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「カーット!!」
カチンコが鳴り響いた。
息を詰めて見守っていた周囲が一気に歓声とどよめきを上げる。
「うわ何なの、あれすげえ!」「ホンと全く違うじゃん!」「なのに何でホンまんまって気になんだ?」「あの最後の顔、ぞくっとこねえ?」「いや来たオレやばいって思ったそっち方向行けんのって」
まさか、やり直しとかないよね?
そんな勿体無いことしないよね?
周囲の物言いたげな視線をぐるりと見渡して、監督がゆっくり立ち上がる。これみよがしに持っていたメガホンを、
「てめえら、終わりだ!」
でえいい、と空中に投げ上げて、わああっと再び周囲が湧いた。伊勢のパフォーマンスなのだ、これ以上は俺が命じてもできねえよという白旗降参の評価。
沸き立つ中で、垣はぼうっとしながら周囲を見回していた。
(何だ、これ)
歓声の渦。興奮のるつぼ。開放感に溢れたとんでもないエネルギー。
(すげえ)
修一に追い詰められて、頭が真っ白になっていた。どうにか『滝』をやらなくてはならなかったから、こっちが振ったささやかなアドリブを返されるともう一杯一杯で、それでも真っ白な頭の中に滲み出してくる影のような気配に向かって突っ走っていた。
見えてきたのは、ぼさっと立つ1人の男。
何だこれ? 尋ねた瞬間、答えがわかる。
滝だ。
滝志郎だ。
思っていたよりうんと上背がある。思っていたより落ち着いていて、思っていたよりも静かで……いや、変わり始めた。
瞬きする間に、相手がこちらへ向かって走り出しながら変化していく。動きが軽い。表情が、その、何と言うか明らかだ。明るくて、陽射しを浴びてて、今にも笑い出しそうな、特大の蛍光灯が駆け寄ってくるような眩さ。
(ぶつか!)
垣に突っ込んでぶつかった、と次の瞬間擦り抜けて、耳元に、任せた、と声が響き渡った。とっさに閉じた目を見開いて、前方に見つけたのは、所在なげに立ちすくむ朝倉周一郎、いや、友樹修一。
(泣きそうじゃんか)
精一杯笑ってるのがわかる。満面の笑顔、けれど拳が痛いほど握りしめられていて、ああ、そうだよな、お前はいつもそうやって『友樹修一』を頑張ってこなしてきたよな。
だから、今ここでは解き放ってやろう、その『役柄』から。
『親の七光りで売れっ子の見目形のいい二世役者』から。
(よっしゃ)
滝は演じられなくとも、役者としての能力がなくても、垣は今修一のことがよくわかってるから、やってやればいいこともわかってる。近寄って、声をかける、昔からの友人みたいに一気に距離を詰めて、防波堤など吹っ飛ばす。
『もういいや、とにかく部屋よこせ、何か食わせろ!』
小さな頭を抱え込んだ瞬間、何もかもがぴたりと嵌まったとわかった。
これは滝じゃない。
いや、脚本に描かれた滝志郎じゃない。
けれど、修一が演じる周一郎も、脚本に描かれた周一郎じゃなかったから、これが一番正しいんだ。外して回り巡って、一番相応しい位置に辿り着いた。
(これが、俺達の『月下魔術師』)
「っっっ!」
どよめく歓声に我に返る。沸き立つ興奮に巻き込まれ、走り寄って近寄ってくる周囲に肩やら腰やら背中やら、むちゃくちゃに叩かれ殴られ笑いかけられる。
その人波の彼方に、2人、人影が見えた。
1人の男は知っている。さっき出逢った男、嬉しそうに笑いながらこちらに手を振っている。もう1人はその男に背中を向けて、半身捻るようにした横顔を見せている。まだ少年でスーツ姿、濃いサングラスの下から流してくる瞳は際立って鮮やかだ。
辿り着いて、手放した。
手放して、見つけ出した。
原作に描かれた滝志郎と朝倉周一郎ではなくて、垣と修一の『猫たちの時間』。
2人は垣が認めたのに気づいたのだろう、周一郎が促し滝が頷き、ゆっくりと踵を返して去っていく。
きっともう二度と会うことはないだろう。
人が、新しい段階に一つ登った時に見える、過去の姿の幻。
懐かしく優しく、二度と戻れないどこかいびつで不十分な自分の姿。
(あばよ)
垣は微笑んだ。
(そうか、こうやって)
人は成長し、新しい世界へ歩み出す。
「……終ったな」
「うん」
すぐ隣で声が応じて、気がつくと修一も同じ方向を見ていた。
「見えたか?」
「…何か、見たことのあるような2人が居たよね」
「あいつらはあいつらの世界で」
「僕らは僕らの世界で」
それぞれに歩き出していく。
呟くと、修一が頷き、口を噤んだ。
「………さて、行くか」
「え?」
修一がきょとんと垣を見上げる。




