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当日、雨が降っていた。
私は迎えに来てくれると言う稗田さんを断りバスで向かった。
そんなに遠い距離ではないし、稗田さんは仕事中に来るわけだし。
でも少し雨だったから後悔した。私って…
病院に着き中に入ると総合受付の前の待ち合い席に既に稗田さんが座っていた。
私に気づいて手を挙げこちらに駆け寄ってきてくれる。
「こんにちは。雨の中来てくれてありがとう。本当に助かるよ。もう受付は済ましてあるんだ。担当医がすごく香織ちゃんに会いたがっててね、わざわざ他の医者と外来を変わってもらってるらしいんだ。ゆっくり話をしたいみたい。」
「わかりました。緊張します。何をお話ししたらいいのかわからないですし…田邉さんはもう先生のところでしょうか?」
手汗がすごい。
でも稗田さんの穏やかな笑顔を見ると少し落ち着く。
「田邉は今日は来ないよ。香織ちゃんが怖いだろうし、先生と話してますます怖くなるかもしれないしね。怖いことはしないし、途中でやめてもいいから安心してね。」
それから特別室のようなところへ通された。
脳外科担当の山田先生と精神科担当の岩崎先生がいらっしゃった。
挨拶を終え、まず私について名前や生年月日、出身、家族構成など質問された。
それから少し踏み込んだ話も聞かれた。婦人科の病気とかも。
田邉さんとの接点もあった可能性があることなども話をした。
ただ14年前、私は転職していないことになっている。
「正直に申し上げて彼が嘘をついているようには考えられないんです。精神科の視点からみても異常はない。それも脳派の検査からも間違いないと思ってます。そして話をしていた香織さんが実在したことで益々困惑しております。彼から聞いたことはほぼ合っています。」
ごくっと生唾を飲み込んでしまう。
稗田さんが私の背中をさすり、「大丈夫?」
と心配そうに私の顔を覗き込む。
私は頷く。
稗田さんの暖かい体温を感じ、不思議と恐怖心が和らいだ。
「あの、もし頭の異常ではなくある日突然記憶が変わってしまうことはありますか?私のことを驚くほど知ってるんです。」
私は先生たちを交互にみて質問をする。
「精神科からは思い込みが考えられます。ですが会ったことがない方のことを驚くほど詳細に知っている点からするとなぜその情報を持っているかはわかりかねます。知らないうちにストーカー化してしまって無意識に情報を集めていることも考えられますがそれには時間も労力も必要です。しかも14年間も…今現在の香織さんと彼の中の香織さんに少しのズレもあります。あなたが結婚されたことや出産されたことなどの情報はありませんし。そこで同僚の稗田さんの話も参考にさせていただいてなぜこの時点で思い込むか、本当にあなたを知っていたのかなど疑問点が多くあります。」
ストーカー?でもあんなに大きい人が近くをうろついていたら気づきそうなのに。
「脳というのは時に想像以上のことをやってのけることがあります。少しの刺激で記憶を操作してしまったり。今までの症例で似たような事がないか調べてみたら南アメリカで一例似たようなものがありました。」
15年前、25才の男性が朝起きると3年前まで住んでいた部屋に寝ていた。夢かと思ったが過去ではなさそうで少し違うけど家具や配置なども同じで自分の部屋だと確信した。その日出勤しなかったことを心配して同僚から電話をもらっておかしいと気づく。
3年前に退職したはずの仕事を続けていた。
彼の記憶では3年前に恋人を不慮の事故で亡くし受け入れられずに故郷の実家に帰り家の農業を手伝いながら療養していたとのこと。
後に両親に聞くもそういった事実はない。
そこで恋人は亡くなっているのか疑問に思い当時の職場を訪ねる。ところが彼女は生きており働いていた。
嬉しさのあまり抱きつきキスをしたことにより警察を呼ばれその場で身柄を拘束された。
その彼女とはもう2年半も前に別れており彼女には新しい彼がいた。本人にも結婚を視野に入れお付き合いをしている女性がいたがその女性の記憶は一切なかった。
特に不満もなく、彼女と別れたことを引きずっているようでもなかったと周りの人たちは言ってたそうだ。
やはり検査をしても異常はなく精神異常ではないかと言われていたそうだ。
彼の場合は3年だけど全く違う人生を送っており、あまりにも詳細で疑問点が多かった。
だが、彼がどうしても被害者の彼女に会って伝えたい事があるといい弁護士立ち会いの元愛の告白と感謝を伝えた。
それから間もなくして彼は3日間ほど眠ったまま意識が戻らない状態に陥った。身体的には異常はなく眠っているのと同じ状態だったという。
意識が戻った彼は元の彼の記憶に戻っており、記憶のおかしかった3か月間のことは覚えておらず、またその3か月間に関しては違った記憶があり悲しい思い出だと誰にも話そうとはしなかったという。
その人は戻ったんだ。
その間の記憶はなかった?悲しい?夢かな?
じゃあ田邉さんも戻れるかな?
そしたら今の記憶ってなくなるかもしれないのか…
1時間半ほど先生たちと話をして部屋を出た。
恐ろしいほどに田邉さんは私のことを知っており、でも中には全く違う事もある。
考えながら歩いて病院を出ようとすると、
「香織ちゃんお腹すかない?ちょうどお昼だし食べて帰ろう。」
時計を見ると12時半すぎている。
「そうですね。ここらへん何かお店ありますかね?」
「この病院にオーガニックの食材を使って低カロリーに抑えたヘルシーランチのお店があるんだ。この前田邉と行ってみたらおいしかったけどそこはどう?。」
病院の中にもランチを食べるお店があるなんてびっくり!
稗田さんのオススメならきっと美味しいだろうと思ってそのお店に来てみた。
内装がすごくおしゃれだ。
それにまたびっくり!もうこれは病院ではない気がする。
メニューはヘルシーメニューと言うだけあってカロリーやタンパク質など一つ一つに表記されている。
しかもお肉が大豆だ。
生活習慣病と言われる慢性疾患を患った人たちでも美味しい物は食べたい。
そんな希望に応えられる物が沢山ある。
さすが病院!
「すごい!本当にヘルシーメニューですね。だけどスッゴく美味しそうですし、食べ応えもありそう!」
私が興奮気味に言うと、稗田さん笑ってる。
「でしょ。フフッ面白いね香織ちゃん。良かった。先生たちと話した後怖がってご飯も一緒に食べれないかと思ってた。何か良いのあった?」
そっか、私怖がってたし気を遣ってもらってたんだ。
今は不思議と怖くないしどうなってるのかが気になる。
外国の男性の話も…
「私この大豆ミンチの三色丼にします。稗田さんは決まりました?」
「俺は豆腐の揚げない唐揚げ定食にするよ!」
豆腐!?それも惹かれる!
「豆腐も鶏肉っぽいって言いますもんね!すごい!!テンション上がりますね!」
稗田さんが心配してくれてるから少しオーバーに明るくしてみた。
そんな私を見て結構爆笑に近い感じで笑ってる?
「そ、そんなに笑わないで下さいよ。おかしな事いいましたかね?」
「ごめん、ご、プッ。ンフフフッ。香織ちゃん可愛いよね。最高。」
何にツボッたのかわからないけどとりあえず笑っている稗田さんを無視して注文した。
「うん、本当に良かった。もう香織ちゃんは俺たちに関わりたくないって言うと思ってたからご飯一緒に来てくれたこともこんなに喜んでくれたことも嬉しいよ。」
まぁ、正直ドン引きレベルで私のことを知っている田邉さんにどういう顔で会ったらいいかとかわからないけど…
でも田邉さんに嫌悪感をどうしても感じないし、本当にもしかするとどこか遠くにもう一人私がいるのかも?
かなり有り得ないけどそう思わさせられる。
「私って危機感ないっておっしゃるでしょ?確かに今回のことは危機感がないと自覚してます。旦那も子供だっているから私に危険が及ぶことは避けなければ家族に迷惑がかかるし。でも田邉さんに対して本当に危険な感じがしないんです。あっ、もちろん稗田さんも!」
「フフッ。今付け足したね。香織ちゃん見てたら心配になるよ。こんなにホイホイついてくるから。いつかだまされてしまうんじゃないかと思うよ。でも今回のことは助かってる。ありがとう。」
危なっかしいんだ。
そんな話をしてたら料理が運ばれてきた。
メニュー写真で見るよりも結構ボリューミーで食べ応えありそう!
「うわぁ。この量すごい。しかもこんだけ食べて低カロリーでしたよ!」
「すごいよね~。この前はカレーを食べたけど根菜類がゴロゴロ入ってておいしかったよ。」
それから私を気遣ってくれているのか田邉さんの話はせず料理の話をしながら2人とも完食した。
稗田さんはまるっきり料理をしないからこそ色んなお店で食べるのが好きなんだとか。
私は一応主婦だからレシピサイトを見ながらだけど一通り作るって話をしたら是非食べたいって…
私は丁重にお断りをした。
こんなに舌の肥えた人に食べさせられる料理は作れない!
病院を出ると雨はやんでいた。
稗田さんは送ってくれると申し出てくれたけど断った。
バスでかえりながら頭を少し整理したかったから。
帰り着いたときにタイミング良く田邉さんから電話があった。
内容は稗田さんに聞いたみたいでお礼の電話だった。
それからは2日おきくらいに田邉さんからは電話がある。
きっと遠慮してからの2日おきなんだろう。
なんだか少し田邉さんが可愛くさえ思えてきた。
『里菜ちゃんって俺の記憶の中で先輩の奥さんなんだけど、香織と働いてたヨガスタジオに問い合わせてみたら居なかったんだ。近くのヨガスタジオもいろいろ当たってみたけど里菜って名前のインストラクターはいないらしいんだよな…香織の時もだったけど冷たくあしらわれて何にも教えてくれない。』
田邉さんはそう言ってがっかりしていた。
最近では個人情報保護で職員の情報や他のスタジオにそれらしい人がいたとしてもきっと教えてはくれないだろうなぁ。
「きっとどこかで会えるのかも。私も田邉さんと偶然会いましたし。しかも会うなら稗田さんとどこかで会うのかもしれないよ!?」
そんなこと確率的には低いとはわかってるけど励まさずにはいられなかった。