10
「あ」「友樹!」
風が吹く。右手から突然木の根がすっぽ抜けた。今にも重なり合うように見えた2人の手が掠め合う。空中に放り出された修一が、落下に入る次の瞬間、
「どりゃああっっ!」「っっっ!」
空気を蹴破るような雄叫びが響いて修一の手首ががつりと掴まれた。降り戻されて断崖に叩きつけられ、跳ね上げられてもう一度、何度かそれを繰り返す間も、手首を握った掌の力は緩むことなく、そしてついに。
「垣…さん……」
「おうよ…大丈夫だからな……諦めんなよ……」
はあはあと荒い呼吸の合間に、ざまあみろと言いたげに声が笑う。
ああ、ここのところは滝と違うな。
その瞬間に考えていたのは、そんなどうでもいいこと。
「さあ、そっちの手も貸せ」「…うん」
片腕1本掴まえられて空中に浮かんでいる躯は、普段の数十倍の重力がかかっているように重かった。頷いて右手をそろそろと上げていく。斜めに引っ張られている体に逆らって、横へでなく上へ手を伸ばす、その難しさ。
「ぐ、う…っ」
同じようにもう片方の手を差し伸べながら、垣も唸って顔を引き攣らせた。じりじりと手首を掴んだ指が緩む。逆手で掴んでくれていれば、修一も垣の手首を握れたのにと思いつつ、ゆら、ゆら、と揺れた視界にむかつきが込み上げ目を閉じた。こんな所で吐いたらおしまいだ。衝撃で垣の手がすっぽ抜けるのは目に見えている。
「早く…友樹…っ」
呼び捨てにされた声に一瞬強く目を閉じ、落ちるしか道はないと囁きかける『周一郎』を意識の向こうに押し込める。
(帰る…絶対帰る)
僕は君と違うよ、『周一郎』。
僕は自分が死ぬことが垣さんを助けられるなんて思わない。
だって。
「…っ」
右手を伸ばしていきながら、目を開け、その向こうに差し出されている真っ赤な手を、ぶるぶる震えながら食いしばって覗き込んでいる垣の顔を見上げる。
「…こんな顔を見て、それでも死んでいいなんて思えないよ」
君は見えなかった。
確かにルトを通して人の裏表をいやというほど見続けてきたんだろう、けど。
「……肝腎なとこが、全く見えてなかったよ……っ!」
吐き捨てながら、最後の一踏ん張りで垣の手首をがっちりと握った。心得たように垣が修一の手首を握り込む。
「よ…ぉし…」
ほう、と息を吐いた垣がすぐさま怒鳴る。
「宮田! 引っ張れ! そっとゆっくりだぞ!」
おーらい、とひどく軽い声が応じて、あ、ごめええん、と続く。いきなりがくんっと垣の体が前後しひやりとした。滑りかけていた左手が一瞬抜けかけ、咄嗟に垣が顔を引き攣らせて手を振り回し、かろうじて修一の手首を掴む。
「手ぇ滑っちゃった」「……覚えてろよ」
どこまでも軽い宮田の声に垣の目が細くなった。
「悪い悪い…思ったより重いよね、お前」「……ほっとけ」
ずるっ、ずるっと数㎝単位で引き上げられていく体に竦んだ修一の顔を見たのだろう、垣は瞳を和らげた。
「もう大丈夫だからな」
静かに続ける。
「もう心配しなくていいからな」
「…うん」
ことばだけでは足りなくて、修一は何度も頷く。
ほらね、『周一郎』。君だって、手を伸ばしてたら同じことばを聞けたはずだ。
(だってさ)
相手は滝志郎だ。お由宇から天使症候群なぞと呼ばれ、周囲の人間までお節介で親身でいい人に変えていってしまうようなキャラクターだ。『周一郎』を助けないはずがなかっただろう。
(君は、何にも見えてなかった)
『周一郎』を失った滝がどれほど傷つくか。それが自分のせいだと考えた滝がどれほど負い目を背負うか。
(いや、わかってたのかな)
だからこそ『直樹』として側に居た。
(なんだ…『周一郎』…君って)
「もう少し、もう少し!」「おいせこらせおいせこらせ」「頑張れ宮田」「頑張ってますっておいせこらせ」
宮田と掛け合いつつ垣がついに修一を崖の上に引きずり上げる。最後の1回で胸やら腹やらを思い切り擦られ、視界が眩んで吐き気が戻り、思わず口を押さえて俯いたとたん、
「おい、大丈夫か怪我はないか何もされてないか気分はどうだああまず寒いよな」
垣がおろおろと近寄りジャケットを着せかけてくれた。
「…そんな一度に聞かれても答えられないよ」
「……大丈夫そうだな」
「…うん」
ほっとした顔になる垣に笑い返す。
(君って……甘えていただけなのか)
自分のやり方のままで滝に受け入れて欲しくて。誰かの代用品ではない、『朝倉周一郎』を探して見つけて認めて欲しくて。大切で優しい、かけがえのない友人に。でも。
「……そんなやり方じゃ伝わらない」
「え?」
こうするんだよ、と修一はよろよろと立ち上がった。
「お、おい、友樹君…?」
「……こわ、かった、よおっ!」
思い切り叫んで垣にむしゃぶりつき、押し倒してしがみついた。
「こわかったあああああ!!!!!」「ひえええええ!」
修一の豹変に垣が泡を食ってじたばたしている。宮田が、なんだそれはあっと顔を引き攣らせ叫んでいる。修一さんっ、と声を響かせ佐野や高野が必死に近づこうとしてくる。雪は冷たく、抱きついた垣の体が唯一の温もりで。
くすくすくす、と修一は笑った。
笑いながら、垣に顔を押しつけ、歪んだ顔に零れた涙を隠した。
垣は滝ではない。
修一は周一郎じゃない。
だから。
夢は全て消えるのだ。




