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「!」
掠れた声にぞっとした。それはよく知っている声、確かに時々しゃがれはするけれど、大抵は艶を帯びて甘やかに囁くはずの声、そしてまた、目の前の床に座り込んだ、白昼夢のような女から響くはずがない声だ。
服はもとはシフォンドレスだったのだろうが、薄汚れ垢染みていて見る影もない。艶やかな盛り髪はぐしゃぐしゃに乱れぱさついて、顔は憔悴し切っている。眼の下には黒々とした隈があり、肉の削げた頬には表情らしい表情もなく、雅子はただ空洞のような目で修一を見上げて呟いた。
「薬をちょうだい……ちょうだいよ!」
思わず後じさりした修一に、思わぬ素早さでしがみついてきた雅子は、噛みつくようにまくしたてる。
「お金ならあるわ! 修一が持ってくるわよ! 足りなきゃあの子から絞ればいいのよ、だからお願い、薬をちょうだいよぉ! もう死にそう!!」
恐怖に大きく見開いた目を病人にようにぎらぎらと輝かせて、雅子は修一を揺さぶり喚く。既に目の前の人間が誰が見えていないのか、それとも見えていても、それと認識できないのか。しがみついてくる手の力の強さ、そのまま眼に見えない穴に引きずり込まれそうな気になって、修一は必死にポケットを探って茶色の紙袋を引きずり出す、と、次の瞬間、割れて欠けた爪で怪鳥のように襲い掛かった雅子が、あっという間に紙袋をひっ攫った。
「金ならあるって! ほら見てよ見なさいよ、あるわよあるってばあ!」
茶色の袋を振り回すと、ばさばさと中から零れた紙幣が散る。だが、それも雅子にはもう別のものに見えているらしい。ひ、と息を引いたと思うと、紙袋を放り出してドアに駆け寄り、
「修一に連絡してって! あの子に持って来させてって! 薬をちょうだい! ちょうだいってば!」
どんどんがんがんとドアを叩き続け喚き続け、髪を振り乱して哀願する。
「何でもするわよ、あの子もどうにでもして構わないわ! だから薬を、薬をぉおお!」
誰が思うだろう、これがあの大女優、友樹雅子、だと。
(誰…なんだ…)
膝ががくがく震え、よろめきながら修一は壁に縋る。
(これは…誰…だ…)
ふいに別のドアが開いた。気づかずに叫び続ける雅子の背後から男が近寄り、無造作にその腕を捻って引き寄せる。
「ああああああ!」「大人しくしてな、うまく楽しめねえぜ」
伸びた白い腕には所狭しと内出血の跡があった。もがくように縋るように男に絡み付く雅子を組み敷いて倒し、男はその腕に注射器を差し込む。
「うぁああ……あア………」
雅子がびくりと痙攣した後、切なげな声を上げて仰け反った。床に乱れ散る髪の中、真っ白になった顔が見る見る薄赤く染まり、とろりと妙な微笑に崩れていく。
「…っ」
修一は喉を鳴らした。今にも吐きそうだ。
(どうして……僕は…ここにいる…)
自分の目の前で、母親が薬を打たれて陶酔に耽っていく。だらりと開いていく赤い唇、ぼんやりと見開いた瞳が物憂げに修一を見たが、もちろんそれは、修一の居る方向を見ただけで、彼の姿は映っていない。
いや、今は修一だけでなく、雅子の視界には現実の何も映っていないのだろう。引き攣れたように時々微笑む顔は、笑顔ではない、ただ何か原型を失って崩れていく出来の悪い仮面のように、生気もなく活力もなく、身動きしたくともできない、見たくないとどれほど願っても目を逸らせない、修一の心を食い破っていく。
(目の前にいるのは誰? 僕はここで何をしている?)
誰か助けて、体が動かない。
動かないまま、あのぐったりした軟体動物みたいな女が、きょろりと視線を向けてきて、ずるずる這い寄ってきて、修一の爪先から全て食い散らかされていきそう。
(誰か)
手首が掴まれた。引っ立てられた。崩れかけた脚は無理矢理引きずられて歩かされ、部屋から連れ出されていく。
(僕も)
溶かされてしまうのだろうか、あの注射器に入っている薬で。
(僕も)
ああやってへらへらと笑いながら自分の終末を楽しんでいくのだろうか。
「目隠ししなくてもいいんじゃないか、かなりショック受けてるみたいだし」
「実の母親がああだからな」
「お子様には刺激が強過ぎたか」
くつくつ嗤いひそひそ囁かれる悪意。
「この後のお楽しみはもっと刺激的だがよ」
「見せてやるか? それとも参加させるか」
「……放り出せ」
冷ややかな声が命じた。
「元通り、連れ出せ」
「けど、こいつ焦点が合ってませんぜ」
「用心するに越したことはない、それに」
冷ややかな声がもっと冷たく嗤う。
「そのうちまた、絞り取れる」
「そっすね、じゃ、綾野さん、俺らが行ってきます」
(あやの…)
頭を押さえつけられ、再び目隠しされた。真っ暗になった視界に、鮮やかな華やかな雅子の笑顔が広がって歪んで溶け落ちていく。
「家の近くに放り出しとけ。腕利きのマネージャーとやらが回収するさ」
嘲笑う声を背中に引きずられ、押し込まれ、運ばれてやがて、放り出される。
「風邪ひくなよ、坊主!」
馬鹿笑いが響き渡った。背後で次々閉まるドア、勢いよく走り去った車にようやく、修一は空を見上げる。
「……」
ぱたぱたぱたぱた。
糸のように細い雨とはこういうものを言うのだろうか。
夜闇の中から雫が線を描いて落ちてくるのが見える。細く頼りなく見えても、雨は冷えていた。見る見る体が固まり、動けなくなってくる。




