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ピアニシモ  作者: 岩尾葵
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メゾフォルテ

 僕たちの関係は最初からして、ただの偶然に過ぎなかった。例えばあの時僕が彼女と同じ講義を受講してなかったら、そして彼女が天才的なピアノの才を持っていなかったら、僕は彼女に告白するなんてことはなかっただろうし、きっと彼女は別の男のものになっていたに違いない。また、どういう理由か彼女が親元へ帰りたがらず、母から聞いた妹の妊娠について僕に相談をし、かつ自宅の代わりのピアノの練習場所として僕の部屋を選ぶ、といった一連の偶然がなかったのであれば、僕が彼女に触れられなかった事実が覆ることもなかっただろう。けれども、そんな細く繊細な音色しか奏でない糸が、いくつも集まり混じりあって束になるとき、変わらないと思っていた事実も同時に変動を迎えることがあるかもしれない。

 妹の懐妊の話を聞いた二週間後、彼女があの日懸命に練習していた「ラ・カンパネラ」を披露する機会がやって来た。試験に向けて課題曲をお互いに聴き合おうという、学科内での密かな練習コンサートが催されたのである。

始まってから数分で彼女の番になり、演奏が始まった。この曲の序盤はひたすら静かなピアノが続く。演奏開始直後、僕の頭に霧雨の古城のイメージが浮かび上がる。中盤から変化する、ピアニシモ。薄く緩く降りしきる雨の中で、レンガ造りの街並みを歩いている人々が、しだいに見えてくる。

だが、なぜかこの時はそこに僕と彼女が混じっているのが見えた。どこか温かみを欠いているような街並み、限りなく白に近くぼんやりとした雨。しかしそれでもかろうじて色彩を保っている、道行く人々、過ぎた建物、褪せた歩道。ただ霧の中を彷徨うように僕たちは古城に向かって静かに歩いている。

 だがそこから情景は一変する。最後、クレッシェンドとメゾフォルテ、そこから連なるフォルテッシモで強まる曲のインパクトを、情感を得た彼女が正確な指遣いと確かな表現力で弾き始める。突如として輝き始める音と音の重なり。前段階があってこその、拡大するボリューム、内臓にさえ響き渡らんばかりの力強い音色。例えるならそれは空間と光の躍動だった。コンサート会場では彼女の演奏を聴いていた者たちが皆息を呑み、その鮮やかなまでの曲の変貌ぶりに目を見張る。イメージの中では町全体を覆っていた霧雨がさっと鳴りを潜める。僕と彼女が圧倒的な存在感を持った古城を見上げ、ひたすらに立ち尽くす。城は町の建物と同じレンガ造りで、屋根の部分だけが綺麗な緑色をしていた。僕はそれを見て彼女に微笑みかけ、彼女も僕を見て頬に笑窪を作った。僕たちは手を繋いで城の中へと入っていく。赤い絨毯が敷き詰められた内部では、彼女の両親と妹、それにその小脇に抱える子どもが、笑顔で僕たちの入城を迎えてくれていた。

そして演奏が終わり、頭のイメージが未だその像を結ぶ、ごく僅かな時間。僕の周りの聴衆と、城で僕たちを迎えた彼女の家族が、皆一斉に、雨のような拍手を、送る。

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