魔の森 ー 1 ー
ーー契約だ
魔と交わした約束事を思い出した。
リンの体を使って人間を殺さないこと。
そのかわり、クロウを殺すこと。
思いつきで持ちかけた取引は、契約として縛ることで強い効力を持つ。
魔は約束通り、人間を傷つけなかった。
リンの理性を奪わなかった。
だが、代償はリンにとってあまりに大きかった。
何度も夢に見て、自分の悲鳴で目が覚める。
現実にさせない為、クロウから離れ、邑から離れ、海に身を投げた。
魔の力で守られたリンは流され、あの港町に辿り着いたのだ。
クロウから離れていれば問題ない。
殺意を増長させるようとする魔の声に耐えてさえいれば、誰にも迷惑かけることがない筈だ。
魔はリャンという迎えを寄越し、クロウへと導いた。
やはり、生身のリャンが港町に流れ着くのはどう考えてもおかしかった。
魔の力が作用していたのなら納得がいく。
リンが邑に帰る為に何が必要か、魔は知っていたのだから。
契約の記憶を消し、リャンによって郷愁を抱かせ、自ら帰るように仕向けた。
それもこれも、すべてリンにクロウを殺させる為。
リンも何の考えもなく取引を提示したわけではない。
リンが死ねば契約不履行により破棄される。
自害などもってのほか、と魔は何度も阻止した。
自分で死ねないのならば、クロウに殺してもらうしかない。
民を守るべき神官の手でかかりたいと願うのは、我が侭だろうか。
クロウは優しいから躊躇してしまうかもしれない。だが、邑の長だ。
邑を守る為に、最後にはリンを討ってくれる。
黒く染まった指の先には、長く鋭い爪が光る。
振り上げた爪は、ブンッと音を立てて空を裂いた。
咄嗟に避けたクロウの髪の先を掠め、白髪がはらりと地面に落ちる。
「ちょ……っ、おい、リン!」
リャンの声が裏返る。
普段のリンなら、絶対にクロウを攻撃しない。
何なら身を呈してでも守ろうとする。
子供の時期、自分が触れていた剣が誤ってクロウを傷つけた時から、リンはクロウへ剣を向けることを極端に恐れた。
クロウの髪の手入れさえ刃を当てることを嫌がっていた。
リンの右腕は倍の大きさに膨れ上がっており、腕だけ別の生き物のように脈打っている。
肩から徐々に浸透していく黒は右頬を染め、乱れた髪の間から除かせる鋭い眼光がクロウを見据えて鈍く光る。
「ぅ……っ、うぅう……アあぁ……っ!」
言葉にならない呻きが森に響く。
リンの声とは程遠い、低い獣の声だ。
「予想はしていたが、魔憑きになっていたとはな」
抑揚のない声は、リンへ語りかけていたのか、自分を納得させる為か。
金の瞳に怒りを宿して、じっとリンを見据えた。
やがて、ふう、と無意識に詰めていた息を吐き出す。
「クロウ様。討伐許可を」
リャンがクロウの足元に跪く。
約一年離れていた事実等ないかのように自然に側に控えていた。
「リャン!?」
リンより以前、魔憑きに染まりきった時は躊躇なく首を落とすように頼まれている。
人を傷つけることを何より恐れていた。
そんな日が来なければ良いと思っていたが、人を、しかも主を襲うのなら、一欠片の躊躇いもなく斬る。
そんな冷静な判断をしたリャンに驚いたのはスエンの方だった。
魔憑きを退治しないといけないとわかっているが、やはり躊躇ってしまう。
相手がリンだからか。
松明を強く握ったまま動けない。
「リャンか。お前も生きていたんだな」
「是。やり残したことがありますので。うかうか死んでなんていられません」
「それは重畳」
リャンは拾い上げたリンの剣をクロウに差し出す。
クロウはリンから目を離さず、剣を受けとった。
通常使用する剣より小型で、柄も合わせて一回り小さい。
だが、不思議と手に馴染んだ。
口の端にだけ微笑みを乗せる。
充分な武器と優秀な手駒があれば戦える。
味方が多い分、打てる手数も増える。
付き合いの長い腹心の部下なら尚更。
「リャン、サイリを捕らえろ。リーは、俺が相手をする」
「御意に」
ひっそりこの場を離れようとしていたサイリは、ぎくりと身を揺らし、慌てて森の奥へと逃げ込もうとする。
「く、来るな!」
持っていた剣を振り回し、リャンを威嚇する。
リャンは剣を逆手に構え、下から掬い上げるようにサイリの剣を奪う。
尚も逃れようとするサイリに足払いを駆け、転んだ隙に後ろ手を捕らえた。
もう逃げられないように背中を踏んで重しをかける。
クロウの命令から僅か数拍で片がついた。
「スエン。縄くれ」
「お、おう」
手と足を縛り、地面に転がした。
魔の力が浸透した土だが、神官の血を持つサイリなら平気だろう。
「貴様。僕にこんなことをして……」
「手拭いもくれ。口も塞ぐわ」
スエンから受けとった手拭いでサイリの口を被う。
うーうーとくぐもった声で何か言っているが無視をした。
文句か言い訳か。どっちにしろ聞いた所でため息しか出ない。
クロウが捕らえろというなら、リャンは命令に従うだけ。
クロウがわざわざ森の中まで追ってきたのだから、口を封じたいわけではないだろう。
魔の森の中で気を失わせてしまったら、いくら血持ちであろうと命が危ない。
生きて連れ帰る為、この手段しか取れないのだ。
「いいのか?」
「これぇ? 平気平気」
「そうじゃなくて、リンは……」
ちらりと視線で示す。
髪を振り乱して荒い呼吸を繰り返すリンは、先程迄の理性的な姿の見る影もない。
獣のように今にもクロウに襲いかかろうとしている。
「クロウ様が相手するって言ってんだから、任せとけばいいって」
「そんな……!」
「俺らが手を出す方が邪魔になるだろうしさ」
「…………っ」
スエンは黙って対峙している二人を見つめることしか出来なかった。
異形に歪んだ黒い右腕。
膨張した肩まで衣が裂け、隠れていた首が曝け出ている。
右腕から浸透していく黒は、首を伝って顔の右半分まで届いていた。
構える武器は右腕の先の鋭く長い爪。
一閃ですべてを切り裂いてしまいそうだ、と遠目からでもわかる。
獲物を狙うぎらついた目はクロウの隙を窺っているようだ。
一瞬、森がざわめいた。
周囲の木々が一斉に葉を揺らす。
僅かに気を逸らしたクロウに、リンの右腕が襲いかかる。
「っく、……ふんっ!」
剣で受け止め、力任せに払い除けた。
リンは空中でくるりと回って着地した。
腕だけではなく、身体能力すべてが底上げされている。
一瞬で間合いを詰めた瞬発力といい、脚力といい、以前とは比べ物にならない。
魔憑きになった者は皆一様に人間とは思えない動きをするようになった。
リンも同様に、人ではないと言えよう。
「リー。俺の声が聞こえるか」
「コロぅ……しロ……しんか、ンン……」
クロウの呼びかけに、一層の殺意を滲ませた。
カッと目を開くと、右腕を振り上げながら突進した。
人の頭を易々掴めそうな掌をぐわっと開いて、勢いを乗せてクロウの頭上に叩き落とす。
大きな動作を避けるのは容易い。
ひょいと避けると、どすんと地面を叩いた手に間髪入れず剣を突き立てた。
ーーカンッ
硬質な音がした。
剣がまったく通らない。
岩のように弾かれてしまた。
「ちっ」
クロウはリーから距離をとった。
替わりに朱炎を腕に纏わせる。
『あああああーーーー!』
リンは腕を振り回し、朱炎を払う。
炎に焼かれた腕の表面が僅かに溶けた。
苦しげな絶叫はリンのものとはかけ離れた、地底より低く、擦れた金属より高く、幾重にも重なり合った不快音。
聞くに耐えず、耳を抑えたくなる程に。
「炎はひとまず有効のようだな」
クロウは剣の柄を握り直した。
剣の刀身は長くない。
その分扱い易くはあるが、巨大な腕を持つリンと圧倒的な長さの差がある。
懐に入っていかなければ剣は届かない。
腕を逃れても身体能力が桁外れに向上している今のリンに一撃入れるのも難しい。
炎も腕を落とすつもりだったが、表面を焼いただけで仕留めるまではいかなそうだ。
効き目はあるが絶対的な切り札とまではいかない。
頑固なリンの性格そのもののようだ。
「まったく。手のかかる奴だ」