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周一郎舞台裏 〜猫たちの時間5〜  作者: segakiyui
7.シーン307

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9

「てめええええええ!」「待てやあくそ餓鬼いいいいい……」

「?」

 ふいに背後の声が妙に途切れた。

 空気が変わる。ふわりと自分を包む感覚に修一は戸惑う。

(これって確か)

 あの時、カチンコが鳴った瞬間の気配。

『終ったぞ、修一! もう走らなくていい! いい画が撮れた、安心しろ!』

 叫んだあの時の監督の声が聞こえた気がして振り返る。

「止まれ! 抵抗するなああ!」

 いきなり背後の男達の回りにばらばらと飛び出してくる点があった。あっという間に数を増し、白い雪原を蹴散らすように次々と黒点が増えてくる。

「動くなあああ!」

 響き渡る叫び、上がる雪煙。

(何…?)

「友樹君!」

 その黒点の中から1人が、人間の形を取りながらこちらへ向かって走ってくる。

(僕の名前…?)

 これは映画のシーンだろうか。

 それとも、ぼやけた意識が生み出した記憶の海の中だろうか。

 けれどそれなら、修一は役柄で呼びかけられるはずだ。

 それともこれもまた、『友樹修一』という役柄の、映画の一コマなのだろうか。

「大丈夫か、友樹君っ!!」

 大声で叫びながら、両手を振り回しながら、雪の中でじたばたしながら、それでもかなりの勢いで突進してくる姿に思わず呼んだ。

「垣…さん…っ」

 そちらへ向かって走り出すのは必然、約束された場面、けれど後ろに蹴った足が突然深く吸い込まれて悲鳴を上げる。

「わあっ」「友樹君!」「修一さんっ!」「友樹っ!!」

 交錯する声の渦、差し伸べた両手が体の下で一気に崩れた雪の中で、ざりざりとした紐のようなものに引っ掛かる。とっさに握り込みしがみつく。焼ける掌の激痛にも離さなかったのは本能だろう。

「、っ、っ、っ……!!」

 声にならない声を目眩に覆われた意識で天空へ吐き出し続ける。助けて助けて助けて……誰かああ!

 雪崩落ちる雪が落ち着いたとき、修一は静かにそっと息を吐いた。

 足元に何もない。

 目を閉じる。

 見なくてもわかる。ここは断崖だったのだ。雪が被さって走れるように見えていただけだ。もう少し走り続けていたら修一は今の雪とともに遥か下に落ちていたのだ。

「っ」

 ぶるっと震えると掌の中の固いロープのようなものがずるりと滑った。うっすらと目を開けて、それが何かを確認して凍りつく。

 木の根だ。

 凄く太くて立派だ。

 けれど、ここへ来る直前まで、そんな大きな木はなかった。

 だからこれは、この断崖に埋まっていた、古い、昔の木の根なのだ……いつ抜け落ちても不思議はないような。

 ゆうらりと体が揺れて再び目を閉じた。だが今度は唇を噛んで、静かに目を見開いて見下ろした。

 何もない。

 いや、あるにはあるが、遥かに下だ。

 掌に乗るぐらいのバスが1台のんびりと山道を走っている。修一の揺れる足のうんと下の方で、そのバスをおばあさんが待っている。

 光景が、一望できた。

「……」

 ごくん、と唾を呑んだ。目眩はどこかに消え去っていたが、凍えるほど冷たい霧が額から喉へ這い下りていく。

 自分の体は、あののんびりとしたバスの屋根にぶち当たって跳ね返って横の谷に落ちるのだろうか。それとも突き刺さって見るに耐えないものをぶちまけるのだろうか、あの優しそうな気配のおばあさんの前に。

(嫌だ)

 視界が涙で霞んだ。鼻水が出た。『周一郎』は絶対おかしい。こんな程度の崖でさえ落ちることは恐怖でしかない。なのに自分で笑って落ちるなんて絶対どこか壊れている。

「友樹君っ!!」「っ!」

 上から声が降ってきて慌てて見上げた。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を崩れてきた雪が叩きつけ、一瞬息が止まるかと思った。顔を歪めて背け、目を閉じ、雪の流れに耐え抜いて、また再びのろのろと振り仰いで真っ白な垣の顔を見つけた。

「大丈夫か!!」

「垣…さぁん……」

 ほっとした瞬間に手から力が抜けてずるりと数㎝滑り落ち、修一も垣もくぐもった声で悲鳴を上げた。必死に握り込んで止まる、けれどさっきより根の感触が頼りない気がする。

 きっと、もう、ここはまずい。

「こっちだ、こっちに手をのばせ!」

 垣が叫びながら、固そうな足場を見つけたのだろう、腹這いになって手を伸ばしてきた。白い雪まじりの斜面、寒さで赤くなった手が妙にはっきりと鮮やかに視界に飛び込む。

「…っ」

 もう一度乾き切った喉に唾を送り込み、痛みに顔を歪めながら、修一はゆっくりと左手を木の根から離した。大丈夫。何とかまだ保てる。けれどそんなに時間はない。かじかんでじりじり木の根から滑り落ちて行く右手に比して、左手は嫌になるほどゆっくりとしか伸びない。

「もう少しだ、もう少し!」

 垣の声が響く。

(僕は…ためらっている)

 胸の中の声が応じる。

(この手を本当に掴んでいいのか)

 本当に、もう一度、垣の側に戻っていいのか。

(資格が、あるのか)

『資格は、あるのか』

 耳の底と胸の奥から同時に響く声を受け取る。

(『周一郎』)

 自分の姿に重なり合う、自分の命を断つしか滝を救えないと断じる『周一郎』が。

「こっちだ! こっちだ、友樹君!」

(もう少し、手を伸ばせばいいだけなんだ)

 いいのか?

(いいに決まってるさ)

 理由は。

(あれが見えないのか)

 顔を強張らせ叫びながら手を伸ばしている垣の姿。

(助けたいと思ってるんだよ)

 僕を?

(そうだよ、一緒に生きていきたいって)

 一緒に?

(一緒に)

 だから、信じて。

「、くっ」

 修一は渾身の力で体重を右手1本で支えた。左手をしっかりと伸ばす。垣の伸ばす指先に触れた。一瞬。そして、もう一瞬。


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