2
「少しは落ち着いたか?」
「うん…」
修一はホットミルクのカップを両手で包み、声が震えるのを何とか押さえようとしていた。胸の底が、まだショックで震えている。
ここは修一の部屋だ。いつものソファに埋まり込み、前には垣が座っていて、コーヒーを飲みながら、時々心配そうに修一を見ている。宮田と呼ばれた男は部屋の隅で、修一の父母に連絡を取っている。ただの事故と見るわけにはいかない、と判断したらしい。
ともすれば、カチカチと噛み締めた歯が音をたてそうになるのをやっと堪える。
目を閉じても、さっきの出来事が容赦なく甦る。
(え……?)
押された瞬間、振り返った修一は、人混みに紛れ込むベージュのコートの後ろ姿を捉えていた。自分がどうなっているのかに気づいた時には既に体は前へのめっており、近づきつつある車が自分を引き潰していくことは間違いない。
(死ぬ?!)
閃光のような悲鳴が胸に溢れた。身体中の神経が麻痺し、周囲が真っ白になる。体が強張って、見開いた目には車の凶暴な姿が、耳には地面を揺らせる唸りが近づきつつあった。
(おとうさん……おかあさん!)
心のどこかで素直に助けを求め、もう少し違うところで嘲笑じみた声が囁いた。
(父親は仕事か愛人のところさ、母親も仕事か……あの電話の主のところだ)
そうだ、誰もお前の側にはいやしない。
(でも……でも!)
修一の心は相反する二つの想いに引き裂かれ、絶叫して砕けていった。蝶が蜘蛛の巣にかかったように、1秒毎、数cm刻みで近づく死の影に絡みつかれるのを、痛いほど感じる。幼い頃の、まだ父母ともに仲が良く、修一を2人して育んでくれた思い出が、走馬灯のようにきらきらと脳裏に巡る。
(死んで? おとうさんは嘆く? おかあさんは……嘆く…?)
いや、どちらも、本当には嘆いてくれないのではないか。
記者会見ではもちろん2人とも泣くだろう。母はわあわあと、父はひっそりと。
けれど、どこまでが本当の涙なのだろう。どこまでが本当の哀しみなのだろう。
(全部嘘かも知れない)
焼けつくような痛みを感じた。
(全て『仕事用』の姿かも知れない)
そんなはずはない、と否定出来なかった。突然吹き出したどす黒い想いを拒めない。無防備な心が削られる。
(ああああ…)
心の中で泣き声とも悲鳴ともつかぬものを振り絞った修一は、次の瞬間、ぐっと体が押しとどめられるのを感じた。不審に思う間もなく、鳩尾に何かが突き当たり、自分を車の進路から跳ね飛ばしていく。
「あぅっ…」
小さく呻いて、修一は突っ込んで来たものともども後ろへひっくり返り、投げ出された。路面に叩きつけられる。痛みがぼやけた意識に鮮烈な波紋となって広がっていく。陽炎のように揺らめいていた視界の一点に、ようやく焦点が定まってきて、目を凝らして見つめた。
路面上に寝そべった長々とした姿。その物体は、やがて身動きしてむくりと体を起こし、きょろきょろと辺りを見回して修一を見つけ、見つめ返す。
それが『垣』だとわかるまでには少し時間がかかった。
「怪我は?」
遠い所から問いかけてくるような声だった。
(垣さんが)
助けてくれたの、と尋ねようとしたが、ことばにならなかった。先に投げられた質問の意味が、ようやく心の中に形を成し、震えを止められないまま首を振った。
垣が何かを叫んでいる。ただ、それが自分に向けられているものではないとわかった修一は、放心した。
(誰が、僕を?)
明らかに殺そうとしたようだった。煙る意識の中で思考が跳ねる。
(どうして、僕を?)
周囲の騒ぎが遠かった。エアポケットに落ち込んだように、白々とした世界に修一は浮いている。ショックが心の柔軟性をオーバーしてしまった。感覚の針が振り切れた、そんな気がする。
ふいに顎を持ち上げられる感じがあって、次の瞬間、修一は少々アニメチックな牛乳ビン底眼鏡と向き合っていた。近々と自分を覗き込む相手に対する意識はなかった。心が麻痺してしまっている。
「!」「!!」
喚き声が重なり修一は立たされた。生身の操り人形になったようで、1人で何かをしようという気にならない。支えを抜かれると、そのままへろりと紙細工のように座りたくなる。
揺れた体を側に居た垣が支えてくれた。そのままマンションの最上階まで連れて上がってくれ、部屋に導き入れてくれ、修一にホットミルクを与えてくれた。
それを思い出すと、ようやく歯が鳴るのが納まった。




