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がんがんする頭。
のろのろと修一は首を傾げ、重たく頭を振る。
痺れたような感覚が頭の中心にあって何とか振り切ろうとしたが、『それ』はこびりつく煤のようにごそごそと不透明に溜まっていくばかりだ。
『やめちまえやめちまえ! そんなもの、周一郎じゃない!』
伊勢の声がくすんだ頭に錐を揉み込むように響く。
「修一さん!」
高野が車の側に立ってこちらを手招きしている。ここ数日間、記者に追いかけ回されているので、佐野が手配して人が気づかない所へ車を回してくれたのだ。急いでいるつもり、だが、足はなかなか前に進まない。木立の後ろへ回り込んでいく、と、いきなり眩い光が修一の目を射て、思わず立ち止まった。
「や」
木立の端から旭日新聞の本田が顔を出し、にやりと嫌らしく嗤った。フラッシュをこれ見よがしに光らせてもう1枚、容赦なくシャッターを切り、茫然としている修一に近づいてくる。
「新しいコメントを頂きたいんですよ、修一さん。もう以前のコメントも再三再四流しましたし、そろそろファンも次のネタに期待してるでしょうしね?」
「…」
「友樹雅子さん、いや、『おかあさん』について、どう思われてます? 今どんなお気持ちですかね」
「修一さんっ!」
はっとしたように高野が叫びながら駆け寄ってくる。と、ほとんど同時に背後から数十の足音が迫り寄ってきて、たちまち修一はカメラをかざしながら覗き込む記者達に取り囲まれていた。
「友樹さん、『おかあさん』が失踪されたことですが」「雅子さん、つまりあなたの『おかあさん』の事ですが麻薬の」「『おかあさん』は最近舞台に行き詰まりを感じていらっしゃ」「陽一さん、あなたの『おとうさん』の愛人が浅倉若子だというのはもうご存知」「痴情のもつれはどの程度の」
溢れ出すような質問がそこら中から修一に降り注いでくる。ぱくぱく開いたり閉じたりする口、口、口、口、1人ずつの見分けなどつきはしない、それでも必死に周囲を見渡し、もう繰り返し疲れたことばを吐く。
「それはこの前お話した通り、佐野さんから」
「いや我々はあなたの」「あなたのコメントを」「あなたがどう思ってるのかを知りたい読者が」
(うるさい)
「あなたの気持ちがファンに届くかどうかという」「『おかあさん』が麻薬を使っていたことについて」「社会常識から考えてですね、『おかあさん』のなさったことは」
(知らない、僕は…)
「『おかあさん』は演技に悩まれていたんでしょうか、舞台に対しては」「役者であることの責任と義務について考えられて」
(僕は知らない…)
自分が太刀打ち出来ないことばの壁が次々と目の前に立ち塞がる。何を言っても無駄な気がする。何を伝えても意味がない気がする。
(だってあの人は)
修一のことなど振り返らなかった見もしなかった、修一が居ることさえ疎ましいという気配でしかいなかった、だから修一も。
(あの人のことなんか興味なんて)
噤んでいた口を開きかけた、お前らに何がわかる、そんなこと僕の知ったことじゃない、そう大声で叫びかけた瞬間、
「失礼、皆さん!」
凛とした声が割って入った。
「佐野マネージャー」
本田が忌々しげに舌打ちする。
「コメントは既に発表した通りです」
するりと記者達の輪の中へ滑り込む、無駄のない滑らかな、けれど断固としてその背に庇う修一に接触することを許さない動きで、記者達の前に立ちはだかった。修一を軽く高野に押しやり、心得た高野が修一を導く。
「さ、修一さん、こっちです」「あ、友樹さ」
「彼への質問は」
追いすがろうとする記者達の声は佐野の一声で封じられた。
「私がお答えしますが、必要なことは既に発表しております。現時点で付け加えることも削除することもありません」「しかしですね」「捜査上」
反論しかけた記者の声を断ち切った声は、張り上げてもいなければ脅しをかけてもいない。細い背中をこちらに見せて、佐野は笑みを含んだ声になっている。
「警察の方に十分に協力していきたいと思っております。皆様にも、その旨、よくご理解頂いて、事件の早期解決にご協力お願いいたします」
毒気を抜かれたような顔で口を開いた記者達が、くるりと身を翻した佐野の後ろで悔しげに唸る。
「…友樹陽一の懐刀かよ」「噂通りの切れ者だな」「何かまだ出そうなんだが」「突っ込むと捜査の妨害をしたの何のとごねられそうだぜ」
その声が聴こえているのかいないのか、修一の後ろから車に戻ってきた佐野は、何事もなかったように運転席に乗り込み、車を発進させた。ルームミラーで後部座席に埋まり込んだ修一を見つめる瞳は、いつもと同じく涼やかで落ち着いている。
「明日のスケジュールです。サイン300枚、CDと色紙に。雑誌取材はキャンセルしました。TVの方も自粛します。その代わり、映画撮りを進めます。休憩時間に…」
淡々とした声に、高野がはらはらした顔で自分と佐野を見比べているのがわかる。
修一はじっと佐野の顔を見返していたが、頭には何も入って来なかった。連日の騒ぎで疲れは頂点に達している。信号が変わって走り出した車の振動に、ぐったりと寝そべって、窓の外を眺める。
(景色が流れてく)
洪水のように溢れる光と色、乱れ狂う色彩の街並。流れては止まり、止まっては流れ出す様を見ていると、自分はじっと動けずにいるのに風景だけが動いているような気がしてくる。
一度、信号と交通渋滞で停止した時、窓の外に映画館があるのを見つけた。上映中の映画、と題されて、小さな画面で『京都舞扇』の一場面が流されていた。
(あ…シーン305だ)
ぼんやりと見つめている脳裏に、台詞が浮かび上がってくる。
周一郎と清と滝が、清の家と思しき部屋に座っている。
3人の目の前には、布団に横たわり白い布を顔に被せられた細い体がある。布団が重そうに見える。それほどにか細い亡骸だった。
『坊っちゃん』
清の唇が動く。ん、と優しい表情で見つめる周一郎、その視線を避けるように俯いた清が呟く。
『本当なんですか…』
「『清はどう思う?』」
窓の外のTV画面と同時に、修一は呟いた。ぎくりとしたように振り向く高野を無視して、続く台詞を呟き続ける。
「『違うかったら……なんで……京子ちゃんがこんなことに……』」
「『清! それは!…』」
「『滝さん!』」
自分の台詞だけではない、全ての台詞を修一は覚えている。当たり前だろう、あれほど何度も何度も繰り返し演じた場面、忘れるはずがない。
清を止めかけた滝を一言で制して、周一郎はじっと清の弾劾を聞いている。静かな表情で、秋の庭で風の音を聴いているように。
耐え切れぬように滝が再び、清に真実を告げようと口を開く。
「清、周一郎じゃないんだ! 実は…」
「滝さん!」
が、今度も周一郎の声と、その瞳にたたえられた哀しみに滝は黙らざるを得ず、1人でおろおろする。
「……」
車が動き出した。映画館のTVを見送った修一の唇が動き続けているのに気づいたのか、高野が修一を覗き込んでくる。
だが、それ以上は声をかけて来なかった。おそらく修一が眠ってしまったと思ったのだろう。
「……滝さん……」
微かに呟いた声が、夢のものなのか現実なのか、修一には区別がつかなかった。




