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私はただひたすらいつもの毎日を過ごした。

有希からも何度か連絡はあったけど会うことは拒否した。

もう疲れたから…誰にも会いたくなかった。

娘の笑顔だけが唯一の支えだった。

不思議と旦那とは普通に接することはできたし笑顔で会話する事もあった。

体だけはあれから一度も求められなかった。


気がつけば10月に突入していた。

まだまだ日中は暑いけど少しずつ涼しくなっていっていた。

娘を学校へ送り出したあとベランダで洗濯物を干しながら手を止め空を眺めていた。

真っ青な空に真っ白な雲が浮かんでいた。

よくあの雲は何に見えるかって3人で話したことを思い出す。

そんな事を考えていたら涙がこぼれ落ちる。

最近はふと昔の事を思い出し涙が溢れる事が多くなった。

泣きたいわけではないのになぁ。


家の中でスマホがなっている。

いつもは気づかないふりをするのに呼ばれた気がして家の中に入りスマホを探す。

見つけた時にはもう切れており着信を知らせるランプが光っていた。

稗田さんからだ。

稗田さんからの連絡はほとんどがメールで電話はあまりない。


私は折り返しの電話をするために画面をタップしていた。

誰とも話したくなかったのに稗田さんの声が聞きたかった。


『はい。稗田です。電話ありがとう。』


穏やかな稗田さんの声が聞こえてまた涙がでる。


「おはようございます。どうされたんですか?」


泣いていることを気づかれないように落ち着いて話す。


『元気かな?実は昨晩お友達の神田さんに偶然お会いしてね、香織ちゃん元気か尋ねてみたらあまり連絡が取れないって心配してたよ。田邉も同じようなこと言ってたから。何かあった?』


「稗田さんお忙しいのに私なんかのことまで気にかけて下さってありがとうございます。う~ん、現実逃避とかとはまた違ってただ何もかも投げ出さないように生きることに集中してました。ハハッ。」


冗談っぽく、重たくならないように言ってみた。


『私なんかってひどいなぁ~、俺は香織ちゃんが気になってたまらないけどなぁ。でもしつこいと嫌われるから香織ちゃんからのお誘い待ってたのに。』


稗田さんも冗談っぽく返してくれる。

本当に優しくて面倒見のいい人なんだろうな。


『香織ちゃん今日はどう?少しだけ投げ出して俺とデートしようよ!田邉や神田さんにも内緒でねっ。俺だけって言うとやきもち焼かれそうだから。』


「フフッじゃあ少しだけ。お言葉に甘えちゃおうかな。稗田さんが忙しいのを無理してとかじゃなければ!?」


なんだか久しぶりに私の心に色がついたような気分だ。

最近こんな風に明るく話をする事なかったな。


『前も言ったけど昼間は暇人だから大丈夫!夜にもりもり働くから!その代わり昼は美味しいもの食べて楽しく過ごして充電させてもらうよ。』


「本当に稗田さんって優しくて面白いですね。ありがとうございます。すぐ準備しますね。」


何にツボったのか稗田さんは電話の向こうで笑ってた。


『じゃあ前迎えに行った交差点の所で待ってる。ゆっくり来てね。』


電話を切って思ったけどもしかしてもう待ってるわけじゃないよね?

どう考えても私の方が先に着きそうなのに!?

とりあえず急いで準備をした。

久しぶりにきちんとお化粧して、服もピンクベージュのスカートを選んだ。

本当にデート気分だ。


約束の交差点に着くと稗田さんの車がもう停まっていた。

駆け寄って窓を覗くとパソコンを開いて仕事をしているっぽい。

やっぱり忙しいんじゃない!

そう思いながら見ているとこちらに気づいて顔を上げた。


「見てないで乗ってくればいいのに。」

そう言ってパソコンを閉じて後部座席の足元にあるカバンに直した。


「いえいえ、稗田さんこそやっぱりお忙しいんでしょ!?」


冗談っぽく睨みながら車に乗りこんだ。


「あれ?香織ちゃんだいぶ痩せたんじゃない!?」


そんなに言われるほどかな?

毎日見てるからそんなに変わったつもりはなかった。

体重計も乗ってなかったし…


「そんなにですか?私ヨガを始めたんですよ!」


おどけてポーズをとる真似をしてみせた。


「本当にそれだけ?ちゃんと食べて寝てるの?」


きっと稗田さんに冗談を言ってかわしてもバレバレなんだろうな…


「へへっ実はそんなに…しかもすぐ吐いちゃうんですよね…意地でも食べたものは蓄えてたのに!」


「そっかぁ、あんまり食べれない?まだ10時だし少し遠出して海の方まで行った所にオススメのお店があるんだ。魚が美味しいよ。どう?」


少し困ったように笑っていた。


「海の方までなんて行かなくてもこの前の定食屋さんで私は充分嬉しいですよ!」


「えぇ~、デートって言ったじゃん…香織ちゃんせっかくかわいいスカートはいてるし。俺とじゃ嫌かな?」


わざとしかめっ面で聞いてくる。

思わず笑ってしまう。


「フフッかわいいって…忙しいでしょ?」


「忙しくないよ。本当に。たまにパソコン触るのだけ許してね。じゃあ出発!!」


「もっと若くてかわいい子とデートしたらいいのに!」


冗談を言いつつ車は海へ向かって走っている。

どうしても田邉さんと夏川さんについて気になっていたので聞いてみた。


「あの、田邉さんと夏川さんですけど、今どうされてます?」


稗田さんの顔が急に真面目になる…


「香織ちゃんも居たんだってね…びっくりしたでしょ?俺はもう長い付き合いだしそれが自然だと思ってるけど同性カップルって普通は驚くよね。」


私は首を横に振る。


「そんな事ないです。驚かなかったと言えば嘘になるけど、それよりも罪悪感とか夏川さんの気持ちを考えたら申し訳なくて…」


「えっ?何で香織ちゃんが申し訳ないの?」


本当にわからないと言う顔で聞き返される。


「まずあの日、田邉さんと二人きりで家にいて、ご飯作ってただけというか、ちょっとありましたけどそんな所に夏川さん来て、一生懸命楽しませてくれたんですよ。しかも田邉さん私のこと好きって言うし…夏川さんのこと忘れてるし…」


「でも、忘れたのも香織ちゃんを好きと言い出したのも田邉だよ?夏川から田邉を奪ったわけではないでしょ?あと聞き捨てならないけどちょっと何があったの?」


あっ、気まずいところを突っ込まれた…

言っていいのかな?田邉さん怒るかな?


「え~と、キ、キ、キ、」


「キ?キス?」


鋭い!ご名答!!


「はい…まぁ私が危機感なく家に上がり込んでしまったから…」


顔が上げられず俯いたまま答える。


「危機感ないのは自覚あるんだ?確かに香織ちゃんの安全の為に田邉の家にはひとりで行くべきじやなかったね。呼んでくれたら良かったのに。」


確かに…呼べばいいのはわかっていたけど…

何だかんだって忙しそうだし…

少しいじけて窓の外を観ると遠くで海がちらちら見える


「でももう恋人がいるってわかったので気軽に行ったりしません。夏川さんの気持ちを考えると…」


また気分が少し落ちてしまう。


「夏川と田邉は同じなんだよ。ある日突然愛する人から忘れられちゃったんだ。本当に田邉においては意味がわからないけどね…。夏川はたまたま海外に行っててね俺が電話で話をしたんだ。かなりショックを受けてたよ。」


「そうですよね…」


車はどんどん海に近づいて行っている。

晴れていて水面がキラキラして見え始めた。


「それから顔を合わせないように海外に滞在させてた。まさかこんなに長くこの状況が続くと思ってなかったからね。きっと頭でも打ったんだって思ったし。それから香織ちゃんに会ってからは田邉が仕事の電話の時でも夏川に香織ちゃんの話をしていたよ。ちょうどこの前香織ちゃんとご飯行った直後ボロボロになった夏川から電話があってね、仕事もやめて海外を放浪するって言い出したんだ…慌てて夏川のところに飛んだよ。」


田邉さんは夏川さんが長く海外から戻らなかったこと可笑しいって言ってたもんな。

稗田さんはうっすら笑顔で話をしているけどきっと大変だったに違いない。

夏川さんボロボロになってたんだ…だから稗田さん海外へ突然行ったんだ。

初めて会った日は夏川さん、田邉さんと普通に話していたから、頑張ってたんだ…


「あの二人は何とか折り合いをつけながらやってるよ。田邉に記憶が無いんだから仕方ないし、田邉も出来るだけそばにいるようにしてるみたいだよ。香織ちゃんの旦那さんの話を聞いたばかりで急にいなくなってごめんね。味方だからって、いなきゃ何もしてあげられないのに…」


「えっ?そんなの全然、気にしないで下さい。夏川さんのほうがつらいだろうし…」


ちらっと稗田さんの横顔を盗み見る。

困ったように笑っていた。

若い子とはまた違って落ち着いてて笑うと目尻によるシワが素敵でかっこいい。


「はぁ、香織ちゃんは我慢強いのか、自分の感情に鈍感なのか…見るからにやつれちゃってるのに気にしないなんてできないよ。もっと早く連絡するべきだったね…」


「ハハッ、やつれちゃいましたかぁ。痩せたって言われて嬉しかったのに。」


わざと頬を膨らましていじけてみせた。

そうでもしないと声をあげて泣いてしまいそうだったから…


「さぁ、着いたよ!だから今日は美味しいものを沢山食べて。海を見ながら食べれるよ。天気が良いからテンション上がるでしょ。」


こちらを見て優しく微笑む稗田さんを見て胸が高鳴る。

本当に素敵な人だ。

この人の恋人になる人は幸せだろうなぁ。


「香織ちゃん?さぁ、入ろう。」


つい見つめすぎてしまった…

稗田さんはさらっと私の手を取り手を引いて中に入って行く。

いきなりのことでびっくりして何も言えず照れてるのを隠すために俯いて歩いた。


中に入ると海沿いが一面ガラス張りで見渡せるようになっていた。

店員さんに案内されて行くと海に向かってカウンター席のようになっていて稗田さんと並んで座った。

肩が今にも触れそうなこの距離に緊張する。


「フフッ照れてる香織ちゃんも可愛いよ。」


きっと私が照れるのが面白くてからかわれてるんだ!

どう反応していいかわからずに海を眺める。


「う、海を見ながら食べるなんて初めてです。」


稗田さんはこんなオシャレなお店を沢山知ってそう。

旦那だってあの子とオシャレなお店に行ってたって言ってたなぁ。


「オススメのランチコースを頼んでるんだけどいいかな?魚介類は何でも食べれる?」


もしかして予約してくれてたのかな?

まだ店員さん何も聞きに来てないのに。


「私は何でも食べられます。頼んでいてくれたんですね。」


「この席に座って食べたかったからね~!平日でも結構埋まるんだよ。今の時間は少し早いから少ないけどすぐに多くなるよ。」


確かにこんなに素敵なお店なら人気がありそう。

話をしていると程よいタイミングで料理が順に運ばれてくる。

鯛のカルパッチョ、スズキのムニエル、エビのクリームスープ等々、オシャレすぎて名前の覚えきれないものが少しずつ何種類もあった。


「ついつい一品ずつが少量だからパクパク食べちゃいますね!でももう入らないくらいお腹パンパンです。」


食後のコーヒーを飲みながらのんびり海を眺める。

いつの間にか肩が触れるくらいの距離にもなれて目が合うと顔の距離も近いのに気にせずしゃべり続けてしまっていた。


気がつくと稗田さんの言った通り、周りにお客さんが増えていてほとんど海沿いの席は満席状態だった。


「そろそろ出ようか?このまま砂浜に下りられるよ!行ってみない?」


砂浜を歩くなんて何年ぶりだろう?

久しぶりに自分がはしゃいでるのがわかる。


「はい。砂浜に下りたら気持ち良さそう。」


二人で立ち上がるとまたさらっと手を繋ぎ歩き出す。

そのままお店の外に出るから思わず立ち止まる。


「えっ?お金は?」


「フフッ心配しなくても払ってあるから大丈夫だよ。」


えっ?いつ?

私がお手洗いに行ったときかな?

いやいや、テレビや本の中だけの話だと思ってた。


「ハハハッ、香織ちゃん思ってることが顔に出てるよ。少しはかっこつけられたかな?」


おどけて笑ってみせるから私も笑っちゃう。


「フフッ稗田さんはいつでもかっこいいですよ!フフフッ」


手を繋いだまま砂浜へ下りる。


「歩きにくいでしょ。ちゃんと捕まっててね。」


そう言って手を離し腕を差し出される。

今日だけだからいいよね!?

自分に言い訳をし、稗田さんの腕に自分の腕を通す。


「稗田さんってさらっとなんでもするからついほだされちゃう。今までこんな風に女の子をたぶらかしてきたんですね!」


「たぶらかすなんて失礼な!そりゃお付き合いしてる女の子や狙っている女の子には全力でカッコつけるよ。」


稗田さんはそう言ってニィって笑う。

それを見てつい声を出して笑ってしまう。


「そうやって何人を虜にしてきたのか…すごいモテたでしょ?」


「う~ん、それなりに好意をよせてくれる子はいたけど皆を好きになれる訳じゃないし、自分が好きになった人に好意を持ってもらえなかったら意味がないからね。」


若い頃もチャラチャラしてたわけじゃないんだ!


「否定しないところが嫌味ですよね。フフッ」


砂浜を年甲斐もなく冗談を言いつつ笑い合って歩いた。


「靴の中砂だらけになったね。そろそろ車に戻ろう。」


「そうですね。靴の中最悪ですよ。フフッ。」


何を話しても楽しくてたまらなかった。

車に戻るとシートに座って二人で靴の中の砂を払った。

そこでもどちらの靴の中に多く砂が入っていたかで盛りあがるほどはしゃいでた。


車が出発し来た道を戻っていると少し寂しくなった…

はぁ、帰るとまたいつもの日常かぁ。

そう考えると心にぽっかり穴が空いたような気分になる。

楽しかったなぁ…

涙がこみ上げてくるから気づかれないように窓の外をひたすら眺めた。


「急におとなしくなったね。帰るのが寂しい?」


「うん、寂しい。」


つい正直に言ってしまった…


「どこからが浮気ですかね?私たちって別に付き合ってるわけではないし、ただ同じ時間を楽しく過ごしただけで何をしたわけでもないでしょう?と言うか稗田さんはやつれちゃった私を楽しませてくれただけですけど…あっ、手は繋いだけどそれだけでまたそれぞれの日常に帰って行く。これは私にとっては結構大きな出来事で…」


「そうだね。香織ちゃんが今日のことをどう捉えるかで違ってくるんじゃない?本当に俺が香織ちゃんを励ますために連れ出して今日は励まされたなぁって思うなら神田さんと出かけるのと同じで、もし香織ちゃんも今日のことをデートだと思うならそれは浮気かもね。デートはあくまでも好意を持った相手とするものだと思うから。」


知らず知らずのうちに涙が流れていた。

稗田さんは真っ直ぐ前を見て運転しながら左手で私の右頬の涙を拭う。


「じゃあ私の独断で浮気にさせてもらいます。旦那はもっとすごいことしてたからしゃくだけど…さすがに稗田さんとそんなことする訳にはいかないので。」


少しだけ冗談っぽく、稗田さんにとって重たくならないように言った。

でも涙は正直で、次から次に流れ出てくる。


「フフッしゃくって、香織ちゃん本当に面白いね。俺は歓迎だけど、そんなことするの。香織ちゃんを抱けるなら旦那さんへの当てつけでも構わないよ。」


旦那への当てつけ?

きっと前はそうだったかもしれない。

当てつけで浮気してやるって思ってたから。

でも今日は違う。純粋に稗田さんとデートしたんだ。

好きだから?よくわからないけど、でも…

まだ一緒にいたい…


「もしそんなことをするとして、旦那への当てつけではないです…好きかわからないけど、けど、楽しかったしデートって思いたいから…稗田さんともっといたいです。」


口から心臓が飛び出しそうだ。

こんな大胆なことを旦那以外の男性に言うなんて…


「香織ちゃんまだ時間大丈夫?」


「え?時間…4時までに帰っていれば…」


「じゃあ俺の家に行こうか。」


そう言ってスピードをあげて車を走らせた。

それから稗田さんの家に着くまで一言も話さなかった。

きっと稗田さんのマンションなんだろう駐車場に車を停めてため息をつかれた。


「本当に君って人の気も知らずに…」


いつもと違う少し熱を持った目でこちらを見る。

車から降りて助手席側に回ってくるとドアを開けてくれ、手を差し出される。


「さぁ、おいで。」


私は頷いて手を取った。

今からする事を思うと緊張のあまり声が出ない…


手を引かれ稗田さんの部屋まで行き、ドアを開けて中に入る…

心臓が有り得ない速さで打っている。

リビングに入り、広いなぁとか意外と服などがソファにかけっぱなしなってるなとかやっぱり小物が多いんだなとか思っていたら稗田さんから抱きしめられた。


旦那とも田邉さんともまた違うけど肩幅は思ったより広くてがっしりしていた。

そしてキスされる。何度も…

そのうち稗田さんが私の唇を舐め、次第にキスは深くなっていく。

何故だろう涙が出て止まらない。


稗田さんの右手が私の背をなでる。

心臓がよりいっそう速くなる気がする。

そして稗田さんが左手で私の頬を撫でたとき…

不意に唇が離された。


一瞬驚いた顔をしたけどすぐに困ったように笑う。

そして両手で私の頬を包んでおでこをこつっと当てられる。


「はぁ、本当に君ってヤツは…罪深い人だ。」


「えっ?私変ですか?」


よく意味がわからない。

そんなに男性経験ないから変なことしちゃったかな?


「次こそは本当に逃がさないからね。部屋に入った時点で逃がすつもりなかったのに…はぁ…」


「なんで?なんで逃がすの?逃がさないでよ…」


思わず縋るように大胆なことを言ってしまった…


「泣いてる子を押し倒す趣味はないよ。」


そう言ってチュッとキスして稗田さんは私から離れた。


「座って待ってて、水しかないけど持ってくるよ。」


そう言って背をむけキッチンのほうに歩いていくから慌てて背中に抱きついた。

若い子がするなら可愛いけど私がすると惨めに縋るようでまた涙が出た。


「こらこら、俺にも理性の限界っていうものがあるからね、離して。」


もう恥ずかしすぎてどんな顔をすればいいかわからずその場から逃げ出した。


「帰ります。今日はありがとうございました。」

そう言いながら急いで玄関へ急いだ。

でも稗田さんに腕を強く掴まれ、引き止められる。


「送って行くから。落ち着いて、ね?」


優しく言ってくれるけど私は首をふる。

振り返れない…


「ひとりで帰れます。」


そう言うとグイッと腕を引かれ強く抱きしめられる。


「ダメだよ。送って行くから。落ち着いて。このまま帰ったら次がなくなってしまう。」


次?次があるの?

いや、不誠実だ。そんなの…

私は首を横に振るけど力強く抱きしめられるだけで離してくれなかった…


「今までのままでいいんだ。楽しく食事をする仲で。ね、お願い。手を出しちゃってごめん、これじゃ田邉を責められないな…」


首を横に振る。

だって私が望んだのに…稗田さんはただそれに応えてくれただけ。


しばらくそのままでいたけど私が落ち着いたとわかってゆっくり体を離した。


それからまた手を繋いで車へ行くと待ち合わせした交差点まで送ってくれた。


「本当に今日は楽しかったよ。全てを嫌な思い出に塗り替えずに楽しかったことだけ覚えててね。」


「ありがとうございました。楽しかったです。」


無理に笑ってみせる。

手をふると車は走り出して行ってしまった。


それから家に帰ると今までの事を思い出し恥ずかしく惨めで声をあげて泣いた。


稗田さんのぬくもりや匂い、手の大きさがまだはっきりと思い出せる。

いつからだったんだろう稗田さんに惹かれていたんだ。

じゃあ、旦那のことは?

いつから好きではなくなったんだろう?

嫌いではないから離婚しないようにお互い努力したんだ。

でもきっと好きの形が変わってしまってたんだ。


今日稗田さんに会って恋人のように過ごしたことでこの家にも色が戻ったような感じがした。

きっと傷ついて疲れた心を癒やして貰ったんだ。

拒絶されたのかよくわからないし、そのことで傷つきはしたけどでも根本は癒されたんだ。


その時、メールが届いた。

『もう泣いてない?もうすぐ娘さん帰ってくるでしょう?きっとびっくりするから今はもう泣かないで。また明日電話するね。』


そのメールを見てまた泣きたくなる。

でも娘の前で泣くわけにはいかない。

『今は泣くのをやめます(笑)ありがとう。』と返信をして顔を洗い、ラフな格好に着替えた。


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