雨は好きになれますか?
──雨は昔から嫌いだった。
だった、と言うと少し違う。今でも雨は嫌いだ。
何かと陰鬱で、靴は濡れるし、髪の毛が細い私ははすぐにモジャモジャして朝は一苦労だ。
幼稚園の頃から周りより身長が高かった私は傘を差しても完全には雨を防ぎきれないし。
うん、やはり嫌いだ。
「あーもうめんどくさい〜」
「先輩ほら駄々こねないで下さい」
「なによう、子供扱いするなあ!」
湿気たっぷりの空気をかき回す程度にしか効かない空調のおかげで、古い本の香りだけが鬱陶しく纏わりつく。
それでも窓際に座っているせいか、水に濡れた窓からは時折、肌を撫でるような冷気が流れてきた。
かと思いきやすぐに湿気が纏わり付いて、不快な暑さに辟易とさせられる。
雨の多い梅雨というヤツは生来の雨嫌いな私はもれなく嫌いな季節だが、中学に上がってからはさらに嫌いになったように思う。
そしてそれは高校生の今も同じで。
何故ならば五月のゴールデンウィークの余韻を吹き飛ばすように中間試験があったかと思えば、すぐに七月半ばに期末試験がやってくるからだ。
梅雨の蒸れた気だるさと、学業に対する無気力さが乗算的に心身にのしかかる。
そんな六月末の今現在を、どうやって元気を出せばいいと言うのか。
小さな腕をブンブンと振り回し、まるで小学生のような面白可愛い『先輩』という動物を眺めてようやく少しマシ、くらいだ。
「うう、面倒だあ」
「図書室では静かに、ですよ」
「シャーペンが五割増しで重いのだよう」
「はいはい」
共にノートを並べて座る先輩は既に重力への抵抗を捨てていた。
腕は机の下で力なく揺れていて、顎と左頬はノートの上で潰れて同化している。
先輩を軽くあしらいつつも気持ちはわかる。先日まではあんなに軽かったはずのスカートも、スクールバックも、今は全てが鉛のように重くなっていることは毎朝感じているから。
何かを訴えるように見つめる先輩は小動物的な愛らしさと、しかして同級生には感じない大人っぽさをほんのり見える。
思わず惹き込まれ、照れくささが爆発しそうになるけれど、それでも放課後に勉強しようと誘ったのは先輩ですよー、と言い返すように頰を指でつつく。
ノーガードの頰をうりうりとこねくり回すと、あにすんだあ、と嫌そうな顔をする割には抵抗は乏しい。
腕は依然として上がってくる気配はなく、ずりずりとノートの上を頭が動いているだけだった。
さっき暴れた事でもうエネルギーはなくなったしまったようだ。
一通り先輩の頰の柔らかさを堪能して指を離す頃には、先輩はもう注射を嫌がる犬のように唸りながら、こっちを睨んでいるだけだった。
睨むといっても、この先輩はどう頑張っても小動物なのだ。
ドーベルマンに睨まれたら怖いけど、ハムスターに睨まれても可愛い、もっとか?と催促されている気すらしてくるくらい。
つまりはそんな表情すら眼福なのでした。
「夏は何をしようか〜こーはい〜」
「冷やし中華でも始めますか?」
視界の隅で潰れる先輩の顔を捉えながら、私はシャーペンを走らせる。
それなりに勉強にはついて行けているとは思うが、苦手なものはいくつかあり、不安の目は潰しておくに越したことはない。
なによりも、図書室にはまばらではあるが他の生徒もいるのだから、和気藹々とおしゃべりを楽しむのはどこか気恥ずかしいのだ。
「私はごまだれで〜って違うよ、夏だから何かやりたいけど、それはそれでめんどくさいから麺を使いまわした冷やし中華を始めるラーメン屋じゃないよわたし達は」
「ラーメンって中華そばとも呼びますからね。というか無駄にリアルですね、それ」
「親戚がラーメン屋やっていてね〜」
「ほー」
「………」
「………」
「ほー、じゃないよ! …ううだるう」
「いきなり身体を起こすからですよ」
「でもだよ〜ほら夏だよ!夏!色々しようよ〜海とか、水族館とか、花火大会とかさ」
「したいですね」
「ええ〜乗り気じゃないの?もしかして嫌だった?」
不安そうな先輩の表情に反して私の頰が緩むのがわかる。
マイナスな気持ちに反応したわけではないけれど、コロコロと表情の変わる先輩は見ていて楽しい。
そして、可愛いのだ。
「笑ったな!なんだよう、じゃあもう言わないよ…」
「いえ、すみません、そんなつもりではなくて」
「ふん」
「先輩が可愛いなと思ったんですよ」
「んなっ──…ふん、そんなので騙されないよ」
「私も具体的な事を考えますよ、楽しみですからね。ですが、あーしてーこーしてーと考えると、それほど心踊らないんですよ。それよりも、昨日先輩と話した事とか、帰りに一緒に買ったアイスクリームの味を思い出した方が何度でもドキドキ出来て……なので多分、なんだって良いのです。先輩となら、なんだって楽しいから」
「わわわかった!わかったから!」
先輩は慌てて周りを伺う。
私とて、それを忘れていたわけではないから小声で言ったのに、先輩の声が大きくて視線を集めてしまった。
とはいえ、それに気付いて縮こまる先輩は可愛いから私は良し。
「でも私たちの家から海も水族館も自転車で20分もあれば行けますから、そこまで特別感はないかもしれないですね」
「いいんだよう、というかむしろ近過ぎて小学校以来、泳ぎに入ってないもん」
「私もそうです。江ノ島の花火も夏はめちゃくちゃ混むけれど、花火自体は15分くらいで終わってしまいますし」
「もちろん夏も秋も行くよ!」
「そうしましょう。あ、そうだ、夏といえばうちに泊まりにきますか?」
「ふぁ?」
「ほら、夏の定番じゃないですか、夏にお泊まり」
「い、いや、え?いや、ほら、え?」
目を回して、手を回して、先輩の中で唯一回っていないのは頭のようだ。
ハムスターがカニへ、あわあわと泡を吹きそうな慌てよう。
ずっと眺めていても面白そうだけど、この姿を見ているといたずら心が湧くというもので。
「何を慌てているんですか先輩? 先輩が後輩の家に遊びにくるだけではないですか」
「そ、それは…そうだけど……私たちはその、こ、こい……でもあるわけで……」
「先輩、聞こえませんよ?」
「こ、こいび……もうう、意地悪!」
口を尖らせたかと思えば、顔を背ける先輩。
そういった仕草が煽るのだけど、流石にこれ以上は機嫌を損ねてしまいそうだった。
とまぁ、そんな時に丁度よく17時を告げるチャイムが校内に響き渡る。
「すみません、先輩、からかいすぎました」
「ん。」
「帰りましょうか」
「ね、雨って好き?」
バスから降りて歩いていると、ふと先輩がそんな事を聞いてくる。
アスファルトを叩く雨の音はそれなりに強く、水を巻き上げて進む車の音も相まって、雑音のカーテンに閉ざされた世界で私と先輩だけになったような錯覚すら覚えてしまう。
我ながらなんとも都合の良い頭だろうか。
それでも一つの傘に二人でいれば。慣れ親しんだ道を歩いていても、どこか別世界だ。
──雨は嫌いだ。
「私はね、結構好きなんだ」
私が少し答えに困っていると、先輩がそのまま言葉を続けた。
「もちろん、湿気で髪はごわごわするし、折りたたみでも長くても、傘は持ち運ぶと邪魔だけどさ。それでもなんとなく好きなんだ。」
先輩は前を見ていた。
しかし、その目はどこか、もっと遠くを見ている気がする。
何が映っているのだろうか、雨と私と先輩での思い出なんて思い当たる事はない。
いや、一つだけあった。
中学で先輩に初めて出会った時のこと。それは台風の日のことで、緑化委員をやらされていた私は他の委員と一緒にプランターを屋内に避難させようとしていたのだけど、強風に足がもつれ、プランターごとひっくり返って泥だらけになってしまった。
その時にたまたま通りがかった先輩にタオルを借りた、それだけだ。
しかし、それから話したりするようになって、気付けば今の高校を選ぶ理由の半分が先輩だった。
ともあれ、もしも、先輩の瞳にその時のことが浮かんでいるのだとしたら嬉しい。
嬉しいけれど、恥ずかしいので思い出さないで欲しいとも思う。
でも、もしも、他の誰かとの思い出があるのなら知りたいと──私も相当にめんどくさい感情を持つようになったものだ。
雨は嫌いだ。
陰鬱で
無駄に高い身長のせいで傘を差すのが難しいし
靴が濡れるのも不快だ
──だけど。
先輩と歩けば、そんな陰鬱さも無く。
小さな先輩と歩けば、必然的に私が傘を持って先輩が肩を寄せる。
先輩と歩けば、靴の濡れなんて気にならない。
「──どうしたの?」
小さな顔に大きな瞳、小動物的な可愛らしさに嫌味がないのはその人柄の良さ。
優しく、ほがらかで、柔らかな先輩。
先輩となら──嫌いなものだって。
「私は、雨は嫌いです。今でもあまり、好きではありません──ですが」
「が?」
「好きなところも最近、見つけられました。」
「そっか、よかったね!」
「ですね」
「ですな!」
雨だったら、先輩といつもより近くを歩けるから。
「先輩」
「なんだい?」
「好きです」
「──う、いきなりだなあ。私も」
「私も、なんですか?」
「なんだよう、イジワル。 ……私も好きだよ」
「ふふ、では好きといってくれる先輩のお泊りには準備を頑張らないといけませんね」
「────!!」
梅雨はもれなく嫌いだけど、それはそれとしても、聞こえてくる夏の足音に浮き足立つなというのは不可能な話なのであった。