泥とろけ二人まざり
「それでね!それでね!」
放課後の教室、私達以外には誰もいない中、彼女は今日も私に語る。
その大きくて綺麗な瞳に私ではなく、ここにいない彼を映して、楽しそうに語るのだ。
童話に胸を膨らます少女のように、春を告げる鳥のように、晴天に照らされる向日葵のように。
──そうして彼女は恋の話をする。
彼女の一番の『友達』である私はそれを……それを……。
「もう聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる。」
嫌というほど
嫌とは決して言えないけれど
「投げやりだなぁ。それでね、彼ったらね!私の手をこう…取って」
私の手は今、彼女の手なのだろう。
実演してみせる彼女のそれは男性の手とは全く違って、柔らかくて小さくて、ただ暖かくて。
彼女が語るドキドキは一ミリも伝わらないけれど、彼女の手に包まれる私の手は、私の心臓はただただ熱くなっていくのだ。
「それで好きだよ、って!もうきゃー!って叫び出しそうになっちゃった」
多分それは美しいものだ。
みんなが好きなものだ。
そして、当たり前とすら認識するまでもないものだ。
だけど、それは私にとって美しいものでも、好きなものでも、当たり前でもない。
つまり、男女の恋愛話ともなれば、友達同士でわいわいとかしましく楽しいもの。
からかって、茶化して、ちょっと親身になって
当人も恥ずかしさと高揚感を思い出話として、その恋人との一度目の後に二度目の美味しさを味わえる。
そんな感じのちょっと秘密感のある会話──きっと私の事を『一番の友達』だと常々言ってくれる彼女もまた、そんなノリでいつも話してくれるのだ。
私にとっては聴きたくないことを。
「そんな素敵な彼氏さんなら早く会わせなさいよ〜 沙織にいつも惚気を聞かされる文句を言いたいから」
「だーめ! というか、どうやって紹介するの〜!」
せめて、せめて、せめてせめてせめて。
一度でも、少しでも彼女がどこかの男と腕でも組んでる姿を見れれば諦めもつくのに、彼女は頑なまでにそれを拒む。
だからずっと苦しいままだ。
全身に大きな傷があって今なお出血し続けているのに、それを止めることすらままならない。
身体のうちから上がる熱とは裏腹に私の指先からどんどん凍りついていくかのよう。
それほどに苦しい。無邪気な彼女の一切が私というものを抉るのだ。
──それでも。
彼女から与えられている。
いや、与えられていると……そう錯覚しているだけだったとしても。
それだけで、私は嬉しいのだ。
ただ、ただただ、苦しいだけの恋バナを普段と変わらないテンションで、付き合うだけで火炙りにされている気分なのに。
だけど、例えそれが底のない谷に身を投げているのだとしても、落ちている間は心地いいのだ。
ただ。
本当にただ、
彼女と話している。
それだけがどうしようもなく、甘くて心地よい。
私の恋は、いつのまにかそういう形になった。
きっとこれは、一番の親友だと信頼してくれている彼女に対する罰なのかもしれない。
私と彼女のそれは違う。
彼女にとって友情の些事が、私は恋の1ページなのだ。
だから罰。
裏切りの──罰だと、
そう思うとその苦しさすら、気持ちいい。
ああ、そんなのただの自己陶酔だと頭の片隅でわかっているからこそ、気持ちいい。
全てが終わってる感覚は、灰色の世界はどうしてこんなにも汚いのに心地よいのだろうか。
私の恋はいつのまにか、私自身の一切もいつのまにか、そんないびつな形をしていた。
「でもね、やっぱり面倒だなって思うこともあるんだよね」
夕陽に照らされる彼女の顔。
窓の外を憂うような視線を向けたかと思えば、次にはまた私の方を向いて、再び私の手を取っていた。
ぎゅっと掴んで、指を絡めて。
そんな手を見ながら彼女は続ける。
「こうやって握っていて、一番落ち着くのはこの手なんだよね〜。あ!でも他の友達だとまた別だし、やっぱユカだけなのかなー?」
「そう?気のせいよ」
「ううん!やっぱりね、好き。小さくて柔らかくて…暖かい」
──じゃあさ、
なんて言葉が喉で詰まる。
その先は彼女も私も望んでいない。
滅びの言葉だ。この関係がどんな形になるのかは分からないけど、少なくとも一歩踏み出してしまう言葉だ。
それはいつか必要なことだろうけれど、今は──まだ──いらない。
手を握る、会話をする、二人っきりで放課後の教室で──なんて青春なのだろう?
それも恋人ではないけれど、好きな人と。
手を握る?何処かの誰かの男と?
そうしたら私はきゃーっと叫ぶだろうね、気持ち悪すぎて。
好きだよ、なんて言われたら吐くかもしれない。いや、吐いてやる。
ユカ以外から、そんな言葉はいらないから。
──きっかけは偶然だった。
私と従兄弟が買い物をしている時に、ばったりとユカに出会った。
すぐに説明をして、彼女も納得してくれたようだったけれど、
その時に初めて見る表情があった。
一瞬だった。だけど、私は見逃さなかった。
黒く、鈍く、黒く黒く、ぐちゃぐちゃに混沌とした表情を。
それ以降、時々男の話を出すと、それが嫉妬──ないしそれに近しいものだと、気付いた。
つまり、私と彼女の想いは同じだと。
めっちゃ嬉しかった。
あとは一歩踏み出せば──そんな高揚感で満ち溢れた時、私は人生で一番に幸せだったと思う。
────だけど、同時に私の中には悪魔がいる事を知る。
綺麗なあの顔が! 愛してやまないそれが! 女性的でありながらかっこよくて美しいそれを!
『私なら歪ませられる』
彫像に泥を塗りたくるような感覚は。
真っ白な紙を引き裂くような高揚感は。
大きな一枚のガラスをハンマーで殴り割るような気持ち良さは。
どうしようもなく、最高に気持ちよかった。
独占欲、優越感、虚無感、破壊衝動になんか他にも色々。
ありあらゆる私の泥が満ちたのが心地よかったし、嬉しかった。
そして、また、その泥で彼女を汚すのが快感だ。
だから私は今日も嘘をつく。
ごめんね。
存在しない誰かとの、少女漫画のコピーみたいなエピソードを話す。
ごめんね。
ユカ自身は気付いていないかもしれないけど、他の誰にも分からないかもしれないけど、私にはその表情に一瞬見える貴女の苦しい顔が大好きだよ。
いつか、いつか、私は全ての罪を償わなければならない。
あなたを汚し、弄んでしまった事を。
でも、ふと考えてしまうの。
もしも、私の全ての悪を話した時、ユカの想う私がこんなにも汚れていると知った時、
────ユカはどんな顔を見せてくれる?
だから、ごめんね?
贖罪の時はもう少しだけ、先。
その時にユカの全ての感情を受け止める、殺されてもいい。
だから、もうしばらくだけ、一緒にこの苦くて甘い時間を過ごさせて──
とまあ、私は可哀想なカタコイを演じる。
普通を装っているふりをして、心でなく少女を演じるのだ。
彼女の嘘を知りつつ。
彼女はその嘘で私が傷ついていると思っていて、
私はそれを知っていてなお、傷ついたフリをして、
私たちに勇気がなかっただけで、ここまでこじれてしまった。
彼女は気付いていないだろうけど、私の表情を見る彼女もまた、特別汚い顔をしている。
とても楽しそうで、それがとても愛おしい。
──じゃあ、私と付き合う?
喉に引っかかったそれを言葉にした時、全てが動き出す。
その時には言わずとも、だけどいつか必ず彼女は今までの嘘を告白するだろう。
私のいっぱいの苦悶の表情を期待して。
だけど、私はそれには応えられない。
その裏切りを知った時に彼女はどう思うだろうか。
────それでも私といてくれるだろうか?
ただ勇気がないだけなのだ。
この地獄のような微睡みですら、住めば都なのだ。
変わるのが怖い。
変わる事を思うだけで苦しい。
歪んでしまった。
こんなにもお互いに傷付いているのに、それでもあと一歩が出なくて、苦しんでいる。
滅びの日はやってくるだろう。
だけど、だけど、だけど、
お願い、もう少しだけ。
私たちがお互いに向き合う時に、私は私の罪を全て償うから。
私の傷が二度と塞がらなくてもいいから──
それは今はまだ、いらない。