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寒さに耐えかねて、修一は歩き出した。どこへ行こうというのではない、とにかく動いていないと冷たくて痛い。
「…」
突然修一は立ち止まった。
何気なくポケットに突っ込んだ指先に触れた紙切れを引っ張り出す。ぐしょぐしょになっていて広げるのに苦労したが、それでも書いた住所は何とか読めた。周囲を見回し、それほど遠くないと気づく。通りがかった傘をさした中年女性に尋ねると、不安そうに、それでも丁寧に教えてくれた。
「あの、あんた、大丈夫?」
「…はい」
にっこり笑ったのは業務用だが、相手の安心は得られたらしい。風邪を引かないようにね、と声をかけて遠ざかる姿に、少し頭を下げて、教えられた方向に歩き出す。
悪意と善意が同じことばをかけてくるなんて、不思議だし滑稽だ。
(ことばなんて、意味がないんだ)
それは役者を否定するようなものだけど、きっと真実なんだろう。修一が、あの場で何一つ話せなかったのは、自分のことばがどれほど意味がなくて弱くて軽くてどうしようもないものだか、十二分に感じたからだろう。
(でも、他に何がある?)
台詞のない役者など大勢居る。彼らはいつか台詞を得よう、台詞のある役を射止めようとやっきになっている。
けれど、その彼らはこんな状況に出くわしたことがないのだろう。修一の蓄えて来たことばは、これほど何の役にも立たないものだ。
数分歩くうちに、目当ての安アパートを見つける。
「………」
無言で2階を見上げ、修一は立ち竦んだ。上から下までぐっしょり濡れ、冷気が皮膚を凍らせるほどに染み通ってくる。髪を濡らした雨粒が雫になって、顔を伝って幾筋も落ちる。眼に入って視界を滲ませ、冷たく脳髄に突き刺さってくる。
「…………」
ぶるるっ、と犬のように頭を振って雫を振り払い、修一は濡れたポケットに凍った指を突っ込んで、再び垣のいるはずの2階を見上げた。
(入っていけばいいんだ)
自分を励ます。
(濡れちゃったから、雨宿りさせてよ、垣さん、って)
瞬間、脳裏に薬に溺れぐったりと床に寝そべる母親の姿が過った。
(だめだ)
僕はもう入れない。
この先、どこに修一を受け入れてくれるドアがあるのだろう。この先、誰が修一に笑いかけてくれるのだろう。
崩れる母親とその背後にある暗い力は、きっと修一を越えて滲み出して修一が関わる全てを汚していくのだろう。
(僕はもう、どこにも)
胸の底が凍りついた。
(誰にも)
腰の辺りが冷えた。
(助けを求められない)
顔から表情が消えたのがわかった。冷酷な現実、動かし難い真実、そんな台詞は今まで何度も口にしたのに、今修一の前に立ち塞がったその壁は、ことばにする気力さえ奪うような代物だった。
(何もわかってなかった)
2階をじっと見つめ続ける。
灯が点り、優しい笑顔があるだろう場所を。
(きっと周一郎はこんな気持ちで滝を見ていた)
永遠に手の届かない、温かな日だまり。
唇の片端が吊り上がる。
(この幻は綺麗すぎる)
それを見つめ続けられた周一郎は、きっと修一より遥かに強かったのだろう。




