい所はあるかな」
「うーん……柄が、緩い気がする」
「かなりボロボロだったから付け替えたんだ。巻き布を増やそう」
ああだこうだとリンの希望が詰められた剣が完成した。
鞘は破れもあり、時間が掛かっているとのこと。
出来次第届けてくれるというので甘えさせてもらう。本体の確認ができたので満足した。
甘えついでに届けるのはカナンを指名した。
おそらく受け取りの際はクロウも同席する。その席でカナンとクロウが少しでも話せればよいと、ちょっとしたお節介だ。
「リン?」
工房の奥から声をかけられた。帰ろうと背を向けている時だった。
振り返ると驚いた表情を浮かべたスエンがいた。
一緒に旅をしていた。邑に留まっていてもおかしくはないが、ロの工房にいるとは思わなかった。
邑の外から来た人間はたいてい神殿で寝泊まりする。邑に宿がないからだ。
そういえば神殿でスエンと顔を合わせたことがなかった、と思い出す。
魔の森の中で意識を失ったリンが知る筈もなく、リャンが誘えばロ家に滞在するのもおかしい話ではないと思考を巡らせた。
「よう。ここで世話になってたんだな」
「俺のことはいい! おまえは大丈夫なのか!?」
「へ? あー……うん」
リンが魔憑きだったことは事実だが、何所まで知られてるかわからない。
カナンが知っていたとしても、何処かで漏れるかも懸念がある。
魔憑きだった人間が元に戻る例はない、リン以外。
知られて危険視されるのはなるべく避けたい。
リンの内の魔を浄化したのはクロウ。リンを疑えばクロウの力を信じないと同義と看做す。つまり不敬に当たるのだ。
危険はないとわかっていても、リンを疑う目は少なからずあるだろう。
ならば初めから知らない方が良い。他でもない本人の為に。
カナンに断りを入れてロ家の庭を借りることにした。
スエンと少し話すだけだが人目につかない場所がよいが、邑の往来では出来そうもない。善くも悪くも邑の住民は明け透けだ。一人に見つかったら翌日には邑中の住民が知っている。邑は狭い。
カナンは口が堅いし信頼が置ける。カナンから頼んでもらえばロ家の人たちは口を噤んでくれるだろう。
「おまえの顔見んの久しぶりな気がすんな」
二人きりになった庭で先に切り出したのはスエンだった。
邑に帰って来ても昏睡期間があり、リンとスエンの感覚には差があるように感じた。
それでなくてもリンの周辺の環境変化が目紛しく、スエンのことで思い悩む暇があまりなかった。
毎日一緒にいた仲間が突然会えなくなったのだ。心配させてしまったことだろう。
「会いに来れなくて……その、ごめん?」
「そうだよなぁ。放っておかれて、忘れちまったのかと思ったぞ」
「だからごめんって!」
「悪い、揶揄った」
スエンは苦笑した。
顰めた眉に憂いが見え、胸が痛んだ。
「もう大丈夫とは聞いてっけど、無理してないか?」
「ああ。俺は元気だよ。魔憑きの時みたいな馬鹿げた身体能力はなくなったけど」
「ははっ、今ならおまえに勝てっかもな」
道中、何度かスエンと手合わせし、リンが全勝している。
技術面でも身体の駆動の面でも、魔に底上げされた能力を抜いてもリンの方が上だったが、剣を交える度にスエンは強くなっていた。
町の用心棒程度では経験が圧倒的に足りていなかった差なのだろう。
実践を経たスエンは邑でも通用する力を身につけた。
しばらく剣を握っておらず、しかも臥せっていたリンでは快勝は難しいかもしれない。
純粋な腕力では敵わないので圧されてしまうだろう。
「それ以前に、手合わせすら難しそうだな」
上から下まで眺めて、ぽつりと零す。
リンが着ている袍は動きやすいが一目で上等な物と分かる。
決定的なのは、赤色の帯ーー神官の所有物という印だ。
「ごめん……っ!」
リンは深く頭を下げた。
きっとスエンは見返りなど求めて旅に同行したわけではない。
口煩くもリンをずっと気遣ってくれた。
無償の親切に甘えてしまっていた。
返しきれない程の厚意と感謝が、返事を誤らせてしまった。
リンの恋慕は褪せることなくクロウにある。
けれど言わなくてはいけない。
「何に謝ってんだよ」
「約束守れないことに」
「…………」
「聞いてるんだろ、俺……っ!」
気持ちが逸って言葉が詰まる。
何から言って良いのか、どう説明すれば良いのか。
邑に着く前のリンは思ってもみなかった。あり得なかった。
それでもリンにとって最上の存在はクロウであり、スエンにも明言している。
その上でスエンは手を差し出した。
「謝んな。初めからわかっててついてったんだから」
「でも……」
「ちょっとは望みあるかもとか思ってたけど、あの神官様見たら絶対ぇ無理ってわかったし」
「クロウに会ったのか……?」
「ちゃんとはまだだが、初対面で威嚇されちまった。すげぇ大事にされてんじゃん」
「過保護なだけだよ」
クロウは人見知りだ。
リンが打ち解けた人にしか心を開かないところがある。
突然現れたスエンに警戒するのは想像がついた。
「過保護ねぇ。リャンが言ってたんだが、おまえ、神殿に閉じ込められてるって本当か?」
余計なことを、と頭の片隅で愚痴るが顔には出さないように気をつける。
表面に出したら、本当のことだと言っているようなものだ。
「人聞き悪いな。魔が抜けたばかりで弱ってたのと、色々忙しくて出掛ける暇がなかっただけで、監禁されてたわけじゃないってーの」
リンの言い分は事実なのだが、クロウに外出許可が得られなかったのも事実。
神殿内は自由に歩き回っていたので監禁はされていない。
「何度かリンに会わせろと申請したんだが、なかなか返事が来ないもんだから、監禁されてるって本気で思っちまったわ」
「ははは……」
思わず乾いた笑いが漏れた。
面会申込が来ていたとは初耳だ。
リンが神殿内でも顔を合わせる人は限られている。故意に制限されていると感じる程に。
クロウの耳に入った時点で握りつぶされているのでは、と脳裏を過る。
訊かなければいけないことが多そうである。
「本当に閉じ込められているなら、それはそれでいいのかもな」
クロウは、三年前のあの夜から
少なくともクロウの安寧は保てる。
リンの本心に背いていたとしても。
今までが自由過ぎたのだ。
これからは妃としての立場を弁えないといけない。
妃は神殿から出ないものなのだから。
「嘘つくなよ」
「え……?」
「狭い部屋で大人しく閉じ込められてるような質じゃねぇだろ、おまえは」
「……そんなことないよ」
失うかもしれないと恐怖で足が竦んで立ち止まっていた過去がある。
スエンの言う通り、咄嗟に手が出てしまうこともあるが、基本リンはクロウに関しては臆病だ。
クロウのことを一番に考えると自分の心の声なんて無視出来る。
クロウの考えていることが見えなくなると不安になる。
ずっとクロウの為に何が出来るかを考えて、走ってきた。そんな日常に戻るだけ。
「苦しそうな顔で言ってんじゃねぇぞ」
「……っ」
はっとして顔を上げる。
いつの間にか暗い顔で俯いていたようだ。
顔を上げた正面にスエンがいた。
一年間、程よい距離でリンを支えてくれていた。
不器用な優しさが頼もしく、何度リンを救ったか。
スエンの好意を利用したリンを恨んでも仕方ないのに、心配し励ましてくれる。
真剣な強い眼差しがリンを見据えている。
くらりと目眩をおこしそうになった。
「もし、つらいってんなら、俺が連れ出してやろうか?」
「それは……」
「面白い話をしているじゃないか」
近づいてくる気配に反応が遅れ、振り返る前に口を塞がれた。
口だけでなく腰もがっちり捕まれ動けない。
「この邑に私の妻を連れ去ろうとする輩がいたとは驚きだ」
絹糸のような乳白色の髪がさらりとリンの頬にあたる。
スエンも流石に驚きで声が出せないようだった。
「神官の私物、しかも妃を連れ去ろうとするのは重罪だとわかっているだろう。申し開きがあれば聞いてやるが?」
「ちょ、ちょっと待て!」
「待たん」
口元を覆っていた手を外してクロウに待ったをかける。
クロウはリンを一瞥もせず切り捨てた。
きつく眉根を絞り、スエンを睨みつけている。
「落ち着けって。俺はどこにも行かない、クロウの傍にいるって約束しただろう!?」
「それと、そこの男がおまえを誘惑したのは別の話だ」
まるで聞く耳を持たない。
違うと言い切れないので反論のしようがないが、誤解だと言っても納得しないだろう。
今のクロウの勢いではそのまま断罪しそうだ。
「神官様、言葉を交わすのは初めてっすね。失礼を承知で申したいことがあります」
どうクロウを止めようかと考えあぐねいたリンが行動する前に、スエンが口を開いた。
姿勢を正し、胸に手を当て頭を下げている。神官に対して行う簡易礼だ。
「許そう」
感情の読めない冷たい瞳にひやりと肝が冷える。
もしもの場合、身を挺してでもスエンを庇う覚悟をした。
「俺は、リンに惚れてます。求婚もした」
ぎょっとした。
何を言っているのだと口を塞ぎたい。
腰を掴んでいる手に力がこもり、思わずすぐ横の顔を振り仰いだ。
クロウの眉間の皺が深くなっている。
正面から喧嘩を売られていると同じようなもの。怒るのは無理もない。
リンのように咄嗟に掴みかからない分、怒りの深さの底がわからない。
「未練たらしくこんな所までついてきて、まだ諦めきれない。リンがあんたの元にいるのが嫌だってんならいつでも奪うつもりでいる」
「何を……」
「そんなこと言ってないだろ! 邑に帰ってきたのは俺の意志だし、妃になるのだって納得した上で了承した。クロウの傍を離れるなんて毛頭ないんだからな!」
我慢ならずリンは叫んだ。
リンの人生はリオンに拾われた時からクロウのもので、リンは受け入れ、尽くそうとしていた。
魔の所為で邑を離れることとなり、従者以外の生き方を知った。
けれど、心はずっとクロウの元へ帰りたかった。義務でも使命でもなく、リン自身がクロウの隣にいたいのだ。
だから、クロウの傍を離れる提案など聞き入れるはずもない。何よりクロウに不安を植え付けたくないのだから。
「顰めっ面してたじゃねぇか」
「あれは……束縛が、強いというか……もっと気軽に出歩きたいな、って」
視線を感じて隣のクロウを見上げた。
数年前まで目線は同じ高さだったのに、首を傾けなければ視線が合わない程差ができてしまった。
「…………不満はそれだけか?」
「そうだけど」
「ふん。検討する」
「それ許す気ないじゃん」
呆れ混じりに苦笑した。
怒っていたはずなのに、モヤモヤしていた蟠りが霧散している。
一瞬見えたクロウの焦った顔を見てしまった所為だ。
息を切らして走り、リンを探し回っていたのだろう。
神官としての顔を脱ぎ捨てた素の顔を見たら怒りが薄れていった。
同時に、自分の欲望を自覚し、恥ずかしくなった。
「駄目だろう! 政務あるのに放り出して……」
「そうだな。帰って一緒に怒られるぞ。アイリが心配している」
「説教が長くなりそう……」
「わかってるなら二度とするな」
想像すれば圧がこもった笑顔で出迎えるアイリの姿が容易に浮かぶ。
クロウの文官が私室の扉に齧り付いていなければ良いなと思った。
クロウと顔を見合わせ、神殿に戻ろうと頷き合った。
だがその前に、決着をつけなければならないことがある。
「スエン。これからどうするんだ」
「んー……しばらくはこの邑にいてぇとは思ってる、が」
ちらりとクロウを見る。
外からの客人は神殿で滞在の許可を得る必要がある。
スエンはまだ神殿に踏み入れることすら出来ていないという。
神官と謁見をしなければならないわけではないが、クロウはなるべく会おうとしている。
「…………明日、神殿に来ると良い。この札を衛兵に見せれば私に登殿が伝わる」
「感謝します」
「あ、俺も同席するから」
「大人しくしてるなら許してやる」
翌日、スエンの永住許可が下り、ルオウに弟子入りが決まった。