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「きつくなったな、雨」
呟いて、垣はごろ寝から立ち上がった。
時計は23時を回っている。垣の住処は、夜になって賑やかになるほど明るい場所にはないから静かには静かだが、時に寂しくなる時もある。
「こう寒くちゃ、すぐ寝る気にもならん。酒でも呑んで…」
ああ、そうか。
部屋の隅を眺めて溜め息をついた。そもそも買い置きなどという贅沢な物があるわけがなかった。必要な時に必要なものがかろうじて手に入る、そんな暮らししかしていなかったのを、最近時々ふっと忘れる。
「よくないよな、全く」
中途半端な成功は人をあやふやにさせる。映画に出たこと、それがシリーズ化されたことで、垣でも時々視線を浴びる。人気を得た経験がないから、僅かばかりの人気ですぐにふわふわと浮く、本当に幻のような時間だと言うのに。
「やれやれ」
ジーンズのポケットを探ると小銭が残っていた。缶ビール1本だけ、と思いつつドアを開けたが、外はいつしか本降りになっていて、おまけに吹き降りになりつつある。
「こりゃ、かえって寒いか」
唸ってドアから首を引っ込めようとして、ふと眼下の道路に立ってこちらを見上げる人影を見つけた。
「誰だよ、こんな夜に傘もささず……あーあ、ずぶ濡れになっ……?!」
思わず手すりから身を乗り出す。間違いない、あれは。
「友樹君?!」
「…」
垣の上げた声に、少年は微かに唇を緩めた。
「おいおい何だよ一体っ」
慌てて手近の傘を掴んで階段を駆け下りる。
(何だ?)
頭の中に沸き起こる疑問符、傘をさしても吹きつける風雨に濡れながら、ますます違和感が増す。修一は雨に濡れていると感じていないようだ。まるで春先の陽射しの中にいるような茫洋とした表情で、駆け寄っていく垣をゆっくり目で追っている。いや追ってはいるが見えているのかどうか。どんどん垣が距離を詰めても、ぼんやりとした表情が動かない。まるで仮面を貼付けているようだ。
「友樹君……?」
側まで近づいても、こちらを見上げてくるだけの相手に、垣はおそるおそる声をかけた。こんな時間に、あの友樹修一が、マネージャーも付き人もなしで、しかも雨に濡れながら突っ立っている理由がどうにもわからない。ただ、尋常じゃない、それだけはわかる。
(何があった?)
「…どうした…?」
「っ」
ふいに相手が体を震わせた。瞳がゆっくりと焦点を合わせてくる。真っ青な頬、白い唇、強張った顔が引き攣れたように歪んで微笑みかけ……失敗した。
「……垣…さん…」
「友樹…」
端整な顔にいきなり次々と涙が溢れて流れ落ちた。ぐしゃりと崩れた仮面が悲鳴を響かせながら飛び込んでくる。
「垣さん…っっ!!」「!!!」
しがみつかれて危うく傘を飛ばされかけ、垣はかろうじて持ちこたえた。飛びついた友樹がわああああっっ、と大声を上げて泣き始める。
「おい……」
「!!!…」
「友樹……っ」
しがみついて身悶えする相手を引きはがそうとして肩に触れ、ぎょっとした。
(氷みたいだ)
冷えきってかちこちで、まるで陶器か何かを掴んだような気がする。きっと随分長い間ここに立っていたに違いない。
「おいおいおいおい…」
傘を片手で支えてジャケットを脱ぐ。身もがきする修一に何とか着せかけて包んでやる。ほんの小さな子どものように泣きじゃくりながら、修一は一瞬でも垣から離されることに必死で抵抗した。
「とにかく君のマンションに行こう、あそこの方がすぐにあったまる…」
「やだ…っ」
「けどさ」
「…いや…だぁ……っ!」
掠れた悲鳴を漏らしながら、修一は激しく首を振る。あそこは嫌、絶対嫌、戻るのは嫌と繰り返し続けて、今にも垣の手を振り払ってしまいそうだ。既に意味がなくなった傘をたたみ、暴れる修一を抱え込む。
「ああわかったわかった、わかったから、ほら来いよ、ここで凍えてるわけにはいかねえよ」
何とか自分の部屋の方に押し出そうとするのに、修一は何かに怯えたように強く首を振って動こうとしない。
「友樹君、ほら、おい、友樹君、俺も冷えるし、なあおい、おい……友樹!」
「っっ」
声を荒げると突然友樹は体を凍らせた。振り仰いだ顔は恐怖に引き攣っていて、まるで垣に喰われかけたような表情だ。さすがに怯みかけたが、朝まで押し問答する気もない、語気を強めたまま相手を覗き込んだ。
「泣くなって。何があったか知らんが、とにかく部屋に入って、あったまって、それから話聞くから!」
「…っく…」
しゃくりあげながら、修一はようやくのろのろと垣から離れた。その体を引きずるように階段を上がり、自分の部屋へ連れ込みながら、垣は疑問を持て余す。
(一体何があった? こんな夜更けに友樹修一がこんな状態になる、なんて?)
第一、友樹一家の守護神、佐野はどこへ行ったのだ。お守役の高野は何をしているのだ。
「待ってろよ、とりあえず濡れたものを脱がなくちゃ」
ゴミ袋を敷き、戸口で服を脱がせ、タオルで手早く体を擦って毛布で体を包んでやり、仕上げにストーブの前に修一を座らせる。されるがままの修一を横目に、自分もずぶぬれになった服を着替えた。残り少ないきれいなTシャツとパンツをもう一組、修一のために準備する。濡れた衣服はゴミ袋に放り込んだ。明日にでもコインランドリーで洗濯しよう……ひょっとすると、そんな風に扱っちゃいけない代物かも知れないが。
「新品じゃないけど、我慢してくれ。変な病気は持ってないし、洗濯はしてある」
「…」
着替えを押しやったが、修一は動こうとしない。魂が抜けた人形のように、毛布に包まれた体を小さく縮めたまま、ストーブを見つめている。
「頭ももうちょっと拭いた方がいいぞ、濡れたままじゃ」
「…ックション!」
「……乾く時に冷えるんだ、だから」
タオルも渡そうとしたが、受け取ろうともしない。拭いてくれればいいという傲慢さではなく、そんなことをする気力さえないようだ。
「……拭くぞ」
溜め息をついて、垣はタオルで修一の頭を擦りにかかった。さりげなく触れた体はまだひんやりとしている。部屋はあまり立て付けがよくないし、保温も不十分だ。ストーブの火力をもう少し上げ、ごしごし擦り続けていると、つい愚痴が口を突いた。
「あんな所にずっと立ってちゃ駄目だ」
「……」
「もっと早く来てたんだろ、さっさと入って来い」
「……」
「それとも、どっか他に行くところ…」
「……みたいだ……」
わさわさと頭を揺さぶられながら、修一が掠れた声で呟いた。
「あ?」
「……滝さん……みたいだ……」
「……どうせ貧乏所帯だよ」
「違う……そうじゃない……そうじゃなくって……こんな僕を……部屋に…入れ……」
ことばが途切れた。なおも頭を擦りながら待ったが続かない。
「友樹?」
「……」
覗き込んだ友樹の顔はまるで既に死んだ人間のようだった。何の表情もなく、疲れ切ったように感情が削られていて、虚ろな瞳が真っ黒な穴に見える。
「………どうして、あんな所に居た?」
びくりと修一の体が震えた。だが、ことばは出ない。
「……嫌なら言わなくていいぞ」
付け加えたことばにも反応しない。
「……少しはあったまったか」
乾き始めた髪を手櫛で整えてやって、垣が離れようとした矢先、
「…おかあさんに……会った…」
「…え?」
干涸びた声が続けた。
「おかあさんに……会ったけど……もう……会えないと、思う……っ」
修一の顔が絶望に崩れた。




