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「カーット!」
「きゃああっっっ!」「修一っ!」「周一郎!」「いやあっもっと!」
カチンコが鳴ると同時に黄色い声が上がった。扉の向こうから濡れた服をさっさと着替えてきた修一が姿を見せると、歓声は一層大きくなった。中には多少ドスのきいた声も混じっていたが、もちろん誰もけなしたり嘲ったりする者はいない。
「皆さん、ありがとうございます」
修一ははにかんだように微笑した。
「まだまだ映画は続きます。これからも応援よろしくお願いいたします」
次回作を確約出来る役者が、この世界に何人居るだろう。それでも、修一が映画は続くと言えば、この先何本も撮影が約束されているように聞こえるから大したものだ。
「では、友樹修一さんのサイン会、始めまーす! 色紙へのコメントは、お1人一言までにお願い致しまーす!」
(どうせオレにはファンがおらんよ)
自分を振り返りもしない少女達にいささかいじけて舞台を去るが、その垣を追う視線はやっぱりなさそうだ。
(どうせ、『周一郎』シリーズなんだ)
「あの…」
「はいはいはい!」
呼びかけられた声に満面に笑みをたたえて振り返った垣の目に、楚々とした恥ずかしげな娘が映る。
「あ、の…」
「はい、何でしょうかっ」
「友樹さんのサイン会はどこで…」
「……あっちですよ、ええ」
「ありがとうございます!」
一転むっつりした垣に明るく笑いかけて、少女はワンピースを翻して走り去る。その先には、佐野と高野を従えて、椅子に上品に腰掛け、周一郎のイメージをそのままに淡々と、けれどもにこやかにサインをこなし握手することを繰り返す修一の姿がある。もの馴れた動作には強張りもなく滑らかだ。
(さっき、泣いてたように思ったんだが)
端整な修一の横顔を見た。笑みをたたえた顔には翳り一つない。
(そうだな、オレが気にしてやらなくとも)
吐息一つ、垣は修一に背を向けた。
(あいつには、周一郎と違って佐野高野って付き添いもいるんだし、大勢のファンもスタッフもいる。オレ1人ぐらい抜けたところでどうってことないだろうさ)
修一のサイン会の間は撮影は進まない。どこかで一休みしようと、人混みを抜けてぶらぶらと屋敷の外へ出る、と、背後から再び声がかかった。
「あの」
「はいはいっ」
思わず弾んだ声を出して振り返った垣は、正面に牛乳ビン底眼鏡を突きつけられて、うんざりした。
「なんだ、お前か」
「来るって言っといただろう?」
それで友樹修一は、と早々に周囲を見回す宮田に、垣は溜め息まじりに応じる。
「今サイン会やってるよ。終るまで待ってるしかない。サイン会の後なら休憩があるから」
「優先順位というのは考慮なしか?」
「考慮してもいいが、数分後にあそこのファンに袋叩きにされるぞ」
そんなマゾだとは思わなかったな、と呆れてみせると、宮田は修一を取り囲む連中をじっくり眺めた。小柄で華奢な女の子達、がっしりどっしりの『旧』女の子達、ついでにがっちりどっすんのあからさまに怪しい雰囲気で修一を見つめる男の子達。
「…男女見境なしか」
宮田がぼそりと唸る。
「ついでに年齢にも区切りはない」
垣は肩を竦めた。
修一の支持層は驚くほど幅が広い。むしろ、1作やるごとに広がっていると言っていい。遅かれ早かれ、今はもうとっくに廃れた『国民的スター』に近い存在になるのかも知れない。
「…そうか、なら仕方ない」
宮田はあっさりと言い放った。
「今はお前で我慢しとくか」
鯛がなけりゃ目刺しでも魚は魚だよな。
「何だ、それは」
「いや、単に、食うなら見目形の良い方が好みだって言うだけだ」
「お前の言い方には、どうもひっかかりがあるよな」
「あるよ、山ほど」「……」
くるりと向きを変えて歩き出した垣がどんどん速度を上げるが、宮田は苦もなくついてくる。
「昨夜、友樹君を助けただろ?」
「……」
「あの時、俺、あの子を覗き込んでただろう?」
「……ああ」
ようやく真面目に話す気になったらしいと思って、垣は頷く。事件に関係のある情報ならば、多少なりとも知っておきたい。
「あの時さ」
宮田はにこやかに続けた。
「お前が邪魔しなけりゃ、もう少しで友樹君の唇の感触を」
「…沈めっ!」
垣は振り返りざまに数発相手に叩き込んだ。
数分後。
「おーいて…」
鼻の頭にこれみよがしに×印にカットバンを貼った宮田を、垣はじろりと見やる。
「お前は人類を滅亡させるために産まれて来たんだろ」
「まさか! 俺は刑事だぜ!」
「関係あるか!」
「ところが関係あるんだな、昨夜のこと」
垣は冷ややかに相手を睨みつける。
(こいつ、事情聴取と称して、友樹君に迫る気じゃねえだろうな)
迫るだけならまだしも、隙あらば押し倒して事に及ぼうとしかねない。
「昨日、あの事故の時、友樹君から転がり出した物……まあ、小さなガラスのビンだったんだが、これを鑑識で調べさせてもらった」
宮田は煙草をくわえると、火を点けないまま上下させた。
「ビンにこびりついてた中身、これが純度八十二%のアヘンアルカロイド系物質、つまり麻薬だとわかった」
「っ」
どきりとして垣は身を引く。
「じゃ……何か、友樹君が……中毒者だって…」
「その可能性もあるってことさ。今日来たのは、あのビンを友樹君がどこで手に入れたかを聞きたいのと、友樹雅子の失踪について何か知らないかってことで」
「知る訳ないだろ! 母親の失踪で一番ショックを受けてるのはあいつだぞ!」
「……いやに庇うな」
「あん?」
「お前もひょっとしたら、あの子に気が」
「ば、馬鹿っ」
「垣さーん!」
デスマッチを再開しかけた2人の耳に、明るい声が響いた。
「休憩だって! 何か飲もう……よ………?」
息せき切って駆け寄ってきた修一が宮田の姿を認めた。1、2m離れた所で立ち止まり、問いかけるように垣を見つめ、続いて宮田に目を戻す。
「やあ友樹君!」
宮田が満面の笑みで呼びかける。
「ちょっと聞きたいんだけど、いいかなぁん?」
「宮田っ」
「明るい警察っ、楽しい事情聴取!」
「はい……。……お母さん、の事ですね」
きゅっと修一は唇を引き締めた。




