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カチンコが鳴った。
「周一郎が?」
滝は周一郎が部屋にいないということを聞いて眉を寄せた。
「わかった、すぐに行くよ」
高野の姿が消え、ドアを閉めた滝は、背後から吹き付ける薄寒い風に顔をしかめて振り返り、窓の近くの壁にもたれて、かろうじて立っている少年を見つけた。
「周一郎!」
一声叫んで駆け寄り、相手の様子の異常さに眉をしかめる。周一郎の額には汗が浮かんでいるのに顔色はひどく悪く、微かに呼吸を乱しているのに気づいたが、滝は声を荒げた。
「何してるんだ! 今、美華さんが殺されて、お前が疑われているんだぞ!」
「知って…いる」
小さく呟いて周一郎はずるずると壁を伝ってくずおれた。ぐったりした様子で腰を落とし、壁にもたれて息を喘がせる。
「ルト……外の雪に血の跡を残してきてしまった……消して…おいてくれ…」
にゃあん、と答える猫の声がした。滝はぎょっとしたように周一郎の前にしゃがみ込み、両手を伸ばして周一郎の肩を掴んで喚く。
「じゃ、やっぱりお前が!」
「あうっ!!」
びくんと体を強張らせ、周一郎が悲鳴を上げた。どきりとして滝は少年の肩から手を離す。
(毎度のことながら、本当にどきっとする)
垣は思わず素に戻って考えてしまった。
相手の肩からうろたえて手を離す仕草は垣の演技ではない。周一郎役の修一が声を上げるのに、体が勝手に反応して手を離してしまうのだ。
(これを天性、というのかな)
不十分な才能しか持たない共演者にも、演じる状況が現実のものだと錯覚させるほどの力。それによって、必要とされている演技を相手役から無理矢理にでも引き出す能力。
それほど修一の演技はいつも真に迫っていて、この場面に入るといつも、垣は本当に修一が傷を負っていて、自分の掌の下に血のぬめりを感じるような気がする。
(結局オレはこいつの『演技力』にカバーされてるんだ、いつも)
虚しい想いが駆け抜けた。傷ついたプライドに突き刺さってくるその想いを持て余している垣の腕に、脚本通り修一の体が倒れ込んでくる。
「?」
受け止めた瞬間、垣は戸惑った。相手の体は泣いているように小刻みに震えている。ここはそんな演技だっただろうか、と思い返して、脳裏に雅子の失踪や陽一の愛人のことが閃いた。
(修一…?)
「周一郎…?」
「ひど…いな……傷……とこ………つかむ…だから…」
掠れた声が夢現のように零れ落ちる。
「ルト…………ルト…。眠い……もう………何も見たくなぃ……」
聞いている方が切なくなるような声、ふと、昨夜、修一が同じ声音で『ると』を呼んでいたのを思い出した。それと知らず修一の事情に踏み込んだ自分が、わからないまま周一郎の傷を掴んだ滝と重なる。
傷つけてしまったのだろうか、さらになお。
(ああ…そうだよな)
意識してなかっただろうが、滝もそうやって怯みかけただろう。そうして勢いよく離してしまった自分の手を、その下でぬめっていた血の感触を、再び掴み直そうとするのか、迷っただろうか、今の自分のように。震えている体を支えて、それとなく大丈夫かと聞いてやろうとしただろうか、今の自分のように。
その迷いを断ち切るように、くい、と腕にかかった『周一郎』の手に力が加わり、相手は体を起こした。そのままゆらりと揺れて、後ろへと仰け反りかける。
「おい!」
はっとして『周一郎』の腕を掴み直す『滝』を、一瞬物憂げな瞳で見つめて、
「すみ…ません、滝さん…そこの……ウィスキーのビンを…」
「あ。こ、これな」
少年の肩にこれでもかと彫り込まれたような傷を認め、真紅に染まったシャツを目にしてうろたえた『滝』がウィスキーのビンを手渡すと、『周一郎』は小ビンをくるりと逆さにして中身を傷にぶっかける。ぎょっとする『滝』の前で、きつく唇を噛んだ『周一郎』は、数分の沈黙の後、ようよう口を開いて呟く。
「これで…血の臭い……しないでしょう…」
掠れた声には危うい色っぽさがある。見惚れる周囲が微かに唾を呑み込むのを聞き取って、垣は唸る。
「そりゃ…しないだろうさ」
ぶっかけたのは酒ではない、ただの色水、それでも濡れたシャツや首筋に流れ落ちる雫は蠱惑的だ。見せつけて視線を集めた後で引き抜くように身を引いて立ち上がる、修一の演技は隙がない。
「先に…行って…下さい……すぐに……行きます…」
台詞の余韻を残して修一は部屋を出て行き、ぱたりと閉められた扉のこちらに、垣は一人取り残される。




