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上品な調度類を配置した部屋、窓に向かって男が一人、肘掛け椅子に腰掛けている。歳の頃22、3か。俯き加減なのは、膝に載せた小さな冊子を読んでいるからだ。と、突然、その白い紙面にぽとりと光るものが落ちた。
「周一郎…」
低く押し殺した声が、しとしと降る雨の合間に滲むように消える。男の肩が僅かに震えている。白紙のページを繰る指が一瞬ためらうように止まり、再び目元から何かが光って落ちた。
静かな雨の音、重く沈んだ薄青い空気感………。
「カァーット!!」 カチン!
銅鑼声が響いた。続いたカチンコ、夢から醒めたように人々が動き出す。
「いいぞお、垣君! 珍しく一発だ!」
「垣さん!」
いささか不似合いな三つ揃いを身に着けた少年が、何かを隠すように半分背中を向けている男のところへ駆け寄り、訝しそうに計算された絵になるポーズで相手を覗き込んだ。
「垣さん?」
「……」
「あ…ほんとに泣いてる!」
「っ!」
男はぎくりと体を起こし、慌ててごしごしと手の甲で目を擦りながら応じる。
「泣いてないよ」
「うそだ。じゃ、これ、何なの?」
ちょいと差し出された細い指先を男は不愉快そうに避けた。
「これ…は鼻水!」
「へええ、垣さんて、目から鼻水出るの!」
あははは、と朗らかに笑う少年の顔には、人懐っこい笑みが溢れている。年齢13、4歳。まだまだ幼い、けれども整った顔立ちの少年は、映画ファンなら一度や二度は見ている名子役、友樹修一。両親とも日本アカデミー主演男優・女優賞を受賞し、この世界での血筋を証明されたサラブレッドだ。
「で、出る時は出るんだ!」
「ふう、ん」
焦った男は垣かおる、修一の相手役として一般公募で選ばれた。駆け出しの役者で修一より10歳以上年上の25歳、だが今のところ完全に修一に呑まれた状態だ。
「修一さん!」
監督に向かって何かを話していた、ジーンズにセーターの20代半ばの男が声をかけて、修一と垣に近づいてきた。
「佐野さん、怒ってますよ。もう録画撮りの時間でしょ」
「え? もう?」
少年は手首の時計に目をやって体を起こした。
「ほんとだ! 垣さんほら、急がなきゃ」
「う、うん」
「高野さん、車」
「こっちです!」
踵を返す男に修一は急き立てて走り出す。後ろから垣が慌てて従う。
「急いで!」「あ、ああ!」
撮っている映画の舞台となっている、レンガ塀に囲まれた豪勢な屋敷の玄関を出ると、黒塗りの車が3人を待っていた。運転席に座っていた上品な灰色のスーツを鮮やかに着こなした女性がちらりと3人に目をやる。
「だめよ、修一君」
「すみません、佐野さん」
ちらっと舌を出して、修一は後部座席に乗り込んだ。佐野は切れ者マネージャーだけに時間に厳しい。続いて高野が助手席に、最後に垣がかなり遠慮しながら乗り込もうとし、足をかけ損ねてこけた。
「でっ!」
「垣さん!」
はっと修一が腰を浮かせるのを視線で制して、佐野は淡々とからかう。
「そこまで演技しなくても結構よ、『滝さん』」
「は、はあ」
赤くなった垣が慌て気味に座席に滑り込むのに、修一はくすくす笑った。
「勉強熱心なんだよ、ね? 『滝さん』」
「ど、どうも」
ますます縮こまる垣に助手席の高野までにやにや笑いを顔に広げる。