3
「たーだいまっ、と」
足取り軽くドアを開けて、修一はマンションの部屋に戻ってきた。
「今日は早く終って良かったですね」
高野が背中から声をかけながら、続いて入ってくる。
「うん! ほら、まだ夕方だよ!」
ぽん、とソファに飛び乗りながら、修一は上機嫌で答えた。
「何にします? 紅茶ですか? コーヒーですか……それともホットミルクですか?」
いつものように几帳面に高野が尋ねる。
「何でもいいよ」
それほど喉も乾いていないし、これといって飲みたいものもない。だから何でもいいや、そんな程度に気軽く応じた。
「『ると』っ、ただいまっ」
ひょいとぬいぐるみの首ねっこを摘んで持ち上げ、その鼻面に自分の鼻を押しつけた修一は、動きのない、いやそれどころか、答えのない高野の方を訝しく見やった。
うろたえるかと思った高野は、世にも奇妙な表情でこちらを見返してくる。
「……どうしたの?」
「あ…あの…」
複雑な表情、引き攣っているのか驚いているのか、まるで鼻先で風船が割れた子犬のように、ぴん、と体を張って止まっている。こういうのを何て言うんだっけ、と修一は一瞬視線を泳がせて考える。
うん、『鳩が豆鉄砲を食らったような』、か。
(豆鉄砲って何だったっけ?)
違う方向へ思考を外しかけた修一の注意を引きつけるように、高野が口を開く。
「あの、何でもいいって」
「うん、何でもいいけど」
おかしなこと言ったかな? ちゃんとした日本語だよね?
「変な高野さん」
思わずくすりと笑うと、相手はなおさら奇妙な顔になった。
「あの…」
何度か唾を呑み込み、ようよう高野はことばを絞り出した。
「何か、言って下さい」
「は?」
「その…」
もじもじと不安そうに体を動かす。
「何でもいいって言われると、逆に困って…」
「ああ、そうか、うん、そうだよね」
ようやく腑に落ちた。命令に慣れているから、命令されないと動けなくなるってわけ。
準備しやすい好きなものを選べばいいのに、と思いながら、修一は思わずくくくっ、と喉の奥で笑ってしまった。
「じゃ、紅茶」
「はい! 紅茶ですね!」
ほっとした顔で、いそいそと高野がダイニング・ルームに駆け込んでいく。
やれやれ。
「佐野さん」
修一は『ると』を抱きかかえながら、背後を振り向いた。
「はい」
二人のやりとりをじっと見守っていたらしい、佐野のひんやりとした黒い瞳にぶつかった。
「明日のスケジュールは?」
「映画撮りがメインです。休憩の間はCDとDVDと色紙にサインを」
「いいよ、何枚?」
再び『ると』を覗き込む。
「各500枚ほど。販売促進用ですので、それほど数は不要です」
全国のショップにばらまく予定ですが、小さな店には置きませんし。
「各500枚、ね…」
さすがにちょっと溜め息が出た。
(それって休憩なしってことだよな)
脳裏を横切ったのは、撮影の合間に細かな仕事を言いつけられている垣の姿。役者だけじゃ食っていけないからな、とスタッフに苦笑いしていた横顔を思い出して、微笑んだ。
「でもいいや、出来なくはない。ね、『ると』」
(だって、垣さんだって役者の合間にスタッフの仕事をしてるんだし)
修一がサインをするCDやDVDや色紙が、映画の人気の後押しをしてくれたりファン層を広げてくれるなら、それは垣にとっても嬉しいことだろうし。
(少しは頑張ったなって言ってくれるかな)
『ると』のガラス玉の瞳は肯定するように修一を見上げてくる。
「紅茶、入りました」
高野が盆にティーカップを載せて戻ってきた。
「ありがとう」
修一がかけたことばに、高野はがちん、と置きかけたカップをテーブルにぶつけた。
「あ、す、すみませんっ」
(何慌ててんだろ)
不思議に思いつつも、
「高野さんや佐野さんも飲んだら?」
また一瞬高野の動きが止まり、けれど今度はすぐに動き出して、何か佐野と意味ありげな目配せを交わした。
「残念ですが」
佐野が淡々といつもの口調で応答する。
「私はまだ仕事が残っていますので」
「仕事?」
修一はきょとんとした。佐野が修一が上がってからも仕事を残すのは珍しい。ふと気づいて尋ねてみる。
「……おとうさんの?」
「ええ、まあ」
佐野はことばを濁した。これもまた珍しい。けれど、そう思ったのは一瞬、修一はすぐに高野を振り向く。
「高野さんは?」
「あ、と…今日は駄目なんです、すみません、修一さん」
「ふうん…」
「では、これで失礼します」「次、お付き合いしますから」
「うん」
佐野に引き続き、そそくさと高野も部屋を出て行ったのを見送り、修一は小さく吐息をついた。




