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二人が出て行ってしまうと、修一はしばらくぼうっと天井を見つめていた。
やがて、溜め息一つ、のろのろと立ち上がり、ドアの鍵を確認した。
父母はここに帰ってくることなど、ほとんどない。修一は大抵、ここで一人で暮らしている。
「『ると』。おい、『ると』?」
修一はふと我に返ったように部屋の中を見回した。ダイニング・ルームのあちらこちらを探し回り、寝室を覗き込んで目当ての相手を見つける。シーツにもこっと膨れた塊に、にこりと笑ってベッドに近寄る。
「なあんだ、こんなとこにいたのか、『ると』」
膨らみをシーツの上から押さえ、覗き込み、続いてシーツを剥がす。ぱっちりしたガラスの金目が見上げてくる。
「ミルク、いらないか?」
抱き上げたのは、ちょうど子猫ぐらいの大きさの青灰色の猫のぬいぐるみだ。ふさっとしたなめらかな毛並みと、ちょっと取り澄ました顔がお気に入りだ。
「高野さんがミルク買ってきてくれたからさ」
修一はキッチンに戻ると、皿を一枚取り出して床に置き、ミルクを注いだ。残りはコンロに載せたミルク・パンに入れる。ミルクが温まるまで、と床にしゃがみ込んで、『ると』を皿に近寄せてやる。
「ほら、飲まないのか、『ると』。僕一人じゃ飲み切れないもの」
『ると』は相変わらず、つぶらなガラス玉の瞳で修一を見上げているだけだ。
「飲むわけないよね。お前には口がない!」
芝居がかった口調で言い放ち、修一はくすくす笑った。
ミルク・パンを覗き込み、十分温まっているのを確かめ、コップに注ぐ。残ったのはミルク・パンに放っておいてーーどうせ、高野でも片付けるだろうーー『ると』を抱き上げ、片手にコップを持って居間に戻る。
「ちょっと寒いな。エアコン強くして、ここで寝ようか」
テーブルにコップを置き、ソファに『ると』を座らせて、修一はエアコンのリモコンを弄った。思い出してDVDデッキの前にしゃがむ。
「そうだ、今日の録画、明日の2時からだっけ、予約しとかなきゃ」
セットすると『ると』を振り返り、
「知ってるだろ、僕、自分が出た奴はきちんと見ておいてるんだ。演技の勉強になるっておとうさんも言ってたし、垣さんにどこが悪かったか、言ってあげられるしね」
ことばが途切れた後の沈黙がふいに重みを増した。
修一はDVDデッキから離れて、ソファに埋まり込み、『ると』を片腕に抱きかかえたまま、ミルクのコップを引き寄せた。
(独り言の癖がついちゃったな)
「『ると』」
こくり、とミルクを呑み込む。
返事は無論、ない。
低い声で訴える。
「眠くないよ」
瞬きをする。少し閉じてみる。けれども、眠気は起こってこない、むしろ。
「明日も仕事があるって言うのに……変だね、『ると』」
意味することの真実を意識しないために、修一は話し続ける。
「この頃、よくこんな感じになるんだ」
何となくさ。
「何となく、世界中から置き去りにされたみたいな、気分に」
口に出した瞬間、ことばは深みを失い、軽々と空気に混じって消えていってしまう。
(本当は)
修一はコップに唇をつけたまま、じっと前方を見据える。
(本当は、知っている)
声に出せないことば、形にならない想い。
(世界が置き去ったんじゃない)
きっと始めから、世界に僕の居場所なんて、なかったんだ。
それは口に出さずに、修一はコップをテーブルに置いた。半分以上残っていたが、温もりを失っていくそれは、単にぬるりとした生臭い液体でしかない。
『ると』を深く抱え込んで、ソファに縮こまる。
時計が2時にかかろうとする頃、修一はようやく眠り込んだ。