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この雰囲気は何だろう。修一に腹を立てているわけではない。修一のことなど意にも介していない。けれど、苛ついている、今にもヒステリックに叫びながら、物を投げてきそう。ああそうだ、殺気立っている。
(お母さんをこんなに苛々させる人なんて居たかな)
修一が今の収録に関わっているスタッフの顔を思い浮かべ始めた矢先、部屋の電話が鳴った。瞬間、怪鳥のような素早さで、雅子はソファから飛び上がり突っ走り、電話の受話器を掴み取った。耳に当てるのももどかしく、一気にことばを吐き出す。
「もしもしっ、あたしですっ、えっ、ええ、そうよ、現金よ、すぐに…えっ」
壁を凝視した目が見開かれる。
「そんなの、今までの10倍じゃないっ…いいえっ! 欲しい、欲しいわ! わかった、いつもの所ね、8時に、ええ、きっと、とにかくもう、限界なの!」
悲鳴じみた声だった。懇願と哀訴がないまぜになった声、友樹雅子の、演技の中ではない現実の、これほど悲痛な声を今まで誰が聞いただろうか。
だが、受話器の向こうの人間はそれを重く受け止めなかったようだ。うろたえた様子で頭を振る雅子を見ていたように、微かな高笑いが響いた気がした。
がしゃん、と放り投げるように受話器を置いた雅子は、すぐにソファに取って返し、灰皿に放置した煙草を見向きもせず、セカンドバッグを掴んで身を翻す。
「おかあ」
「急いでるの! お金なら佐野に言いなさい!」
修一を振り返ることはなかった。部屋の中を駆け抜け、外へ飛び出していく。すぐにばんっ、と激しくドアが閉まる音が響き渡った。
「……何だろ…」
茫然と雅子を見送った後、のろのろとソファに戻り、燻っている煙草を押しつぶして消した修一は、真下に落ちているものに気づいた。
「…何か、落としていったね、『ると』」
『ると』は毛布と一緒に容赦なく転がされていたが、ちょうど寝そべった状態で落下物を眺めているような格好だ。
その視線に促されるように、修一は手を伸ばして丸く固いものを拾い上げた。
透明な小瓶だ。指先より少し太い。中に粉っぽいものが入っていたのか、内側はうっすらと白く曇っていて、底の方に薄青い細かな欠片のようなものがこびりついている。
「これ…? …っ!」
再び電話が鳴った。
「おかあさん?」
何か忘れたのだろうか。それとも修一にあまりにも邪険に当たり過ぎたと、冷静になって連絡をしてくれたのだろうか。
いそいそと受話器を取り上げる修一の耳に、粘りつくほど甘ったるい響きの声が囁いた。
『もしもし…わかるぅ? あたし、わ・か・こ。若子、よ』
「…番号をお間違えのようですが」
(またいたずら電話かよ)
佐野にきっちりしてもらわなくちゃ、と受話器を耳から離しかけたとたん、
『間違ってなんか、ないわぁ』
嘲笑うように声が応じて眉を寄せた。
『あなた、誰ぇ?』
「…どちら様でしょうか」
『あ、はぁん……修一くんだ? あの人の息子。そうでしょ』
(あの人?)
『ねえ、もう帰ってるぅ?』
脳裏を掠めた顔に修一は目を細めた。
「誰のことですか」
『決まってるじゃない、陽一よ、よ・う・い・ち。いないのぉ?』
隠してるんでしょう、と言いたげな含み笑いに吐息する。
「いません」
『嘘はだめよ。若子だって言ってくれれば、すぐにわかるわ、坊や』
「いないのに、伝えようがないでしょう」
周一郎ばりの冷ややかさだな、と思った。
『そう…残念。また掛けるけど……あなたでもいいわよお、修一くん、あたし、年下の子との相性もいいんだぁ、わりと体だって…」
がちゃんっ!
修一は受話器を叩きつけた。そのまま数秒、押さえつけている手から血の気が引くまで押さえ続ける。その分上った頭の熱を、唇を噛み締めて堪え、徐々に息を吐いて力を抜く。
「……わかこ、だってさ、『ると』」
ずきずきするのは頭か胸か、それともこの間切った指先か。
脳裏を過った別の顔に、思わずほう、と息をついた。
(垣さん)
くるりと向きを変え、修一はジャケットを羽織った。
外出時には高野か佐野に連絡するのがルールだったが、この分じゃ母親か父親かに佐野がついているだろう。ましてや、今のぎらぎらした顔を高野に見られるのは嫌だった。1人で歩いて、気を逸らしたい。
「垣さんを呼んでくるね」
転がっていた『ると』をそっと抱き上げ、ぽんぽんと埃を叩き、ソファに座らせる。雅子が踏みつけた毛布は洗濯籠に放り込み、新しい毛布を出してきて『ると』を包んでやった。
「大人しく留守番してろよ」
軽く片目をつぶって笑いかけ、部屋を出て行く。




