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「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
いつものように佐野が声をかけ、高野とともに修一の部屋から出て行ったのは、もう23時近かった。
「ふ…ぅ」
映画撮りでは26時、27時なんてスケジュールもある。時間が遅いのはそれほど苦痛じゃない、映画に没頭していれば、それほど続いた時間でさえ、もっと続けばと思うことがある。
「……感覚ないし」
ソファにぐったりと埋まり込みながら、右手をのろのろとマッサージする。痺れて固まって、自分のものではないようだ。
今日一日で書いた色紙は、500枚は越えたかもしれない。続いたグラビア撮影では、異常に細部に拘るカメラマンと、指示を全く理解出来ない照明スタッフの組み合わせという史上最悪のカップリング、同じことを数時間ぶっ続けにやらされ、しかも挙げ句に『笑顔がないよ、修一くん、ファンが見たくない顔だ』なんて、自分の仕事が何なのか、何をやってるのかわかってないんじゃないか。気持ちよく笑わせて気分を乗せてきっちり撮って仕上げてくれる人もいるのに。
(あいつらサイアク)
くたくただった。いや、体はもうここから動きたくないほどくたくただったが、神経の方は苛々とした不快感で詰まっていて、細かな一本一本まで逆立っているような気がして、全く落ち着けない。
「…………」
無言で部屋の隅のボックスにうずたかく積まれた『プレゼント』と『手紙』の束を見やる。ホームページの掲示板に書き込んだりや公的なアドレスに切々と心情を送りつけたりしてくるファンも多いが、今もこういう『直接的に』届く方法を好むファンも多い。
『出来る限り目を通して、ファンサービスに努めて下さい』
佐野のことばが鼓膜に突き刺さっている。
「……疲れたって……」
はあ、と大きく息を吐いて天井を見上げ、目を閉じた。
「『ると』…」
修一はぼんやりと呼んだ。
「あれを何とかしなきゃね。明日になったらまた増えるからさ」
呟きながらも、ぐったりとした四肢は石化の呪文をかけられたようにぴくりとも動かない。深々と息を吐き出しつつ、思い出す。
(学校もしばらく無理だな)
ひょっとすると卒業式まで行けないかも知れない?
「……ちぇ…」
修一の進学を受け入れてくれる高校は既に決まっていた。だが、日々、年を追うごとに殺人的になってくるスケジュールのどこに、学校の時間をひねり出せというのだろう。
「『ると』……疲れたよ。もう、動きたくない」
溜め息とともにぼやいて、それがどれほど贅沢なことかと考える。動かなくては生活できない。この部屋の中までは高野の手は届かない。
しばらくぼんやりとソファに身を任せていた修一は、閉じていた目を開き、のろのろと体を起こした。居間を見回し、青灰色の猫のぬいぐるみが、いつの間にか、プレゼントと手紙の側に置かれているのに苦笑する。
「おまえをそこに連れてったの、佐野さんだろ、『ると』。あの人のやりそうなことだよな」
佐野は『ると』が修一の心にどんな位置を占めているのか熟知している。
「……乗るしか、ないんだよね…」
ゆらりと足下をふらつかせながら、修一は立ち上がってぬいぐるみの側に近寄った。こちらを見上げている金目の猫に笑いかけ、その近くにぺたりと腰を降ろして、つん、とぬいぐるみの額を突く。ころんと他愛なく後ろに転がるぬいぐるみに少し笑い声をたてて起こしてやり、溜め息を一つついて仕事にかかった。
「1つ、手編みのマフラー、編み目がたがた。1つ、手編みじゃないマフラー、凄い配色。1つ、ペア手袋…2つとも送ってくるのは訳わかんないな。1つ、焦げたクッキー、賞味期限不明。1つ、瓶詰めのキャンディ、甘いの好きだって言ったけ?」
一休みして、溜め息を再び。色とりどりのリボンと包み紙が辺りに散らばっていく。
「1つ、ミニカーの置物、ガキじゃないし。1つ、マフラー、じーさん用か? 1つ、ミニカー、ああ車の模型嫌いじゃないって言ったっけ。1つ、バスタオル、イニシャル入り、何考えてんだか。1つ、野球帽、人の趣味を決めつけてるね。1つ、金鎖、趣味悪。1つ、銀製キーホルダー、何だろこの鍵……自宅とか? はぁ」
プレゼントの中身に罵倒を繰り返しながらも、何を贈られたか、何が多かったか、情報データはきちんと頭に入っている。インタビューで尋ねられることもあるし、返答によってはとんでもないプレゼントを回避できるのだから、もちろん、無駄な作業ではない。
それでも似たようなものばかり出て来て、20個近く開けたところで飽きた。包み紙とリボンの海に溺れかけていた『ると』を抱き上げて救出し、場所を移動する。
「手紙も似たような内容なんだろな、『ると』」
呟きながら手を伸ばす。
掲示板の書き込みやメールの返事は、基本はテンプレートとそのバージョン替えだ。専門のスタッフがそれ相応に対応してくれているし、書き込みや送られたメールで特徴のあるものは知らせてくれる。もちろん、怪しげなものは省いてくれるし、有害なものー時に、修一をキャラクターにした、二度と読みたくないような凄まじい小説が贈られてくるーは削除してくれ、以後、その相手とのやりとりを封じてくれる。
ただ手紙はこだわりのある相手からのものが多く、書式やレターセットの意匠に凝る相手もいるので、全部は読めないけれど目は通してます的な対応をするために、修一に直接送られてくるのが常だった。だからこそ、注意はしていたのだが。
「っっ!」
手近の分厚い手紙の封を切ろうとして、顔をしかめた。
「、ドジった」
指先に走った鋭い痛み、取り落とした封書の上部にきらりと光るもの、よく見るとカミソリの刃のようだ。握った指先から見る見る赤い液体が膨れ上がり、手紙の束の上に落ちる。
「くそ…」
やっぱりちょっとボケ過ぎだ、と周囲を見回したとたん、がちゃりと玄関に続く廊下とリビングの境の扉が開いてぎょっとした。
「あの」
指先をきつく握ったまま振り返り、居心地悪そうにもぞもぞと内懐から何かを出そうとしている垣を見つける。
「…垣さん」
何でこんなところに居るの?
思わずそう尋ねようとした矢先、
「チャイムを鳴らしたんですけど、答えがなかったので、あの、けど、不法侵入するつもりはさらさらなくてですね…」
言いかけた垣の目が修一に、続いてその指先に止まる。見る見る目を見開いた垣は、
「怪我をしたのか!」
呆気にとられる修一にお構いなし、散らばったリボンや包み紙を容赦なく踏みつけて飛び込んでき、傷を覗き込んだ。
「垣、」
「何ぼうっとしてる!」
きつい調子で一声、近くのリボンを掴み、指の根本をきつめに縛る。
「えーと、それから何か押さえるもの…と、これでいいか」
プレゼントの中にあったタオルに目をつけ、それで修一に指を押さえておくように命じた。
「救急箱は!」
「あ、あの、そこの棚、かな」
勢いに押されて思わず応えると、再びリボンや包み紙を蹴散らしてそちらへ駆け寄り、目当てのものをすぐに見つけて戻ってくる。




